第一章 緒方真一(二)

文字数 1,043文字

 真一は五年前、実家を出てひとり暮らしを始めた。
 1DKの賃貸マンションだが、この部屋の中にいる時だけは素の自分でいられた。作り笑顔をする必要もないし、何もしゃべらなくて済むのは有難い。でも一方で、完全にひとりの空間を持ってしまうといつか自ら……そんな不安を抱えてしまったことも事実だった。
 そんな不安から逃れるべく、休日は努めて外へ出るようにしていた。と言っても繁華街には足が向かず、町の本屋に寄ってから近くのせせらぎ公園で、買ってきた本を読みふけるのが最近の休日の過ごし方だった。
 
 ある日曜の午後、いつものように商店街の本屋で買った本を手に、真一はせせらぎ公園を訪れた。
 幹線道路から一本、道を入ったところにある細長い緑地帯の真ん中を、小さな流れが緩やかに涼を運んでいる。真夏は小さな子どもたちの格好の水遊び場になるが、もう十月に入った今ではその光景も見られなかった。脇のベンチに腰掛け、本を読み始めてしばらくたった時、
「あっ!」
 という声に真一は顔をあげた。見ると前を流れる水の上に、帽子が浮かんで流されてきていた。とっさに水に入り、帽子をすくい上げると、そこへひとりの高齢の女性がやってきた。
「すみません。帽子、ありがとうございます。あらあら、足が濡れてしまいましたね。申し訳ありません」
 声を上げた帽子の持ち主だとわかった真一は、その帽子を手渡し、
「大丈夫ですよ、どうぞお気づかいなく」
と答えた。
 とは言え、さすがにそのまま本を読み続ける気にはならなかった。そして出口に向かい歩き始めた真一の後姿を、その女性は申し訳なさそうに見送った。
 
 部屋に着いて靴下を履き替えながら、こういう時、普通ならいいことをした気分になるものだろうか? そんな気分にならない自分はやはりおかしいのかもしれない、と真一は思った。
 帽子を拾わずに見過ごすことは世間体が悪かった、だから拾った。足が濡れたからと言って年寄りに文句を言うのはみっともない、だから言わなかった。
 つまりすべては偽善で、本当は拾いたくもなかったし、足も濡らしたくなかったのだ。外へ出るということはこういう煩わしいことに出会うことでもあるのだ。
 真一流に言えば、無意味で偽善に溢れたウィークデーの垢を落とすために休日はあるのであって、その休日にまで垢をため込んでしまってはたまらない。なんとか気持ちを切り替えて、DVDの映画を観たりしたが、昼間の偽善の行動が心をイラつかせてならなかった。

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