第三章 佐原由紀子(四)

文字数 2,141文字

 次の郁夫の山歩きの日、由紀子はひとりでスポーツセンターへ行ってみることにした。
 介護タクシーを頼み、自走式の車椅子に乗ったままセンターへ向かった。着いてからは何でも一人でしなければならない。ちょっとした段差に引っかかりながらも、何とかこの前の練習場のところまでたどりついた。
 
 先日と同じように、練習している音が廊下まで聞こえてくる。中を覗くと、梨田があっ、という表情を浮かべて近づいてきた。
「こんにちは。またいらしていただいたのですね。私は梨田と申します」
「佐原由紀子です。今日も見学させていただいてよろしいでしょうか?」
「どうぞどうぞ。あれっ、ご主人はトレーニングルームの方ですか?」
「いいえ、今日はひとりで参りました」
 練習はそれから一時間ほどで終わった。
「帰りはどうなさるのですか?」
「またタクシーで帰ります」
「よかったらお送りしますが?」
「勝手に来ておいて、それでは申し訳ありませんから」
 丁重に断る由紀子に梨田は続けた。
「それではお茶をお誘いしてもよろしいでしょうか? お礼に帰りは送らせていただきますので」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。
 そのお茶の時間は、思いの外、由紀子にとって有意義な時間となった。由紀子はすっかり梨田の話に聞き入ってしまった。
 
 
 梨田光夫の一人息子、浩太は小学校に入学してまもなく、登校途中に車にひかれ足の自由を失った。母親の貴子はそれを不憫がり、日々、浩太の世話に明け暮れた。その様子を見ているうちに、これでは浩太がだめになると危惧し、光夫は再三注意をしたが、貴子は聞く耳を持たなかった。そのため夫婦仲は当然のように悪くなり、浩太もわがまま放題に育っていった。
 中学生になると浩太は学校へも行かず、家で暴れ、貴子に手を出すようになった。その頃になって、貴子は夫の言っていたことが正しかったとようやく気付いた。しかし、もう手遅れだった。貴子には手が付けられなくなっていたのだ。
 この地獄から抜け出すために、光夫はある提案をした。離婚して浩太は自分が引き取るというものだった。夫婦仲はとうに破綻し、息子ももう自分の手に負えない……貴子は泣く泣く了承した。
 
 それから男二人の暮らしが始まった。
 父、光夫は、自営のかたわら家事をこなさなければならない。至れり尽くせりだった母親はもういない。不便さに苛立ってもまだ中学生の浩太にとって、大人の男である父親が怖く、暴れることはできなかった。
 そんなある日、光夫は以前から調べておいた車椅子バスケットに浩太を連れ出した。学校へは行かなくていいという条件で、浩太は渋々それに従った。
 最初は転んでばかりだし、ボールは顔で受けるし、散々だった。しかし、辞めたくても父はそれを許さない。学校も行かない、家のこともしない、ひとつくらいは何かしていなければお前は本当にだめな人間になってしまう、そう言われると何も言えなかった。
 
 
 それが十年前の話だと聞いても、由紀子にはピンとこなかった。あの立派な青年が十年前はそんな子どもだったなんて、とても想像できない。
「何が浩太君を立ち直らせたのでしょうか?」
「私にもわかりませんが、ひとつのことを続けるということではないでしょうか。まずは辛抱するということを覚え、次にバスケを通して仲間と心が通じて、学校へも行くようにもなりました。かなりの時間を要しましたけどね」
「あの――こんな言い方失礼かもしれませんが、幼い時に事故で体が不自由になった息子さんに対して、厳しく接することに抵抗はありませんでしたか?」
「それは女性の考え方ですね。妻ともその辺が折り合わずに別れることになりましたから。甘えは人をだめにするのです。支え方はもっと他にあると思います」
 その瞬間、その言葉は由紀子の胸の奥深くに突き刺さった。それに気づいたのか、梨田が続けた。
「あくまでも子どもに対する接し方ですけどね」
 表面上は何事もないように取り繕ったが、内心では由紀子は打ちのめされていた。家に帰りたい、今すぐ郁夫に迎えに来てほしい、たまらなくそう思った。
 
 外へ出ると雨が降っていた。梨田は慣れた動作で由紀子を車に乗せると車椅子を車に積み込んだ。由紀子の表情は来た時とは別人のように冴えなかった。気持ちが塞ぐのは、雨のせいだろうか? それともさっきの梨田の言葉のせいだろうか……
 口数が少なくなった由紀子に対して、梨田は無理に話しかけることはしなかった。そして、家に着くと自分は濡れながらも、由紀子は濡らさないよう最大限の配慮をして、車から家の中へと移動させた。そして梨田は帰って行った。
 部屋に入ると、いつもならとっくに帰っている時間なのに、郁夫はまだ帰っていなかった。夕飯の時間になっても戻らない。梨田のあの一言で、今はとても郁夫に会いたくて、そして優しくされたかった。
 軽く夕飯を済ませ、見てもいないテレビを消すと、
『甘えは人をだめにする』
 そんな梨田の言葉が、繰り返し由紀子を襲ってきた。どっと涙があふれてきた。
(私は夫に甘やかされてだめな人間になってしまった……)
 心の中でそう叫んでいた。
 
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