第三章 佐原由紀子(五)

文字数 1,067文字

 郁夫が家に着いたのはもう十一時を回っていた。雨のせいとはいえ、人助けも程々にしないと由紀子に申し訳ないと思い家に入った。
「ただいま、遅くなって悪かったね」
 由紀子は居間で、ただボーっと座っていた。
「夕飯は食べたかい? お腹はすいてないかい? お風呂はどうする?」
(まるでさっき梨田から聞いた浩太の母、貴子と同じだ。この優しさが私をだめにする――)
 
 
 それから三日ほどたったある日、予想外の客が訪れた。浩太だった。
 近くのパーキングに車を止めてきたと言って車椅子でやってきた。バリアフリーの家なので、浩太を招き入れることはたやすかった。コーヒーを出しながら由紀子が聞いた。
「驚いたわ、どうしたの?」
「父さんから頼まれて、これを――」
 そう言ってハンドタオルを差し出した。あの雨の日に梨田の車に忘れてきたのかもしれない。気にもしてなかったのでよく覚えていないが、わざわざ家まで届けるようなものではない。由紀子を心配した梨田が、浩太に様子を見に来させたのだろう。
「ねえ浩太君、お父さんは優しい?」
「う~ん、難しい質問だね。イエスかノーかで答えればイエスかな。それに気づいたのはつい最近だけどね」
「そうなんだ……
 私ね、五年前に車に乗っていて事故に合ったの。それから今の生活になったのだけど、浩太君の方が先輩よね?」
「父さんから聞いたんだね。そうだね、僕の方が二倍も先輩になるね」
「辛い気持ち、誰かにぶつけたくなる時ない?」
「子どもの頃はあったよ。父さんから聞いたでしょ? 僕の武勇伝」
 由紀子はユーモアを交えて振り返る浩太に脱帽した。
「ねえ、どうしてそんなに明るく考えられるの?」
「それは……たぶん自分を特別だと思わないようになったからかな。誰だってみんな何かしら辛いことを抱えて生きていると思うんだ。僕はそれが表面に現れてしまっているだけで、本質的にはみんなと変わりないと気がついたからかな」
「そういうこともお父さんに教えてもらったの?」
「いや、自分で考えたことだよ。でも父さんがそう考えるように仕向けたとも言えるかも」
「そう……立派なお父さんね」
(この親子はすごい)
 由紀子は心からそう思った。
「帰ったらお父さんに伝えてくれる? 同じ立場の人への接し方に大人も子どももないと思います、って」
「何だかよくわからないけど、そう言えばいいんだね、了解」
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
 帰っていく浩太の後ろ姿は、初めて会ったあの時と同じように、由紀子の心に何かを残して行った。

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