第三章 佐原由紀子(一)

文字数 1,101文字

 佐原由紀子、五十五歳――
 私は生きていていいのだろうか?
 
 あの時からずっとそう思って生きてきた。あの日、由紀子の人生は一変した。
 あの時、車に乗っていなければ……五分でも時間がずれていれば……何千回、何万回考えたことだろう。そして、いつもあの時あのまま死ねていたら、という結論に行きつく。
 
 
 五年前、由紀子は夫、郁夫の運転する車の助手席に乗っていて事故に合った。交差点で、信号無視の車を避けようとした郁夫が左に急ハンドルを切り、電柱に衝突してしまったのだ。
 郁夫は軽い鞭打ちですんだが、強い衝撃をまともに受けた助手席の由紀子は脊髄を損傷する大けがを負い、以来車椅子の生活となった。入院中も退院後のリハビリも郁夫は、付きっ切りで由紀子を励まし介助した。そのために仕事も辞めた。保険金と退職金でしばらくは生活ができるはずだった。
 
 
 三年ほどすると、由紀子は自分のことがある程度できるまでに回復した。家の中も車椅子で生活ができるようにリフォームした。そして、郁夫は短時間の仕事を見つけて働くようにもなった。
 その頃からだろうか、由紀子は今の暮らしに疑問を感じ始めた。それまでは、回復すること、その日その日を生きることに精いっぱいで、何も考える余裕はなかった。ところが皮肉なことに、回復するにつれていろいろなことを考えるようなってしまった。
 自分の世話に夫の人生が費やされる、それでいいのだろうか? たしかにこの体になった原因の一端は夫にある。事故を避けるための咄嗟の判断とはいえ、妻の命を危険にさらしたことに違いない。それは夫の郁夫にとっても後悔しきれないほどの悔いであり、それゆえ全力で妻を支えてきた。
 でも時として、由紀子にはそれを重荷に感じることがあった。もう夫婦げんかもできない。何を言っても郁夫は折れるだろうし、事故に関する言葉が出たら、その時点で夫婦関係は破たんする。
 
 三年ぶりに山歩きの会に復帰して、山から帰って来た郁夫を見た時、由紀子はその晴れ晴れとした表情の中に、郁夫の真の姿を見た気がした。
 郁夫にとって、今や自分は贖罪の対象でしかないのだ。共に暮らすのもそのためであり、言わば懲役刑に服役しているようなもの。そんな中での山歩きは久しぶりに自由を満喫し、解放感で満ちあふれたものであったに違いない。
 それからというもの、由紀子にとって精神的には事故直後より辛い日々となった。郁夫は一生自分を見捨てたりはしない、それがわかるだけに由紀子にはその贖罪の気持ちが重い。普通の夫婦が抱く愛情ではなく、ただ償われているだけの毎日に空しさが募った。
 
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