第一幕『うつしよはかくもくさのゆかり』5

文字数 6,457文字

 
 窓から差し込む朝日で、眼の奥がジンジンと痛む。

 結局一睡もできなかった陣平は、不愉快に冴え渡った頭のまま家を出た。

 しかし外に出ると、空はどんよりと曇っていた。まだ午前中だというのに、重く立ち込める雨雲のせいで、日没前のような薄暗さだった。

 不意に脳裏に瑞稀の死に顔がよぎる。空の暗さも相まって、気を抜くと自然に気持ちが沈んでいく。陣平は無理矢理感情を振り払うように、強めに頭を振った。

 鈴璃が迎えを寄越すと言っていたが、辺りを見回してみても誰の姿も見当たらない。

 遅刻かよ。と思いながら陣平は、とりあえず大通りに出てみようと考えた。そのとき、ふと足元に視線を感じた。

 視線を下げると、そこにはスリムな体型の黒猫が姿勢良く座って、じっと陣平を見つめていた。大して人の往来が激しい通りではなかったが、行き交う人々の視線は、その黒猫に注がれていた。首輪をしていないところを見ると、近所の野良猫だろうか。それにしては毛並みが綺麗だと陣平は思った。両者は無言のまま見つめ合った。

 黒猫は小さくにゃあと鳴き、身を翻し歩き出す。そして立ち止まり、再び陣平をじっと見つめる。尻尾が「付いて来い」と言っているような動きをしていた。向かう先が同方向だったため、自然と陣平が黒猫の後を付いて行く構図が出来上がる。

 暫く黒猫の後に続いて歩いた。黒猫は人気の無い暗い路地に入り込んだ。目的地が別方向にある陣平は、その路地を通り過ぎようとするが、黒猫は路地の中からにゃあにゃあと陣平を呼び続けていた。無視をするのも気が引ける。多少遠回りになってしまうが仕方がない。そもそも目的地に相手が居るとも限らない。陣平はそう考え、路地に足を踏み入れる。

 そこは不自然に静か過ぎる、どこか不気味な路地だった。黒猫は路地の中央付近に鎮座して陣平を待ち構えていた。姿勢の良さが際立っている。そばまで行き、立ち止まると両者は向かい合った。

「お迎えに上がりました。輪炭様」

 唐突に喋り出した黒猫に、陣平は言葉を失う。黒猫は二本足で立ち上がったかと思うとたちまち上品な白のレディススーツを纏った女の姿に変身した。その様子はさながら、映画のワンシーンを観ているかのようだった。よく見ると彼女は、鈴璃の店にいたロングヘアの方の店員だった。暗く艶やかなピンクベージュの髪が風に舞う。

「申し遅れました。(わたくし)雨耶(うや)と申します。本日はよろしくお願い致します」

 雨耶と名乗るその女は無表情のまま丁寧にお辞儀をすると、こちらへ、と路地の奥へ歩を進める。陣平は言われるがまま後に続いた。 

 歩を進めながら陣平は酷く驚愕していた。黒猫が喋ったり、人間の姿に変身するといった、現実離れした光景にではなく、そんな光景を目の当たりにしても、全く驚いていない自分に対して、こんなものか。と極めてフラットな精神状態でいる自分に対して、陣平は大いに驚愕していた。最近続く非現実のせいか、それとも昨今、巷に溢れかえっている数多の創作物を無意識的に眼にしているからか、明らかに非現実に耐性がついてしまっている。自然に脳が、次々に起こる非現実的現実を機械的に受け入れていく。

「お身体の具合は如何でしょうか」

 路地を歩く間、雨耶は陣平の左腕を一瞥し、そう声をかける。しかし、その顔は無表情のままだった。

「大丈夫だ。そんなことより、アンタはどうして黒猫の姿でウチの前にいたんだ?」

「それは………………申し上げられません」

 長い沈黙の後、雨耶は回答を拒否した。表情の変化が乏しい上に、何か取り繕おうとしているのか、その挙動には壊れたおもちゃのような不気味さがあった。

 路地を抜け大通りに出ると、通りに沿って配置されているパーキングスペースに、黒い車が停まっていた。車に詳しくない陣平でも、一目でそれとわかるような、スポーツタイプの高級車だった。

 雨耶は車の後部座席のドアを開け、どうぞと、陣平を案内する。

「ありがたいが、遠慮させてもらう。お客じゃないんでね」 そう言って陣平は、助手席に乗り込んだ。

「生真面目だねえ」

 後部座席からかかる突然の声に、陣平は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。振り向くと菓子を頬張る鈴璃の姿があった。

「……おはよう……ございます」陣平は内心かなり驚いていたが、その動揺が悟られないよう冷静を装って挨拶をする。今日の鈴璃は、いつもの格好に、トレンチコートを羽織っていた。

 雨耶は無言で後部座席のドアを閉め、運転席に乗り込む。シートベルトを締めたとき、鈴璃が後部座席から嬉しそうに身を乗り出す。

「なあなあ雨耶。どうだった坊やのリアクションは? 変身したお前に驚いてたか?」

「いいえ。多少唖然とはしていらっしゃいましたが、概ね落ち着いたものでした」

 雨耶は視線を前方に向けたまま答えた。

「なあんだつまんない」と、鈴璃は勢いよく後部座席に身を沈める。そして不貞腐れた顔で再び菓子を頬張り出す。なるほど、雨耶を黒猫の姿で寄越したのは鈴璃の差し金か。会話から察するに、大方、自分の驚いた反応を訊きたかったのだろう。

 いい性格してるな。と陣平は内心皮肉った。

「家館さん。程度の低い嫌がらせはやめてくれ。この間あんな眼にあった後じゃ、もう猫が変身するくらいじゃ驚かねえよ」

 陣平は事務所と昨晩の出来事を思い出しながら、鈴璃を睨みつけ、そう言った。

「なにを言う。程度が低いなんてとんでもない。先日の坊やが発した叫びは、芸術の域に達する音色だったぞ。ほら、言ってみろ。うわあああああああ~あっはっはっはっ」

 そう言うと鈴璃はけらけらと笑い転げる。その笑い声は心の底から愉快そうだった。笑い声を訊きながら陣平は、醒めた眼で雨耶に尋ねる。

「アンタのご主人さまは、いつもこんななのか」

「はい。残念ながら」エンジンを掛けながら雨耶は答えた。その口調は陣平に対する同情ような色を帯びていたが、それでも無表情はなのは変わらなかった。

「それはそうと家館さん。いい加減オレのこと、坊やって呼ぶのやめてくれないか?」

「何故だ? 坊やを坊やと呼んで何が悪い。現にお前、歳はいくつなんだ?」

 鈴璃は再び後部座席から身を乗り出し、陣平の顔を覗き込みながら尋ねる。

「え、二十六……だが」鈴璃の眼圧に圧されながら陣平は答えた。

「ふん、やはり坊やじゃないか、というより、まだ赤子だな。その現実に対する高い適応力が証拠だ。赤子はどんな現実でも見事に適応してみせるからな」

 鈴璃は鼻で笑ってそう言うと、菓子を口へ運ぶ。

「そういうアンタはいくつなんだよ? 見た目オレより下に見えるぞ?」

「こらこら。レディに年齢を訊くのはセクハラだぞ。全く、これだからデリカシーのない坊やは」

 確かに男が、それも警察官が女性に年齢を訊くのは良くなかった。そう思い、陣平は素直に頭を下げる。

「確かに。ちょっと配慮に欠けた質問だった。悪かったな」

「そんなに畏まらなくてもいい。しかし、坊やと呼ぶのはやめないからな」

 鈴璃はにやりと笑い、そう言った。完全に遊ばれている。陣平はそう思った。

「はあ。それで、今日は何をするんだ? 言われた通り、捜査資料は全て揃えてあるが」

 陣平は溜息をついて捜査資料が入った封筒を、ショルダーバッグから取り出す。捜査資料の持ち出しも二回目にして、大して罪悪感を感じなくなっていた。

「被害者全員の近しいものに話を訊きに行く」

 いつの間にか笑い止んで真顔になっていた鈴璃はそう答えた。

「話……? 一応この件は自殺と事件、両方の可能性があるから、既に近親者には一通り話を訊いてある。ファイルの中にその記録があるが」

 鈴璃は鼻を鳴らす。

「はん。それは只の事情聴取だろう。最近おかしなことはなかったかとか、誰かの恨みを買っていなかったか、怪しい奴を見なかったとか、そういうごく最近の心当たりを訊く程度だろう。私が訊きたいのは、そんな事ではない」

「じゃあ一体なにを訊くんだよ?」

「決まっている。彼等の人生を訊くんだ。なにを見て、なにを訊いて、なにを感じ、どう生きていたか、それを訊きに行くのだよ坊や」

 陣平は鈴璃の言っていることの意味が分からなかった。資料に書かれている記録とどう違うのだろう、そう考えていた。

「それでは発車します。シートベルトをお締めください」

 雨耶の抑揚のない声がそう告げ、車は静かに動き出した。

「行き先は?」

「到着すればわかる。それまではドライブを楽しめ」

 車はしばらく走ると、谷町J C(ジャンクション)から首都高に乗った。静寂に包まれた車内には、ときおり鈴璃が菓子の袋をまさぐる音が静かに響く。

 静寂に居心地の悪さを感じていた陣平は、ためらいがちに口火を切った。

「家館さん。一つ質問してもいいか?」

「なんだ?」

「結局、〝魔女〟ってどんな存在なんだ?」

 陣平はずっと疑問に思っていたことを口にする。魔女。この世界に存在しないもの。架空の存在と思われていたもの。それらは一体、何なのか。多少耐性がついていて、驚かなくなったといっても、知らないということには本質的な恐怖が付きまとう。

 相手は得体の知れない魔術で人間を殺すらしい。もしかしたら自分も殺されるかもしれない。鈴璃の話で、ほんの少しでも魔女という存在を捉えることができれば、なにか自衛の対策がとれるかもしれない。陣平はそう思っていた。

「なぜそんなことを訊く?」

 バックミラー越しに、鈴璃の怪訝そうな視線が見て取てとれる。

「用心するに越したことはない。それに、足手まといになるのはごめんだからな」

 陣平は正面を見据えて言った。

「それはそれは、殊勝な心がけだな。その心がけに免じて話してやろう」

 そう言うと鈴璃はシートから背中を浮かすと、前屈みの体勢になり、菓子を一つ口の中に放り込んだ。陣平は黙って言葉を待った。

「魔女は人間の寿命を糧にする」

 鈴璃の急な告白に陣平は愕然し、咳き込んでしまう。

「じゅ、寿命を糧にするって、どういうことだ?」

 あまりの事実に、陣平は言葉を反復することしかできなかった。

「言葉のままだ。喰うんだよ。しかし、喰うのは物質ではなく寿命だ」

「喰うって……」

「なにをそんなに驚く? お前たち人間だって家畜を糧にしているだろう。生きるために喰う。本質はそれと同じだ」

「主人さま。その言い方ですと、人間は生理的嫌悪感を感じてしまいます」

 陣平が反応するより早く、雨耶が鈴璃を制する。

「む、そうか? すまないな坊や。他意はない」鈴璃は素直に詫びる。確かに、声に悪意は感じられなかった。本人なりにわかりやすい例えをしたつもりだったようだ。

 確かに気にはなったが、特に追求しなかった。ここで話の腰を折るより、魔女について少しでも有益な情報を得ることの方が重要だ。陣平はそう判断した。

 呼吸を整える。鈴璃は一拍の静寂を挟んで続きを話し出す。

「つまり、魔女は魔術で人間の寿命を自分の寿命へと変換できるということだ」

「それは、人間の寿命を自分の寿命に上乗せするってことか? それじゃまるで……」

「察しがいいな。そうだ。魔女は限りなく不死に近い。魔術で容姿も若く保てる。事実上の不老不死と言えるだろう」

 そんな存在相手に警察が、いや、そもそも人間が太刀打ちできるのだろうか。陣平の心の中に暗澹(あんたん)とした気持ちが広がりだす。

「寿命を喰われた人間はどうなるんだ?」

「勿論死ぬぞ。決まっているだろう」

「じゃあ、オレたち人間はどうすれば……」

 言いようのない無力感と共に陣平は言った。

「魔女は人間に厄災を(もたら)す存在に代わりはないが、別に人間に対して敵意を持っているわけではない。というか今では、(ほとん)どが人間に興味を持っていない。寿命も奪わなくなり、人間の世界に大きな干渉もせず、静かに暮らしている者が大半だ。寿命も人間から奪わなければ、いずれ尽きる。どれくらい生きるのかはそれぞれ違うが」

 梯子を外された気分だった。てっきり、魔女は常に人間を滅ぼそうとしている巨悪の根源ような存在だと思い込んでいた。寿命を奪わず干渉もしない。ちゃんと寿命もあるのなら、それは不思議な力が使える人・間・ではないか。不思議の度合いが桁外れだが。

「じゃあ、魔女は何のために存在しているんだ?」

 頭の中で言葉を精査せず、思ったことがそのまま口に出てしまう。まずいと思った時にはもう遅かった。鈴璃がきょとんとしているのが空気で伝わってくる。

「可笑しなことを訊くんだな。そんなの、私が教えて欲しいくらいだ」

 鈴璃の呆れたような微笑がバックミラー越しに確認できる。あまりにも愚かな質問に陣平は自分を恥じた。自分だって、人間が何故存在しているのかと問われれば、答えられる自信などなかったからだ。

「それで結局、今回の事件は、どっかの魔女が魔術を使って、人間の寿命を喰ったってことなのか?」

「状況から見て恐らくな。いくら魔女が人間の寿命を奪わなくなったからといっても、どんな体系にだってアノマリー(異端者)は発生するものさ。で、それを狩るのがわたしの仕事という訳だ」

 あからさまに話題を変えた陣平に、鈴璃は責めるわけでもなく普通に話を続ける。責める価値もない愚かな質問だったということだ。陣平は改めて自らの発言を悔いた。

「家館さんは魔女を見つけたらどうするつもりなんだ?」

「もちろん狩るさ。魔女には魔女しか対抗できないからな」

「狩るって、それも魔術で?」

「まあな」

 なかなか興味深い話だったが、自衛に役立ちそうな情報は皆無だった。陣平はもう少しそれらに役立ちそうな質問をすることにした。

「魔女と人間を見分ける方法はあるのか? 外見的違いとか」

「人間との外見的な違いかあ……いや、特にこれといった違いは無いな」

 鈴璃は腕組みをして難しい顔で考え込む。やがてなにか閃いたのか、ぱあっと表情が明るくなり、右手の人差し指がピンと立つ。

「そうだ。魔女には身体の何処かに刺青(いれずみ)があるぞ」

「刺青?」

 衣擦れのような音が訊こえたと思ったら突如、肌色の物体が現れる。眼を向けるとそれは左大腿部、つまり、鈴璃の内腿が顔の真横に突き出されていた。

「な、ななにしてんだ?」

 突然の事態に、陣平は激しく狼狽え、眼を逸らした。

「よく見ろ。覚えておけ。こういった刺青だ」

 再び左大腿部に眼を移すと、膝の位置から十センチほど内側に、五百円玉サイズの小さな刺青があった。それは円の中に鈴の絵があしらわれた、家紋のようなデザインだった。

「わ、わかったから、早くしまってくれ」

 陣平は右手で顔を覆いながら言った。

「ふふ、私の美しい脚線美に見惚れたか? この程度で狼狽えるとは、まだまだおぼこいな。まあ、一人一人模様も違うし、昨今刺青もさほど珍しいものではなくなってきているからな。刺青だけで人間と魔女を見分けるのは困難かもしれない」

 鈴璃は笑いながら左脚を後部座席に引っ込め、簡単にそう言い放つ。しかし確かにそれだけで魔女かどうかを判断するのは難しいと陣平も思った。

「じゃあ、オレにできることは……」

「ない。……こともないな。魔女は魔術を使用するときに手を使う。その手を封じることができれば魔術の発動を防ぐことができる。できればの話だがな」

 よく通る声で鈴璃は告げ、菓子を口へ運び出す。車内に静寂が戻る。目立った収穫のなさに陣平は肩を落とす。その時、ふと脳裏に新たな疑問が浮上する。

「ところで、どうして殆どの魔女は人間の寿命を奪わなくなったんだ?」

「そりゃ、人間の寿命を奪ってまで生きていたい世界じゃなくなったからさ」

 その口調はまるで、周知の事実だと言わんばかりだった。

 自分は当然ながら魔女ではない。しかしなぜだろう、鈴璃の言葉に深く納得し、共感してしまっている自分がそこにいた。

 難しい顔で黙り込む陣平に、鈴璃は抑揚のない声で言う。

「そう肩肘を張るな。坊やはただなにもせずそこにいるだけでいい。後は全て私がやる」

 それは言外に「余計なことはするな」と言われているようだった。



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