第二幕『さまことなりくにやかう』5

文字数 6,246文字



 渋谷駅に到着した時はまだ日が高く、交差点を往来する人の数も相当なものだった。

 信号が青に変わる度に、人が壁のように押し寄せるが、互いにぶつかることなく通り過ぎて行く。

 一度で約三千人が横断し、その数は一日で最大五十万人に及ぶこともあるという。

 ここは世界最大のスクランブル交差点。人々の穏やかで混沌的な日常が在る場所。

 遺体発見現場は、交差点からほど近い、雑居ビルに隣接する地下鉄構内へ続くゲート前の、なんの変哲もない場所だった。

 第一発見者によると、遺体はまるで

かのように、この場所に蹲っていたらしい。

 陣平は辺りを隈なく捜索してみるが、地面をいくら注意深く眺めても、見えるのはアスファルトのみ。交差点を何度も往復し、付近の建物にも捜索範囲を広げてみたが、視界に入って来るのは、無駄にグラフィカルな落書きや、乱雑で何重にも貼り付けられて経年劣化で剥がれかけた様々なステッカーばかりで、不審だと感じる物はなにも見当たらなかった。疲れを感じ、空を仰ぐと、いつの間にか日は傾き始めている。時計を見ると、捜索を始めてから既に三時間近く経っていた。

 なにかが見つかると期待していたわけでもなかったが、振り出しに戻ってしまうと、やはり気が滅入る。

 日が傾いても、陽光は容赦なく照り続け、蝉はその命を燃やしながら絶叫を続ける。気温は一向に下がる気配がなく、思考力と体力を削り続ける。

 陣平は日陰に移動し、壁にもたれ掛かる。自販機で買った水を少し口に含み、一息ついたそのとき、すぐ近くを一人の女が通り過ぎた。

 瞬間、全身が粟立つ感覚を覚えた陣平は、反射的にその女の背を眼で追った。女の肩にはトライバル柄の大きな翼のタトゥーが入っていた。

「ただのタトゥーか……」

 陣平は安堵の溜め息と共に呟く。

 以前、鈴璃に教えてもらった魔女の見分け方。魔女は身体の何処かに刺青が刻まれている。眼にした機会は少ないが、陣平は魔女の持つ刺青の形に規則性を見出していた。

 魔女の刺青は小さい。そして、家紋のようなデザインで統一されており、神秘的で、どこか禍々しいオーラを放っている。しかしそのオーラはあまりにも微細過ぎて、陣平の中で魔女のそれかどうかを特定出来る程の判断材料にはなり得なかった。

 身体を飲み込もうとする疲労感に抵抗するように、陣平は思考を働かせる。

 存在しない人間と、神隠し。もし仮にこの一連の現象が魔女の仕業なら、一体なにが目的だ? 

 先ずは眼をくり抜かれた遺体。その死因は老衰ではなかった。つまり寿命を奪うために殺した訳ではない。では何の為に殺した? 

 そして、神隠し。わざわざスクランブル交差点で人を消し、それをネットの動画サイトに上げるなんて、あまりにもパフォーマンスじみている。まるで誰かに見つけて欲しいと言っているようだ。そういえば、眼をくり抜かれた遺体もその場所に置いてあったような印象を受けたと訊いた。見つけてもらう為に、何者かが置いた?

「まさか、この二つは繋がっている?……いや、でも……ああ畜生、頭が回らねえ」

 陣平は吐き捨てる。現に二つの出来事の共通点は、ここスクランブル交差点とパフォーマンスじみているように見える。という非常に稀薄な共通点しかない。それ故に、現在手元にある情報だけで結論を出してしまいそうになる。脳は本能的に目先の利益に飛び付きたがる。判断力が低下しているときには特に。しかし、刑事にその思考はあまりにも危険だ。間違った答えを出せば、救える人間を救えず、罪なき人間が危険に晒されることになる。

 うだるような暑さと寝不足で陣平は苛立つ。思考がまとまらず、ぼうっとしだした頭の中では、いままで眼にしてきた魔女の刺青の形が、無意識に想起される。

「鈴、藤の花、上弦の月、下弦の月、雪の結晶……」

 陣平はうわ言のように呟く。

「……ん?」

 そのとき、なにかが軽く記憶にぶつかった。

 雪の……結晶……?

「何だそれ?」

 陣平は右手で頭を掴み、ここ数時間の記憶を辿る。

 すれ違った人や、交差点を歩いていた人に刺青が入っていたのか? いや違う、あんな特徴的な刺青であれば、眼にした瞬間に記憶される。幾ら思考が鈍っていても、見過ごすとは思えない。

 なら、いつ、何処で観たのか。

 思い出せ。思い出せ。思い出せ。

 自然と頭を掴む右手に力がこもる。ついさっきまで観ていた景色が頭の中でフィルムのように再生され、ぐるぐると回り続ける。再生、一時停止、コマ送り、早送り、巻き戻しを幾度か経て、フィルムはやがて、ある風景でぴたりと止まった。

 何かが弾けるような感覚の後、陣平は跳ねるようにその場を飛び出す。

 陣平は交差点を渡らずに、雑居ビルに隣接する地下鉄構内へ続くゲートの前で足を止める。そこは件の深山圭人の遺体が発見された場所だった。

 陣平は深呼吸をして心を落ち着けると、ゲート壁面の前にしゃがみ込み、あるものを探し始める。雑踏の声と蝉時雨が頭上から降り注ぐ。

 先ほど隈なく探した場所。しかし、無意識に風景の一部としか捉えていなかった場所。そう意識したとき、明らかに異様なものを視界の端に捉える。それは一センチ四方ほどのとても小さなステッカーだった。

 眼を凝らして見ると、ステッカーに印刷された図形は、雪の結晶と小さい丸が無数にあしらわれていた。そのデザインからは、ひときわ繊細な印象を受ける。

 そのステッカーは、壁に乱雑に貼り付けられた比較的新しいステッカーや、ボロボロになった古いステッカー達に紛れ、余程近くで凝視しないと、ただの汚れと錯覚してもおかしくない位置にあった。

 この模様から瞬間的に感じた禍々しいなオーラは、魔女が発するそれと、恐ろしく似ていた。見つけた。陣平はそう思った。

「魔女……」

 陣平の口から無意識に言葉が零れ落ちる。

 陣平は、ステッカーをカメラに収めようと、スマホを取り出す。シャッターを押したそのとき、背後でフラッシュのような閃光が瞬く。

 陣平は反射的に振り返ると、太陽光を反射したナイフが鋭い光を放ち、物凄いスピードで視界に飛び込んで来た。

 振り下ろされたナイフが甲高い金属音を立てコンクリートに突き立てられる。何処からともなく花火のような悲鳴が上がると、交差点は蜘蛛の子を散らしたようにパニック状態になる。そこかしこで車のブレーキ音や、クラクションが鳴り響く。交差点は一瞬にして戦場のようになった。

 間一髪で初撃を躱した陣平は、素早く体勢を立て直し、ナイフを持った人物へと向き直る。

 その人物は一見して男だとわかった。その男は痩せていて、上下を影のように黒い服で包み、黒い手袋に、フードを目深に被るという、この季節にまったくそぐわない、ひどく暑苦しい格好をしていた。

 フードの隙間から顔が見えたとき、陣平は絶句した。

 その男は唇上下を糸で縫っており、口が開かないようになっていた。縫い口はとても雑で、まるでミシンで好き勝手に試し縫いをしたあとのボロ布のようだった。痛々しいことこの上ない。

「口裂け女よろしく、口縫い男かよ」陣平は眉を顰める。

 手にしているナイフは、形状が反り返り、先端が異常に鋭いハンティングタイプだった。それは、殺傷に特化した仕様な上に、銃刀法に違反しているのも明らかだった。

「銃刀法違反の現行犯で逮捕する。ナイフを捨てろ」

 陣平は拳銃を取り出し、声を張り上げ警告する。口縫い男はなにも答えず虚ろな眼で身体をゆらゆらと揺らすだけだった。

 口縫い男が発する気配を、陣平はよく知っていた。特殊部隊にいた頃、嫌になる程感じた気配。混じり気のない殺気。純粋な悪意。

「久しぶりだな。この感覚」陣平は頭の中で呟く。

 そのとき、陣平は男の顔に見覚えがあることに気付く。いつ見たのか思い出すまでもなかった。その男は今朝、警視庁の廊下で見た手配書の中にいた男だった。

「お前、不道友巳(ふどうともみ)か」

 不道友巳は三年前に東京都で起きた、連続女子大生殺人事件で重要指名手配を受けていた男だった。この事件で、不道の手により五人の女性の命が奪われた。被害者の中には、当時売り出し中だったアイドルも含まれており、ショッキングな事件として世間を大いに騒がせた。

 いま眼の前にいる不道は、手配書よりかなり痩せて、口も縫われていたが、その蛇のような眼は手配書の写真そのままだった。

 不道はなにも答えず、鋭い眼で陣平を睨みつける。

 二人は無言で向かい合う。緊張感が全身を包み、暑さで感じるのとは違う類の汗が頬を伝う。

 何故指名手配犯の不道がここにいる? 何故口を縫われている? 何故姿を現してまで自分を狙う? 陣平の頭に中に様々な疑問が去来するが、それらはすぐに掻き消えた。いまはそんなことを考えている場合ではない。指名手配犯が眼の前にいるのだ。刑事としてやるべきことは一つしかない。

 右腕に鋭い痛みが走った。眼を向けると、手首が少し切れて血が滴っていた。どうやら完全には躱せなかったらしい。陣平は舌打ちをする。

 不道は一瞬出来たその隙を見逃さなかった。機敏な動きで距離を詰め、左側から陣平の懐に入り込むと、腹部めがけてナイフを勢いよく突き出す。

「しまっ……」

 左側からの攻撃に陣平の動作は一瞬遅れるが、次の瞬間には、既に回避行動に移っていた。

 ナイフは陣平の左脇腹を掠めた。刃の切っ先に付着した血液が遠心力により、アスファルトに叩きつけられ、様々な大きさの飛沫血痕を形作る。横断歩道の白に血の紅が、鮮やか過ぎるくらいに良く映える。

 陣平は、左脇腹の痛みに耐えながら、すかさず相手との距離をとり、拳銃を構える。不道は、猫背の体勢でナイフに付着した陣平の血を無言で眺めている。

 陣平は片膝をつくと、アームホルダーを左脇腹に圧しつける。アームホルダー越しに、どろっとした血の感触がある。思った以上に脇腹の傷が深い。

「くそっ」

 陣平は苛立たしげに吐き捨てる。左腕がこれほどハンデになるとは思わなかった。このままだと、良くて相打ち、悪ければ……

 悲観的な考えを断ち切るように、陣平は銃床で自らの頭を殴打する。あまりに強く殴りすぎたのか、視界の半分が赤く染まっている。どうやら頭からも出血したようだ。だが、そんなことはどうでもいい、おかげで落ち着いた。

「来いよ。不道」

 その言葉に、不道の眼は陣平の姿をまっすぐに捉える。

 不道は上体を屈め、ジリジリと陣平との距離を詰めていく。陣平は一定の距離を保ちつつ、撃鉄を起こし、引き金を指にかける。

 勝負は不道が飛び出す瞬間。陣平は呼吸を整え、そのときを待った。既に交差点内には二人以外の人影はない。

 不道は右足を後ろに引き、地面に手を付けないクラウチングスタートのような姿勢になった。

 来る。

 陣平は引き金にかけられた人差し指に力を込める。

 刹那、交差点内にバイクが猛スピードで侵入して来る。陣平と不道、二人の視線は突然の参入者に奪われる。

 スポーツタイプのバイクは更に速度を上げると、ブレーキ音を轟かせながら、ねずみ花火のように激しく回転し、不道へ向け一直線に突進する。

 鈍く重い衝突音の後、撥ね飛ばされた不道の身体は宙を舞い、地面に叩きつけられる。

 ライダーの顔はスモークシールドに覆われ、顔は判別できなかったが、身に纏うレディススーツには見覚えがあった。

 バイクは、陣平まで撥ね飛ばしそうなほど接近し、急停車する。地面には黒々としたブレーキ跡が残る。シールドには呆気にとられた自分の顔が写る。頭からの出血が想像以上に酷かった。

「大丈夫ですか? 輪炭さま」

 ヘルメットのシールドを上げた霧耶が、慌てた様子で尋ねる。

「霧耶さん……どうしてここに。というか、いま、撥ね……」

 陣平は突如現れた霧耶の行動に圧倒されつつも、不道から眼を離さなかった。不道は未だ地面に横たわっていた。その身体はピクリとも動かない。

「病院まで運びます。後ろに乗って下さい」

 そう言うと霧耶はヘルメットを差し出す。

「いまはそれより、あの不道を連行するのが先だ。いや、まずは救急車の方が先か」

 陣平は警戒しながらも足早に不道へと近付く。しかし、予想以上に血を流しすぎたらしく、眼が霞み、足がもつれてうまく歩けない。あまり悠長にしている時間はない。視線の先では不道がもぞもぞと身じろぎをしながら立ち上がろうとしている。緩慢な動きが、撥ね飛ばされた衝撃の強さを物語る。しかし、その手にはナイフがまだしっかりと握られていた。

「動くな。ナイフを捨てろ」

 手錠を取り出し、陣平は駆け出す。足が地面を踏む度に、脇腹から流れ出る血の感覚が気持ち悪い。苦痛で顔が歪むのを感じる。

 その時、不道はその場から勢いよく駆け出す。陣平と霧耶には眼もくれることなく、真っ直ぐに地下鉄構内へ続くゲートへと向かって行く。撥ねられた時に足の骨が折れたらしく、走り方が不自然で痛々しかった。

 逃走を図るつもりだと判断した陣平は、右手に持った手錠を投げ出し、追おうとする霧耶を制する。再び銃を取り出すと、不道の足に照準を合わせ、撃鉄を上げる。不道は既にゲートの壁面にまで迫っていた。外せば逃げられる。陣平は乱れた呼吸を整えると、息を止め、指先に力を込める。

 しかし、銃の引き金が引かれることはなかった。不道は、ステッカーが貼り付けられている壁面に、まるで吸い込まれたかのように消えてしまった。その場所から一筋の黒い炎が上がったように見えた。

 辺りはしんと静まり返っている。たったいままで交差点内にいた不道の姿は、文字通り影も形もなく消え去っていた。

 静寂の中に突然、爆発のようなクラクションが鳴り響く。いつの間にか、交差点内に車が何台も侵入して来ていた。辺りには、逃げ惑いっていた筈の人達が、元からそこにいたかのように普通に信号待ちをしている。誰もが交差点内に立ち尽くす陣平へ怪訝な視線を向けていた。ついさっきまでの阿鼻叫喚の騒ぎなど、なにもなかったかのように。不道友巳という殺人犯など初めからここに居なかったかのように。

 陣平は、鳴り続けるクラクションに追い立てられるように交差点の端に移動すると、待機していた霧耶の元へよろよろと近づく。

「霧耶さん、不道は……あいつは一体どこに消えた?」

 動揺を隠せない陣平は、力なく問い掛ける。眼の前に突如戻った日常の光景に、脈搏は早まるばかりだった。

「落ち着いて下さい輪炭さま。詳細はわかりませんが、恐らくこれは魔術の類です。その証拠に、見てください……」

 霧耶の視線を追い、陣平は自らの身体に視線を落とす。

 全身を電流のような衝撃が走り抜ける。

 血が止まっている。というより、傷がなくなっている。

 不道に付けられた切創(せっそう)や、自分で付けた頭の傷も綺麗になくなっている。気味が悪くなった陣平は、出血していた部分を何度も撫でてみるが、傷跡すら確認できなかった。傷など初めから負っていなかったと、もう脳が錯覚を始めるほどに。

 顔を上げると夕闇がすぐそこまで迫ってきている。西から射す紅い光で、足元の影が長く伸びている。それはまるで人の形をした深い穴で、一歩でも踏み出したら、その穴に引き摺り込まれてしまいそうな気がした。

 陣平は、頭の芯まで白昼夢に浸かっているような感覚に陥りながら、その場に呆然と立ち尽くす。

 その耳には蝉時雨も、街の雑踏も、自分の呼吸音も、なにも届いてこなかった。





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