第二幕『さまことなりくにやかう』7

文字数 4,055文字



 重くのしかかるような疲労感が全身を支配していても、処方された睡眠薬を飲んでも、全く眠れない。

 ベッドに横たわってから既に数時間が経過し、時計は丁度、午前一時三十分を回った所だった。とはいえ、もう随分と長い間経験している状況だ。こういうときの対処法は心得ている。

 陣平はベッドから起き上がると寝間着を脱ぎ、普段着へ着替える。財布とスマホとイヤホンを持ち、スニーカーを履くと、フードを被り、ドアを開けて外へ出る。

 考えがまとまらないとき、逆になにも考えたくないとき、なにも考えられないとき、そして眠れないとき、陣平は夜の街をあてどもなく何時間も彷徨った。気がつくと空が白んでいて家に帰る。いつから始まったかわからない習慣だった。

 子供の頃から陣平は夜が好きだった。共働きだった両親が家に帰って来て、暗い家に灯がともり、それまでの孤独感が和らいだから。だから両親が死んだいまでも、陣平は夜の方が安心した。少しでも独りじゃないと思えたから。

 意識が鼓膜の奥で響く音楽を、無意識に追いかける。歩を進める度に眼の中には、無意識に夜が落ちた風景が飛び込んでは消えて行く。眩しい光を放ち、低い音で唸り続ける自販機。闇に濡れ、眠る住宅街。昼間よりやたら大きく訊こえる車の走行音。存在感を増した街灯。物言わぬ街路樹。いつもと変わらぬ日常の夜中だった。

 ふと足を止めると、視線の先には、東京の観光名所であるスカイツリーがそびえ立っていた。距離があるからか、その全体像をしっかり捉えることができた。暫くその景色に魅入っていると、視界の端で向こうから歩いて来る人影を捉えた。近づいて来るその人影は大きめのフードを目深に被っており、顔までは確認できなかったが、どうやら女のようだった。その姿は陣平に不道を思い起こさせる。イヤホンを耳から外すと、身体が自然に警戒態勢をとる。

 二人がすれ違うとき、女が持つレジ袋が擦れる音と一緒に、訊き覚えのある特徴的な声が耳に飛び込んで来た。

「おやおや、今日も夜更かしか。あまり関心しないな坊や」

「家舘さん?」

 陣平が振り返ると、そこには右手に缶ビール、左手に酒類が入ったレジ袋を持ち、ビッグシルエットパーカーに身を包んだ鈴璃の姿があった。その姿はまるで少女のようで、普段のワイシャツにベスト、トラウザーズを纏った些かフォーマルな姿に比べると、一見して鈴璃と認識出来ないほどラフな格好だった。

「なにしてんだ? こんなところで、しかもそんな格好で」

 知り合いに会って、驚きながらも安心した陣平は、安堵が混ざった声色で言う。

「私は日課の夜散歩だ。夜は昼間より気分が良くなる。それより、坊やはここでなにをしていたんだ? 一応呪いを受けている身なのだから、家で大人しく休んでいた方がいいのだがな」

「オレもまあ、アンタと似たようなもんだ。ちょっと気分転換に」

「気分転換、ねぇ」鈴璃は缶ビールを傾ける。

「ああ」

「ふうん。別段用事があるわけではないのか。なら、少し付き合え」

 鈴璃はそう言うと陣平の脇をすり抜け、視線の先にあるスカイツリーに向け歩き出す。

「付き合うって?」

 陣平が振り向くと、鈴璃は袋から缶ビールを取り出し、それを鼻先に突きつけてくる。

「散歩だ」

 陣平は無言でビールを受け取ると、蓋を開け、中身を少しずつ飲みながら歩き出した。

 舌の上にビールの苦味が広がる。数歩先には、酔っているのか、軽やかなステップでアスファルトを跳びはねる鈴璃がいた。

「ご機嫌だな」

 ビールに口をつけながら、リラックスした口調で陣平は言う。鈴璃は振り返ると少女のような顔をして言った。

「夜は古来から魔女の時間だからな」

 雲の間から見え隠れする月の光に照らされ、無邪気にはしゃぎまわる鈴璃を見て、陣平は演劇を見ているような現実感のない気分に陥っていた。

 二人は無言で歩き続けた。時折タクシーのヘッドライトが二人の輪郭を影絵のように浮かび上がらせる。ふと陣平は視界に違和感を感じた。しかし少し眼を凝らすと直ぐにその違和感の正体に気付いた。

「それ、傘か? 雨が降りそうな気配なんてねえぞ」

 陣平は違和感の正体である、鈴璃の持つ傘について尋ねる。

「ふふん。傘は傘でも、これは空飛ぶ傘だ」

 鈴璃は、マーチングバンドのバトントワリングのような華麗さで、傘をくるくると振り回し、空中に投げる。よほど気分が良いのか、行動がいちいち大袈裟で、芝居がかっていた。しかし陣平は律儀に、その動作一つ一つに魅了されていた。

「空飛ぶ傘? 空飛ぶ箒じゃねえのか?」

 陣平の反応を見て、なにかを思いついたような顔をした鈴璃は、投げた傘をキャッチすると、おもむろに陣平の手を掴み、その場を駆け出す。空になったビール缶が軽やかな音を立てて地面に落ちる。

「おい、家舘さ……」

 鈴璃の名前を呼び終わる前に、陣平の身体は重力を失い、宙へと舞い上がった。

 急激に眼球へと流れ込んで来る空気に、陣平は反射的に眼を閉じる。再び眼を開けると、昆虫の(はね)のように無秩序的だが、均衡の取れた街の風景が、眼下に果てしなく広がっていた。

 陣平はその景色に眼を奪われながらも、落下したら確実に助からない高度に、本能的恐怖を感じる。

「そもそも、魔女が箒に跨って空を飛ぶという姿が、人間の間では定説になっているらしいが、魔女は箒でしか飛べない訳じゃあない。人間に目撃された阿呆な魔女が空を飛ぶ時に使っていたのが偶然にも箒だったというだけで、その気になればどんなものでも空を飛ぶことができるぞ。傘は勿論、袋でも、その袋の中に入っているビールの缶でもな。そもそも魔女は物の力で飛ぶのはなく……」

 鈴璃が楽しそうになにか話しているが、吹きつける風の音で陣平の耳には、その内容の一部しか届いてこなかった。その間にも傘は、どんどん高度を上げ、あっという間に辺りのビルを遥か下に臨み、そしてスカイツリーの最頂部であるアンテナゲイン塔付近でようやく上昇が収まる。穏やかな滑空の後、二人は避雷針の頂上に降り立った。

 鈴璃の優雅な着地とは異なり、初めて空中遊泳を体験した陣平は、足元が覚束ず、数歩あとずさると尻餅をついた。

「ふん。情けないやつめ」

「悲鳴を上げなかっただけ、上出来だと思うけどな」

 からかうような目線を向け、嬉しそうに笑う鈴璃に、陣平は軽口で応戦する。

 鈴璃は傘を綺麗にたたみ、新しいビールを陣平に放って寄越すと、自らも何本目かのビール缶の蓋を開ける。

 陣平は時折ビールを口に運びながら、避雷針の上を歩き回る。いつも針の先にしか見えなかった場所が、いざ降り立ってみると、そこはヘリポート程の広さがあり、イメージとのギャップに少し戸惑った。

「なにを足元ばかり見て歩き回っている。折角ここまで来たんだ、少しは景色を楽しんだらどうだ」

 鈴璃の言葉に陣平は顔を上げる。

「うわ……」

 眼に飛び込んで来たのは、普段眼にしている夜景とは全く違う表情をした東京の街並みだった。それはまるで、星屑が散らばった夜空のようで、身体が不思議な浮遊感に包まれる。蒸し暑く不愉快な夏の夜風が、心なしか地上より心地良く感じた。

「すっげえ……」

 子供のように眼を輝かせ感動する陣平を見て、鈴璃は満足そうに微笑む。

「まるで別世界に来たみたいだろう」

「ああ。凄く、綺麗だ」

 陣平は思い出す。未知なものに触れ、感動する感覚を。心躍る感覚を。それらを求める感覚を。長い間忘れていた感覚を。

 少量のアルコールが体内を駆け巡り、思考が通常より鈍くなっているからか、そのとき感じた感動は、自分の想像よりも遥かに純粋なものに感じられた。

「家舘鈴璃の異世界夜行にようこそ」

 そう叫ぶと鈴璃は、子供のような笑い声をあげながら両手を大きく広げ、缶を持った手を宙に向け、振り上げる。缶の中身が弧を描いて飛び散る。いつもより近く感じる月光に乱反射したそれは、まるで花火のようにキラキラと輝いた。酔いのせいか、鈴璃の言葉のせいか、真夏の夜風の音と、ささやかな街の喧騒がまるで祭囃子のように訊こえ始め、夜景が提灯のようにぼやけて、陣平は祭りの中にいるような感覚に陥る。

「酒が勿体ねえよ」陣平は呆れながらも笑顔で言った。

「大丈夫だ。まだまだ残っているからな」

 鈴璃が得意げに指差した袋の中には、およそ二人では飲み切れないであろう酒類がぎっしりと詰まっていた。それから二人は避雷針に腰を下ろし、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら酒を飲んだ。傍らに空になった酒缶が増えてゆく。

「相棒が必要ないと言い他者を遠ざけ、死にたがっているように見えるのは、その左腕の怪我のせいか?」

 前方を見据えたまま唐突に鈴璃は尋ねる。

「急になんだよ?」

 そう言うと陣平は、吊られている左腕を軽く撫でた。

「ちょっとした興味本位だ。話したくないのならそれでいい。しかし、幸いにも此処には私たちしかいない。誰かに訊かれる心配もない」

 誰にも話せない今の状況を見透かしているような鈴璃の言葉に、陣平はどきりと身体が強張る。同時に、ずっと誰かに話を訊いて欲しいと感じていたことを、ずっと眼を背けてきたそのどうしようもない欲求を自覚する。口に出そうとしたが、いつものように喉の奥で言葉が停滞する感覚が襲ってくる。息苦しい。やはり無理だ。話せない。そう諦める。

「オレは、親友を……殺したんだ」

 痛みと罪悪感にまみれたその言葉は、突然つかえが取れたように、予期せず口から溢れ落ちた。その事実に一番驚いたのは、他ならぬ陣平自身だった。

 鈴璃が黙って煙草を差し出してくる。陣平はそれを一本受け取り火を点けると、煙を深く、深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 陣平は呼吸を整えると、思うままに頭と心から溢れ出す言葉に身を任せ、口を開く。

「以前、オレは警視庁警備部の特殊部隊に所属していた」

 月が叢雲に隠れ始め、陣平は語り出す。自らの罪の物語を語り出す。言葉は透明な夜霧となり、二人の身体を包み、時間を巻き戻してゆく。





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