第三幕『よはなべてこともあり』5

文字数 3,762文字

 自分の手足も見えない程の暗闇。完璧な黒。その中に陣平は横たわっていた。

 眼が開いている感覚はある。でも暗闇以外なにも見えない。

 そもそも一面の暗闇を、「見えている」と表現できるものなのか。完璧な暗闇の中、仰向けで横たわりながら陣平はそんなことを考える。

 そのとき、鼻先に水滴のような、なにかが当たる感覚を微かに感じる。次の瞬間、陣平の頭に覚えのない記憶が流れ込んで来る。



 眩しい光。誰かの笑い声。その声はとても悲しそうで、小さかったボクにとって、その声はとても不吉な旋律に訊こえた。その声はとても怖くて、ボクは泣き出すのを我慢できなかった。それでも前に進んだことだけは覚えている。この場所に突っ立っていたら、どうしてもいけない気がして、なにか怖いものが追ってくるような気がして、ただ足を前に踏み出し続けた。その後のことはよく覚えていない。誰かに会って話をしたかもしれないし。誰にも会わなかったし、話もしなかったのかも。でも何故かそこでの感覚だけは覚えている。

 心地良い感覚。まだ小さなボクがなにかを成し遂げた高揚感。お父さんのように誰かを救えたと思えた瞬間。憧れのヒーローになれた瞬間。それだけでボクは満たされた。



 なんだ今のは。陣平は何かを思い出しかけるが、それらは記憶として頭に留まることはなく、すぐに消え去ってしまう。そして今度は額に水滴が当たる。



「おお。お前が私の新しい相棒か。ふふ、若いな」

 知らない女がそう言い、握手を求めた。オレは戸惑いながらもそれに応じる。

 すごく美しく不思議な人だった。でもオレはこの人を知らない。

 そのときのオレは現実とは思えない体験をした。空を飛び、路地を駆け抜け、悪い魔女から世界を救った。その女は、笑顔でまた会おうと言った。そしてまたオレたちは握手を交わした。



 魔女って、なんだ?

 この記憶も、その場に残存することはなく、次の瞬間には、頭からするりと抜け落ちてしまう。陣平は理解する。この水滴のようなものは誰かの主観の記憶。 

 でも誰の記憶だ?

 記憶の水滴は勢いを増す。次に観えた記憶は、潜在的に腹立たしさがつきまとう。



 突然知らない女が眼の前に現れたと思ったら一緒に世界を救えと言う。 

「ふざけんな。こちとらそんな子供じみた遊びは大分前に卒業してんだよ」

 そう言うと、その女は「以前は可愛げがあったのに随分と生意気に育ったものだな」と怒った様子でオレにこの世のものとは思えない光景を見せてきた。オレは吐いた。その女に恐怖を感じたオレは渋々ながらもそいつに付き合った。

 結果として世界は救われたらしいが、オレは何もしていない。今後、頭のおかしい女には関わらないようにしようと決めた。

 父さんが死んで、母さんが死んだ。正直かなり落ち込んでいた。オレも死んでしまおうかと思った。でも、九郎おじさんがそれを止めてくれた。

 オレだって本気で死にたかった訳じゃない。でも、ただ孤独になってしまったことが寂しかったんだ。だから九郎おじさんに止められたときは少し救われた気がした。

 ある日、九郎おじさんが女の人を紹介してくれた。どこかで見た覚えがあったけど。思い出せない。名前を訊いたけれど思い出せない。でも、すごく綺麗な人だったってことは覚えている。その後なにかした気がするけど、正直色々なことに疲れて殆どなにも覚えていない。でも世界を救うって言葉だけが頭にこびりついている。



 そのときにはもう記憶の水滴は、雨のような激しさで陣平に向け、降り注いでいた。想起してはすぐに忘れてしまうそれらの記憶は、まるで夢を見ている感覚に似ていた。



 九郎おじさんが大学卒業後のことを訊いてきたから警察官になりたいと答えた。九郎おじさんは嬉しそうな顔で、応援してると言ってくれた。

 それから数年後、一人の女性を紹介された。すごい美人だった。初対面だったが、なんだか懐かしい感じがする。彼女はある事件の調査でオレの力を借りたいと言う。いち警察学校の生徒になにが出来る訳ではないが、手伝えることならなんでもすると答えた。行動することで、父さんみたいな人間をこれ以上増やさないようにするという、自らの目的の為に、知らないことはなんでも学んでおきたかった。結果としてなにを学べたかはよく覚えていない。ただ、凄くおぞましい体験をしたことは覚えている。

 岩石警部の紹介である女性に会った。ある事件の解決のためにオレの力を借りたいらしい新米のオレに出来ることがあるのかと訊くと、その女性はにこやかに笑ったままなにも答えなかった。その事件の犯人はどうやら魔女らしい。魔女なんて信じられなかったが、本当に実在した。それまでの世界に嘘を吐かれていた気分になった。彼女がオレを呼ぶ声が妙に懐かしい。会うずっと以前から知っていたみたいな懐かしさを感じる。記憶力は良い方だがオレは彼女のことを一切覚えていない。何度も彼女の名前を呼んだはずなのに。



 記憶の雨は降り続け、何処かに流れてゆく。

 あるときその女が言っていた「お前と私は特殊な因果で繋がっている」

 あるときその女が言っていた「お前の人生を狂わせてしまったのは私の責任だ。すまない。本当に、すまない」

 あるときその女が言っていた「私とお前にはそれぞれ別の役割が課されている。私は記憶すること。お前は……」

 あるときその女が言っていた「お前と酒が飲めるようになるなんて、なんだか感慨深いな」

 あるときその女が言っていた「またこうして話ができて嬉しいぞ。強くなくなったな」

 あるときその女が言っていた「煙草は身体に悪いぞ。人間の一生なんてあっという間なんだから、そんな自ら死に近づかなくてもいい」

 あるときその女が言っていた「こいつは私の友人、逆志磨栞菜。そしてこの二人は、雨耶と霧耶だ。仲良くしてやってくれ」

 あるときその女が言っていた「初対面で名前呼びだと馴れ馴れしい感じがするから、次回からはお前のことを坊やと呼ぶぞ」

 あるときその女が言っていた「頼む、死なないでくれ……もう、私の前からいなくならないでくれ」

 あるときその女が言っていた「こんな現実はもう嫌だ。もう耐えられない」

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

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 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた。

 あるときその女が言っていた「私にはずっと求めていた世界がある。訊きたいか?」



 どうしてかこの会話だけは覚えている。その言葉にオレはこう返したんだ。

「お前がずっと求める世界。それを手に入れるためなら、オレは喜んで戦ってやる」



 オレ?



 今までの記憶は全てオレの記憶? でも、こんな経験をした覚えはない。なにも覚えていない。

 陣平は記憶を細部まで掘り起こすが、やはり、どこにもそんな記憶は見当たらない。でも、それにしては妙な感覚だ。何故か、思・い・出・し・て・い・る・という感覚がある。しかしなにも覚えていないという感覚の方が勝る。どういうことだ? 陣平は困惑する。

 記憶の雨の勢いが弱まりつつある。視界は相変わらず真っ暗だが、蘇っては消えてゆく記憶たちは生々しいほど極彩色だった。それはまるで、古いアルバムを眺め、過去を懐かしんでいるような色をしていた。



「家館鈴璃だ。よろしく頼む」

 知らない名前だ。

 いや、知っている。頭とは別の場所が、心が覚えていると言っている。ずっとずっと遠い昔に訊いた名だ。

 雨は止んだ。全て想起して、全て忘れた。雨が身体の一箇所にとどまり続けられないのと同じように。

 でも陣平は一つだけ辛うじて覚えていた。数千の夜を越えて、これだけは思い出せた。いま頭の中にある記憶は一つだけ。

 彼女の名前は。

 家館鈴璃。

 彼女は。

 まつかひをんな。

 ずっと、ずっと。

 ずっと昔からの、オレの、相棒。





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