第二幕『さまことなりくにやかう』9

文字数 4,760文字



「真古登の葬式の後、オレは逃げるように部隊を辞めて、上層部に掛け合って刑事部に異動させてもらった。そのときからこの左腕は動かない。これで話は終わりだ」と陣平が語り終える。

 雲間から月が顔を出すのと同時に、時間は過去から、現在へと戻った気がした。

「…………」

「家舘さん?」 

 返事がないのを不審に思い、鈴璃の方へ視線をやると、彼女はさめざめと泣いていた。

「お、おい、なんで泣いてんだよ」

 鈴璃の予想外の反応に、陣平は激しく動揺する。

「そうか、親友を(うしな)ったのか。それは辛かったな」

 そう言う鈴璃の眼からは、とめどなく涙が溢れ落ちる。その姿を見て、陣平の動揺はさらに勢いを増した。

「これ……良かったら使えよ」

 陣平はおずおずとハンカチを差し出す。鈴璃はそれを受け取り、丁寧に涙を拭った。すんと鼻を啜った鈴璃はポツリ、すまないと呟く。

「しかし、得心が行った。坊やが相棒を必要としない理由がな。また心を許した相手を喪うのが、怖いんだな」

「かも、しれないな」と陣平は曖昧に応える。

「親友を死に追いやったという自責の念に駆られて、ずっと体調を崩している訳か」

 鈴璃の言葉を訊いて、陣平は右手に持った缶をぐっと握る。缶はグシャリと音を立てて簡単に潰れた。

「ああ。でもこの左腕は、オレの罪の証なんだ。オレの一瞬の迷いが招いた結果だ。一生背負っていかなければならない罰だと思っている」

「罰か……」

 鈴璃は弱々しくその言葉を反芻する。

 陣平は気付いていた。スクランブル交差点で訊こえた幻聴。

「陣平、こんなところでなにしてるんだ?」

 あれは真古登の声だった。訊き間違える筈がなかった。

 真古登の声が訊こえたことに恐怖はなかった。それにより腕の痛みが増したことに対してはむしろ、安堵を感じるほどだった。

 それが呪いの言葉だったとしても、陣平は痛みを忘れることも、相棒であり親友の死を受け入れることも、到底出来はしなかった。

「この痛みが消えるのが、怖いんだ」

 陣平は左腕を抱き締めるような格好で言った。

 まるで針山に積極的に飛び込むような、自ら進んで痛みを取り込むような、痛みに依存するその行為が、なんの意味もないことは理解していた。しかし、陣平は罪を手放すことが怖くて堪らなかった。痛みが消えてしまうことよりも、ずっとずっと怖かった。

「痛みが消えてしまったら、今度こそ本当に真古登が死んじまう気がして……」

 陣平はいまにも消えてしまいそうな声で言った。

 鈴璃は立ち上がると、ふらふらと避雷針の上を歩き出す。アルコールのせいなのか、足元が覚束ない。

「おい、そんな酩酊状態で歩き回ったら危ねえよ」

 陣平は心配そうに腰を浮かすが、鈴璃は構わず揺蕩いながら話を続けた。

「その左腕がずっと動かなかったら、なにかと不便じゃないか?」

「便利とか不便とか、そういう問題じゃ、ねえよ」

 力なく陣平は応える。

「しかし、その左腕がうまく機能しないせいで、今日お前は死にかけた。霧耶がいなかったらどうなっていたか、想像しなかったわけではないだろう」

「死んだら、そんときはそんときだ」

「自暴自棄だな」

 ぼうっとしていると、ゆらゆらと揺れているのが、鈴璃なのか、自分の視界なのか、わからなくなってくる。少し飲み過ぎたなと、積み上げられた空き缶を横目に、陣平は思った。

「坊やのその考え方や、生き方を否定するつもりはない。しかし、何度罪悪感に押し潰されようとも、失ったものは二度と戻らない。そもそも痛みが消えた程度で、坊やはその親友のことを忘れてしまうのか?」

 鈴璃の意地の悪い問い掛けに、陣平は憤りを覚えるが、なにも言い返せなかった。

「ヒビハナヒの言っていたことを覚えているか? 魔女は死ぬ。殺せるんだ」

 唐突に鈴璃は言った。

 言っている意味がわかんねえよ。そう言おうと顔を上げた陣平の眼には、妖しく光る鈴璃の瞳が映る。

 その異様な瞳の輝きに呑み込まれた陣平の身体は、冷や汗が吹き出し、凍りついたように動かなくなる。

「教えてやろうか? 魔女(わたし)の殺し方」

「な……なに、言って……?」

 月の光を受け、陰影のはっきりした鈴璃の顔には、初めて会ったときに感じた、美し過ぎて気味の悪い、蠱惑的な微笑が浮かんでいた。頭がくらくらするのは酔いのせいか、それとも彼女の微笑のせいか、判然としない。

「押せばいい。ただ、ここから堕とせばいい。この高さから堕ちれば、頭は跡形もなく潰れ、流石に魔女の私でも死ぬ」

 いつの間にか、避雷針の端まで移動していた鈴璃は、自らの胸を、掌で優しく押す。それにより身体は重力を受け、背中からゆっくりと地面に向け、落下を始める。鈴璃は脱力し、両の手を広げる。その手には、ここに来る時に使った傘も握られていなかった。

 踵が重力を無くし、身体の全てが避雷針から離れる瞬間、鈴璃の身体はまるで、下ろされていた跳ね橋が途中で止まったかのように、突如落下を止める。

「なにやってんだクソ馬鹿!」

 ぜいぜいと肩で息をしながら鈴璃を睨み付ける陣平の左・手・は、鈴璃の着たパーカーの裾をギリギリ掴んでいる。右手には、投げ捨て忘れた潰れた空き缶がしっかりと握られていた。左腕を吊るしていたアームホルダーは風に舞い上がり、彼方へと消えて行く。

「どうだ? 左腕が動こうが動かまいが、現実はなにも変わらないだろう? 死んだ人間は死んだままで、坊やは坊やのままだ」

「ふざけるのもいい加減にしろ!」

 陣平は力任せにパーカーを引き寄せ、中途半端に傾く鈴璃の身体を、避雷針中央へ引き戻す。

「おっとと」と鈴璃は勢いよく前方につんのめるが、数歩進むと身体を独楽こまのように回転させ、その身を陣平の方へ向け翻す。陣平は気が抜けたのか、その場にへたり込み、暫く困惑顔で左手を眺めていた。やがて顔を上げると、再び鈴璃を睨み付ける。

「何のつもりだ? アンタが言ったことが本当なら、マジで死ぬ所だったぞ?」

「そう目くじらを立てるな。ほら、私の脚線美でも見て、怒りを鎮めたらどうだ」

 と言うと、鈴璃はパーカーの裾を捲り上げる。ショートパンツから伸びる脚をチラチラと見せつけながら、挑発気味に陣平へとにじり寄る。

 鈴璃の全く反省のないその行動と、先程の唐突な自殺未遂。陣平の頭は、酔いとは違う意味で朦朧としてくる。

「ああ、何なんだこいつ。訳わかんねえ」

 陣平は両手で頭を抱え込み、声にならない声を出して懊悩(おうのう)する。自分の感情の急激な変転について行けず、気分が悪くなってくる。

「親友を死なせてしまったのは、坊やの油断が招いたものかもしれないが、結果として親友を殺・し・た・のは坊やじゃない。そのような独り善がりな罪悪感で、痛みを背負う必要などない。坊やに罪はないんだ」

「背負う必要がないって、なんでアンタが勝手に決めてんだ」

 覆い被さってくるような鈴璃の声に、陣平は言う。

「だって坊や、お前は赦しが欲しかったのだろう?」

 その言葉を訊いたとき、陣平は稲妻が走るような衝撃を受ける。次いで心の奥底にある醜い本性を引き摺り出されたような嫌悪感が怖気になり、一気に全身を這いずり回る。

「赦されちゃいけねえんだよ。これは、一生オレが……背負うべき罪なんだ。アンタにオレのなにがわかるって言うんだよ」

 嫌悪感を振り払うように、陣平は感情的に反論する。

「そうやって悩んでいる間に身体は腐り、精神は朽ちてゆく。赦しが欲しいのなら私が与えてやる。後ろばかり見て、立ち止まっていたら、あっという間にしゃれこうべだぞ」

 まるで救い主が言うような言葉を受け、陣平の胸中には複雑な感情が渦巻く。鈴璃はその感情を見透かしたかのような声色で話を続ける。

「私の言葉を受け入れられないのはよくわかる。とどのつまり、他人がなにを言おうと自分が納得しない限り、心の傷は癒えないだろう。しかし私の言葉は道標になる。いつかその意味が理解できるときが来る。いまは左腕が動いたことと、坊やの言う罪とやらから一瞬でも解放された事実を素直に喜べ。前へ進め。呆れるほど愚かで、脆弱なお前たち人間が出来るのはそれだけだ」

 有無を言わせぬその口ぶりに、何故か言い負かされたような敗北感を味わう。反論しようと試みるが、それらは頭の奥で停滞し、上手く言葉に置き換えることができない。陣平は地団駄を踏みたい悔しさを堪え、左手で握り拳を作り、奥歯を噛んだ。

 そのとき、視界の端でなにかが動いた。その方向に眼をやると、一羽の鴉が陣平の瞳を覗き込んでいた。

「鴉?」

 鴉はぴょこぴょこと跳ね、陣平との距離を詰めると、おもむろにその嘴を開く。

「こんばんは。いい夜ですね」

「うわっ、喋った」

 陣平はびくっとして飛び上がった。

「おや? 雨耶のときはわりかし無反応だったと訊いていたのですが、なかなか良いリアクションをありがとうございます」

 鴉は羽根を広げ飛び立ち、空中でくるりと一回転すると、瞬く間に女の姿に変わった。

「どうも輪炭さま」

 眼の前に降り立った女は霧耶だった。雨耶のときの経験を踏まえれば、鴉の正体が霧耶であることは容易に想像がつく筈だったが、心にそんな余裕のなかった陣平は、予期しない不意打ちを食らい、素っ頓狂な声を上げたのだった。

 早鐘を打つ心臓をなだめながら陣平は、ニッコリと微笑む霧耶に向き直り、言う。

「こんばんは霧耶さん。どうしてここに?」

「主人さまを迎えに来ました。間もなく夜明けの時間なので」

 ここでようやく空が徐々に白み始めていることに気付く。うっすらと青色に包まれる東京は息を呑むほどに幻想的だった。

「ああ、もうそんな時間か。しかし夜明けというのは何度見ても飽きないものだな」

 空になったハイボールの空き缶をもてあそびながら、鈴璃が近づいてくる。

「少し性急だったかもしれないが、以前より良い顔になっているな。少しは憑き物が落ちたか? 本当のところ、言い過ぎて坊やが拗ねたらどうしようかと思っていたんだ。お前は万年反抗期だからな」

 鈴璃が猫のようなにやけ顔で、陣平の顔を覗き込む。

「そんな子供じゃねえよ。それに」

 ずっと誰にも出来なかった話ができたのは、正直ありがたかった。と言葉を発しようとしたとき、耳元で断続的に鳴っている風の音がひときわ大きくなる。

 刹那、壁のような突風に身体を押され、避雷針の端にいた陣平の身体は、なす術なく宙に投げ出される。

「あ……」

 鈴璃に霧耶。そして陣平の声が、一つに重なる。

 重力を失った陣平の身体は、六百メートル以上の高さからアスファルトに向け、真っ逆さまに落下を始める。空が下。地面が上。逆さまの東京は、これはこれで非現実的で魅力的な光景だなと思った。避雷針から転落したというのに、悲鳴を上げることなく、冷静に景色を楽しめている自分に、陣平は今更ながら驚く。

 落下しながら陣平は実感していた。言葉を感情的に否定してしまったが、その実、鈴璃の言葉は陣平の心に重く巣食う魔物のような自責の念を軽くしてくれた。

 君は悪くない。

 誰かにずっとそう言って欲しかったのだと実感した。しかし同時に、心が軽くなってもやはり、その言葉を素直に受け入れられない気持ちが、まだ心の中に燻っていることも実感する。

「自分で、納得しない限り……」

 風の音で耳には届いてこなかったが、陣平はその言葉を口にした。それはつまり、陣平は未だ自分を赦すことができていないということの証明に他ならなかった。胸中が暗澹とした気持ちで支配されてゆく。また左腕が痛み出したような気がした。

 果たしてこの感情に辿り着く先はあるのだろうか。このまま地面に叩きつけられ、死んでしまえば、この思いは消えるのだろうか。また真古登に会えるだろうか。そう考えながら陣平は諦めるように眼を閉じた。





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