第一幕『うつしよはかくもくさのゆかり』2

文字数 10,714文字

 
漆黒の闇に覆われた新宿通りを往来する車の中に、九郎と陣平の姿はあった。

 車内は静寂に包まれており、鞄の中の捜査資料を入れた大判の封筒が、時折かさりと音を立てる。開けられた窓から外気が車内に流れ込む。深く息を吸い込むと夜の匂いがした。先週まで満開だった桜も、既に葉桜が目立ってきている。

 警視庁を出てから何度か行き先を尋ねたが、九郎は曖昧に返事をするだけで、結局なにも答えてはくれなかった。

「運転、任せてしまってすみません」

 追求を諦め、言われるがまま助手席に収まった陣平は、正面を見据えたまま呟いた。

「気にするな。それよりまた痛みだしたのか。その左腕」

 九郎はステアリングを切ると、アームホルダーに吊るされた陣平の左腕に視線を移す。

「今は落ち着いてますが、最近また痛みます。ある程度は痛み止めで抑えられているんですが、いまいち効きが悪くて。栄養不足ですかね」

 陣平は苦笑しながら左腕を撫でる。

 二年前、都内で外国人武装グループによる立てこもり事件が発生した。激しい銃撃戦の末、武装グループは制圧したが、人質五人が死亡。部隊にも多数の重軽傷者と一名の死亡者を出したその事件で、陣平は左腕を負傷した。

 武装グループの放った銃弾は容赦無く陣平の左腕を抉り抜き、その事件で受けた傷の後遺症が今も、心と身体に深い影を落としていた。痛みは時と場所を選ばず、陣平の身体を蝕んできた。当初は可能だった車の運転も、今は人に任さざるを得なくなった。

「わはは。そうか、じゃあ力のつくものを食わないとな」

 九郎は笑いながら、シガーライターで煙草に火を点けた。車内に静寂が戻る。

「なあ陣平。今の捜査一課での仕事はどうだ?」

 九郎が呟くように質問する。

「どう、とは?」

「いや、つまりだな、楽しさとか、やりがいは感じているかってことだ。古巣である警備部の特殊部隊とは大分勝手が違うから、戸惑ってるんじゃないかと思ってな。相棒との相性も良くないみたいだし」

 九郎にしては歯切れの悪い物言いだな。と陣平は思った。

「ああ。大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」

 陣平は無表情のまま答えた。

「なら良かった。お前、昔から人付き合いが下手くそなところがあるから、前から心配でな」

「なんとかやってますよ」

「そうか。なら、いらん心配だったな」

 九郎は快活な声で笑う。しかし、その眼が笑っていないことに陣平は気付いていた。

 二人を乗せた車は、夕闇に覆われ、多色の街明かりで煌々と照らされた夜の街を縫うように走る。そして車は、さほど時間がかからずに、目的地である二十三区の西部にある、大型商業施設の地下駐車場に到着する。

 車を降りると地下特有の湿気が身体にまとわりついてきた。九郎に促されるまま陣平はエレベーターに乗り込んだ。

 上昇を数秒間体感した後、エレベーターが静止する感覚があった。階数を表示する液晶は五階を指していた。

 扉が開くと陣平は面食らった。食事に行くと訊いていたはずだが、眼の前に広がっているのは、古本屋や、オーディオショップ、呉服屋や、怪しげな薬屋が軒を連ねる統一感のない奇怪なフロアだった。食事ができそうな店など、一軒も見当たらない。

「あの、管理官、ここは?」

 陣平が狼狽えた様子で尋ねると、九郎は、いいからいいから、と陣平の背中を叩き、意気揚々と先へ進みだした。

 陣平は、状況が理解できぬまま九郎の後を追う。

 煙草屋、古びた映画館、果ては仮面専門店なるものまで、奥に行けば行くほど、フロアは奇怪さを増していった。陣平は異世界に迷い込んだかのような不思議な浮遊感に包まれる。自分がちゃんと地面に立てているのかどうか、何度か足元を確認したくらいだった。

「着いたぞ陣平。ここだ」

 九郎の声で顔を上げると、そこはどうやらアクセサリーショップのようだった。店先の看板に眼を向けると、そこには流動的な書体でMWとだけ描かれていた。

 店内の小洒落たケースには、ビーズで作られたアクセサリーが品良く並んでいた。もちろん、食事ができそうな雰囲気はこれっぽっちもなかった。

 未だ状況を飲み込めない陣平は、九郎に視線を送るが、九郎は笑うだけで、相変わらずなにも語らなかった。自然とため息が漏れる。

「いらっしゃいませ」

 細身の白いオーダーメイドスーツに身を包んだ二人の若い女性が、九郎と陣平を出迎える。どうやら店員のようだ。

 紺藍色の瞳に、整った目鼻立ち、滑らかな肌艶。

 ピンクベージュのロングヘアとグレイアッシュのショートヘア以外の外見的違いが見当たらないほど、二人の顔はそっくりだった。髪型も全く同じだったら、見分ける自信がないと陣平は思った。

「おう。久しぶりだなお前たち。元気にしてたか」

「お久しぶりです。岩石様」

 二人が同じタイミングでお辞儀をする。どうやらお互い知り合いのようだった。九郎もこういった店で買い物をするのか、人は見かけによらないな。と、陣平は思った。

鈴璃(すずり)はいるか」

主人(あるじ)さまは只今、不在にしております」

「嘘だな。邪魔するぞ」

 訊く耳を持たず、九郎は店の奥へと向かう。これまで何度もあったやりとりなのか、二人は九郎の後を追おうともせず、小さなため息をついて見送るだけだった。

 陣平は、今のやりとりの無意味さに思いを馳せながら九郎に続いた。もう状況に身を任せてしまおう。気になった所は、後でまとめて質問すればいい。

 店内に足を踏み入れると、整然とした美観が視界を覆う。次いで様々な美麗なアクセサリーが眼を引く。そのどれもが照明の光線を受け、妖しくも魅力のある光を放っていた。照明のせいか、店内の独特な雰囲気のせいか、陣平は緊張に似た感覚を覚える。

 九郎は、店内奥にある扉の前で足を止める。おそらく事務所だろう。その扉は、重厚な濃褐色のシックスパネルで、前に立つ者を威圧するような雰囲気を漂わせている。

 一息ついて九郎は、スーツに似合っていないネクタイを正すと、扉をノックした。その様相に相応しい低く重い音が響く。

 数秒待ってみたが、返事がないどころか、室内から物音一つ訊こえてこなかった。

「店員が言った通り、不在なのでは?」

 引き返すのかと思いきや九郎は、遠慮なく扉を開け放ち、室内に入って行った。これはもはや不法侵入なのでは、という疑念が陣平の中に生まれたが、逃げる訳にもいかず、部屋に入る以外の選択肢はなかった。頭を下げ、室内に踏み入る。

 室内は薄暗く、視界が悪かった。眼を暗闇に慣らそうと、陣平は両眼を暫く瞑り、開いた。徐々に薄暗闇に順応してきた視界が捉えたのは、一風変わった内装だった。

 扉と同じ濃褐色で統一された室内は、壁一面が抽斗(ひきだし)になっていた。床には優美なペルシャ絨毯が敷かれており、中央付近には応接スペースだろう、丸テーブルと、向き合うように二脚の革張りソファーが設置されていた。さらにその奥には、一目で高級とわかるL字型のプレジデントデスクが置かれ、どっしりとした存在感を醸し出していた。机の脇にあるレトロなデザインのスタンドライトの灯りが、部屋全体の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせている。

 人の気配を感じた。その人物は、これもまた豪華な濃褐色の革張り椅子に身を預け、机にカントリーブーツを履いた両足を投げ出した状態だった。

 その人物は一枚のコピー用紙を一心不乱に鋏で切り裂いていた。コピー用紙は縦横無尽に規則性もなく非常に細かく細断され、床に降り注いでいった。彼がこの店の主人だろうか。

 陣平の立っている位置からでは、顔は確認できなかった。確認できたのは裁断されていく紙の向こうに立ち上る煙草の煙。そして、吸殻で一杯の灰皿だけだった。彼はヘビースモーカーのようだった。

「帰れ」

 静寂に、氷霧(ひょうむ)のような女性の声が冷たく木霊した。色で例えるなら、薄いターコイズブルーを連想するような、そんな声だった。

 部屋の奥に足を踏み入れようとした陣平は、動揺とともに立ち止まる。自分に向けられた言葉だと思ったが、どうやら既に机の前に到着していた九郎に向けられた言葉らしい。

 この店の店主は、彼ではなく

だったようだ。

「つれないこと言うなよ鈴璃。元気だったか?」

「さんを付けろ愚か者が。たったいま、お前のせいで元気じゃなくなった」

「わはは、そうか。連絡入れておいたのに居留守を使われるとはな。まあ、元気そうでなによりだ」

「来るなと言った筈だが? 話を訊かない所は変わっていないみたいだな。忌々しい」

 忌々しさが形を成したような煙が、口から吐き出される。今までのやりとりから、九郎と彼女は昨日今日出会った仲ではないらしい。

 店の店主であろう彼女は、自然に鳥肌が立つくらい蠱惑的な美女だった。小顔に不釣り合いな程の大きな瞳に、幅の広い二重、滑らか過ぎる肌質と髪質のせいで陣平は一瞬本気で人形が喋っていると錯覚した。

 よく見ると彼女は、丈の短いベストと細身のワイシャツ、袴のようなトラウザーズを纏い、年季の入った上品なループタイを身に着けていた。その姿は、男装の麗人とでも言うような、気品が感じられながらも、どこか浮世離れした雰囲気を醸し出していた。両の耳には、店頭で見たビーズ製のピアスが、優雅に揺れていた。

「帰れ。私は忙しい」

 そう言う鈴璃は、吸っていた煙草を灰皿でもみ消すと、九郎には眼もくれず、黙々と紙を切り刻む作業を再開する。

「おいおい、せっかく友人が訪ねてきたんだ。茶の一杯くらい出してもバチは当たらんと思うぞ」

「誰が友人だ愚か者。床に落ちてる紙でも食べていろ」

 切り刻まれた紙がゆっくりと宙を舞い床に降り積もる。九郎は床の紙片に眼を向けた。

「さっきから何をしてるんだ。仕事か?」

「あまりに暇でな。店中の紙塵(かみごみ)を集めてどこまで細かく切り刻めるか試している」

 暇つぶしなのか。陣平はつっこみを入れたい欲求に駆られるが、ぐっとそれを堪えた。

「わはは、なんだ暇だったのか。それならとっておきの話があるぞ」

「興味ない。どうせまた下らない話だろう。そんなものを訊くくらいなら、ゴミ袋内の体積が減る分、この暇つぶしのほうが多少は生産的だ」

 そう言うと鈴璃は、新しい煙草を咥え、ブーツの裏でマッチを擦る。

「まあまあ、話だけでも訊いてくれよ」と言い、九郎はコートの内ポケットから黄色いチョコレートの箱のようなものを取り出し、鈴璃の眼の前に置く。

 鈴璃はその箱をじっと見つめ暫く押し黙った後、ふっとマッチの火を吹き消した。その顔には無邪気さが含まれる笑みが浮かんでいた。

「コイーバか。少しは気の利いた土産を持参できる様になったみたいだな。あの九郎坊やが」

 光栄です。と九郎は大袈裟な仕草で礼を言う。

「良いだろう、話くらいは訊いてやる。座れ」

 机から脚を下ろし、椅子から立ち上がった鈴璃は、九郎を眼で応接スペースへ促す。なんらかの交渉が合意に達したらしい。陣平は部屋の隅で立ち尽くしたままそう思った。蚊帳の外に置かれていることは自覚していたが、口を挟む気にはならず、状況を観察するに徹していた。

 鈴璃が嬉しそうに封を切った箱は、チョコレートではなく小ぶりな葉巻だった。

 九郎と陣平は、丸テーブルを挟んで鈴璃と向かい合って座っていた。身体を少し動かす度に本革のソファがぎちぎちと音を立てる。

 九郎の前には先程切り刻まれた紙が盛ってあった。持て成しだろうか。食べろということだろうか。陣平は数秒間真面目に考えたが、すぐに無駄だということに気付き、考えるのを止めた。

「ところで、その坊やは……」

 鈴璃は、葉巻を燻らしながら陣平に目線を移す。

「ああ、こいつは部下の陣平だ」

 九郎は弾んだ声で、陣平を紹介する。

「初めまして。警視庁捜査一課の輪炭陣平警部補です」と陣平は頭を下げる。

 鈴璃は何も言わず、天井に向けて煙を吐き出す。

「陣平。こちらは家館鈴璃(いえだちすずり)さんだ。彼女は、コンサルタントというか、我々警視庁が解決困難と判断した事件の相談に乗ってくれる、まあ、顧問みたいな人だ」

「顧問……ですか?」

「そうだ。鈴璃はな、あの魔女事件を解決に導いた凄腕なんだぞ」

「はぁ、この方がですか」

 陣平は鈴璃に視線を向ける。正直、陣平は心の中で、本当にこんな我儘そうな女が魔女事件を解決したのだろうかと思っていた。

「ポーカーボイスが下手だな。坊や」

 鈴璃は涼しい顔で煙を吐きながら微笑する。陣平はドキッとして身体をこわばらせた。

「『なんでこんな女が事件に関わってるんだ。魔女事件を解決に導いたっていうのも嘘なんじゃないか。九郎の阿保め、ついに脳が腐ったか。いつも声がデカいんだよ、この愚か者が』ってところか。声の裏にある本心を隠しきれてないぞ」

「そんなこと、思ってないですよ」

 陣平は反射的に反論する。隣で九郎はげらげらと笑い声を上げていた。

「まぁ後半は私の本心だがな。しかし本心かどうかは坊やが一番わかっているだろう?」

 陣平は鈴璃と眼を合わせたまま、何も言わなかった。

 しかしなるほど、陣平はようやくここに至った意味を理解した。九郎は鈴璃に『スマイリースーサイド事件』の助言を貰いに来たのだ。警察が民間人に捜査協力を頼むことはそう珍しいことではない。

「それで、本題は?」

 灰皿に灰を落としながら鈴璃は尋ねる。

「せっかちだな。久しぶりに会ったんだから、近況くらい訊かせてくれよ」

「暇だった。昨日も、一昨日も、一週間前も、一ヶ月前も、半年前も、一年前も。暇だった。暇。暇。暇。これが近況だ。どうだ満足か。で本題は?」

 鈴璃はぶっきらぼうに答えた。

 五秒で済んだ鈴璃の近況報告に、九郎はやれやれといった様子で陣平に眼で合図を送った。陣平は黙って頷き、捜査資料の入った封筒をテーブルの上に置いた。

 資料を見ながら九郎は事件の概要を、最近巷を騒がせているスマイリースーサイド事件の概要を話し始める。

 不審死。自殺なのか他殺なのか。被害者同士の関連性のなさ。笑顔と笑顔と、そして笑顔。

 言葉が黒く大きな波になり、飲み込まれそうになる。改めて訊いても不可解さは増すばかりだ。

「この事件、どう思う?」一通り説明を終えた九郎はそう尋ねたが、鈴璃はただ黙って煙を燻らせながら天井を仰ぎ見るだけだった。

 鈴璃はテーブルの上に置かれた捜査資料から、遺体写真を手に取ってぼうっと眺める。

「……無理だな。これは」

 九郎は鈴璃の言葉を予想していたのか、溜息混じりに呟く。

「そうか。やはり無理か」

「ああ、これは無理だ。手に余る」

 鈴璃は写真をテーブルに放る。静寂が部屋に戻る。葉巻のにおいが鼻についた。

「この事件については……」

「ちょっと待てよ!」

 陣平は二人の会話に割って入った。あまりの声量に、鈴璃も九郎も眼を丸くする。

「無理って、なんですぐ諦めるんだよ。人が死んでるんだぞ。画面や書面の中で起きていることじゃねえ、実際に人が死んでるんだ。手に余るってなんだよ。手に余ったら投げ出すのかよ? アンタ顧問なんだろ? オレたちが、警察が、事件を解決しなかったら死んだ人たちの魂はどうなるんだよ」

 捲し立てるように叫び、肩で息をする陣平を、鈴璃はしばらく呆然と眺めていたが、すぐに腹を抱えてけたけたと笑いだした。

「なにが可笑しいんだよ」

 陣平は怒りを込めた眼付きで鈴璃を睨みつける。

 鈴璃は笑いすぎて出た涙を拭いながら言った。

「いやいや、すまない。早とちりさせるつもりはなかった。無理だ。手に余る。というのは、坊やが受け取ったのとは別の意味だ。それにしても魂か、こんな青臭いことを言う奴がまだいたとはな。いや面白い」

 そう言うと、鈴璃は再び吹き出した。

「別の意味……?」

 笑いすぎて乱れた呼吸を整えると、鈴璃は小さく咳払いをしてから静かに語り出す。

「そうだ。この事件は、〝お前たち人間に解決は無理だ〟という意味だ。この事件は人間の領域の外で起きている」

 領域外。陣平は、九郎が言った言葉を想起する。

「ときに、世界終末時計を知っているか、坊や」

「人類の滅亡を午前零時に例えたって、あれか? それが事件となんの関係がある?」

「愉快だとはとは思わないか? 人類はまだ、自分たちに時間が残されていると錯覚している。時計は、今この瞬間だって、午前零時を指している。わざわざ核戦争なんか起こす必要なんてない。私に言わせれば有史以来、人類は既に終わっている。それに、実際に世界は何度も壊滅しているしな」

 部屋に不穏な空気が漂い始めたのを陣平は肌で感じ取る。

「なんの話だ?」

「この事件の犯人の話だ。知りたいのはそのことだろう? 奴等は

を使う。奴らがその気になれば、世界なんていつでも終わらせられる。いや、奴等が存在している時点で世界は既に終わっているか」

 陣平の脳裏に九郎の言葉がフラッシュバックする。

 まさか、と頭の中で否定し続け、絵空事だと思っていた事柄が、ゆっくりと形を成し、現実味を帯びて陣平の前に姿を表す。

「魔女……」

 気付いた時にはもう、我知らずそう呟いていた。

「なんだ九郎。もう話してたのか」

「ほんの触りだけな。理解が早くて助かるよ」

 すぐそこで行われている二人のやりとりも頭に入ってこない。

 陣平の頭は酷く混乱していた。認めてはいけない。脳が大音量で警告を発していた。

「いや。いやいやいや。何を言っているんですか管理官。魔女なんて、いる訳ないじゃないですか。アンタも悪い冗談はやめてくれ」

 陣平の視線は、九郎や鈴璃や天井や壁の間を泳ぎ続ける。平静を装おうとすればするほど、身体中から気味の悪い汗が吹き出してくる感覚がある。

「ふむ。まあ、平平凡凡たるリアクションだな」

 テーブルの捜査資料を一瞥した鈴璃は、葉巻の煙を吐きながら淡々と言った。陣平の視界が煙で覆われて、霞みがかったように歪みだす。まるで水に映った風景を見ているようだった。

「まだ断定はできないが、この一連の事件は、十中八九魔女の

による殺人だ。規模は小さいがな」

 極度の緊張で喉が急激に乾きだす。それでも無理矢理しゃべろうとしたからか、口からは上ずった情けない声が出た。

「呪いって、藁人形に釘を打ち込んだりするあれのことか?」

「呪い。もとい魔術は星の数ほどあるが、人間にはそれが一番ポピュラーかもな」

「本気で言ってるのか? 魔術なんてあり得ないだろ。そんな方法で何人も人が殺せるわけがない。なんなんださっきから、頭おかしいんじゃねえのかアンタ」

 陣平は鈴璃の言葉を否定する。その顔は引きつっていた。

「なぜそう言い切れる?」

「魔術なんてこの世に存在しねえからだよ!」

 掌で机を叩き、ソファから立ち上がった陣平は、まるで自分に言い訊かせるかのように怒鳴った。静まり返った室内で鈴璃は黙って腕組みをしながら陣平を眺めていた。

「まあ、この話だけで全てを信じろというのがどだい無理な話か……」

 鈴璃は人差し指で軽く顎を撫で、納得する素ぶりを見せる。葉巻を灰皿の窪みにそっと置くとソファから立ち上がり、ゆっくりと陣平に近づく。

「お、おい鈴璃。今回、それはなしって話だったろう」

 九郎が酷く動揺しながら言った。

「気が変わった。予定はいま確定した。坊や、私と組め」

「は? アンタと組むだって? オレが?」

 鈴璃の急な発言に陣平は面食らう。

「おい、鈴璃!」

 九郎は慌てて立ち上がり、鈴璃を止めようとするが、逆にソファに蹴り戻される。

「そもそもお前、みんな同じに見えるとか言って、基本、人間の顔の区別もつかないじゃないか。こいつの、陣平の顔も直ぐに忘れるに決まっている。そんな急いで決めず、ちょっと時間をおいて考えたらどうだ?」

 九郎はソファに蹴り戻された体勢で鈴璃に言った。

「そんなの、なんとかなる」

 九郎の説得の言葉に全く耳を貸さず、鈴璃は身体ごと陣平へ向く。

「いいか坊や。いまから私が見せるのは現実だ。坊やが生きている、存在している、タネも仕掛けもある、めくるめく現実だ。それを忘れるなよ」

 そう言うと鈴璃は、ブーツを履いたままテーブルに上がる。そして右手を差し出し、三本指を立てると、陣平の眼前にそれを突きつけた。間近で見ると鈴璃の両手の人差し指、中指、薬指にはそれぞれ指輪が一つずつはめられいた。

「まったく……手柔らかに頼むぞ。前回は酷い有様だったからな」

 九郎が諦めたような苦々しい顔で言う。鈴璃は何か思い出したかのように眉間に皺を寄せると、自嘲的な笑みを浮かべた。

「おお、そうだった。また絨毯ごと処理するのは骨が折れるからな」

 あまりにも物騒な話に陣平は本能的な恐怖を感じ、堪らずその場を立ち去ろうとする。しかし、九郎に行く手を阻まれた。脈拍が著しく早くなるのを感じる。

「大丈夫だ陣平。大丈夫だから。大丈夫」

 もう自分にはどうすることもできないと悟った九郎は、陣平を羽交い締めにしながら、まるで子供に言い訊かせるような穏やかな声で、その呪詛を呟き続ける。

「管理官、離してください。離せ! なにが大丈夫なんだよ」

 陣平はもがいて抵抗するが、九郎の巨木のような腕から逃れることはできなかった。

「大丈夫。怖くない、怖くない」

 鈴璃は微笑を浮かべ、そう言うと再び三本指を立て陣平の額に軽く触れる。その顔は酷く悪魔的だった。

「やめろ。ちょ、待っ、うわあああ」

 りんっ

 鈴の音が訊こえ、一瞬意識が飛んだ感覚の後、陣平の眼の前に現れたのは、九郎に羽交い締めにされる自分の姿だった。

 起きている現象を整理できない。いま眼の前にいるのは自分だった。自分がいる。自分で、自分を見ている。自分が呆けた顔でこちらを見ている。

 身体中に冷や汗が滲みだし神経が逆立つ。これは現実なのか、これは現実ではない。これは現実だ。あれは自分。なら、オレを見ているこのオレは誰。けど、誰、境界、オレ、何処、僕、これ、あれ、どこ、自分、自我、空海空気地面床窓光闇空間無限有限自然偶然必然人動物魔女魔法魔術虚無白黒……

 意識が急激に遠のいていく。

 途端、衝撃が走る。視線の先にはまだ自分の顔があった。どうやら頰を平手で殴られたらしい。自分の顔が殴られる姿を眺めてる様は想像以上にシュールだった。

「落ち着け。愚か者が」

 耳元で鈴璃の声がした。自分の意思に反して身体が動いていく。身体は机の抽斗から手鏡を取り出した。鏡に映ったのは鈴璃の顔だった。

「なんだこれは、どういうことだ?」困惑した自分の声が訊こえる。

「お前の

を私に移した。つまりいま坊やは、私の眼で世界を見てる訳だ。面白いだろ。イェーイ」

 鏡に向かい鈴璃がピースサインをする。全く笑えない。

「つまり、だ。奴等はこのような能力を使う」

 ぱんっ、という手を叩く音が部屋に響く。ぶつっとスイッチが切れたように意識が飛んだ。

 眼を覚ますと九郎と鈴璃がいた。差し出された鏡には陣平の顔が映っていた。陣平は自らの顔に何度も触れ、自分の実在を確かめようとする。脈拍が荒くなり、息苦しくなる。ネクタイを緩め、忘れた呼吸の仕方を必死に思い出そうとするが、うまくいかず、むせ返ってしまう。

「如何だったかな、現実は?」

 一仕事終えたような顔で灰皿の窪みから葉巻をつまみ上げた鈴璃は、綺麗な輪の形の煙を吐き出す。

「何だいまのは…」

 未だ呼吸の整わない陣平は、苦しそうに呟いた。

「魔術だ。レベルでいうと0.1パーセントくらいのな」

 腹の底からせり上がるような吐き気を覚える。二日酔いと乗り物酔いが更に強烈になったような感覚だ。陣平は咄嗟に口元を押さえる。

「大丈夫か陣平。辛いなら吐いちまえ。最初はみんなそうなる」

「無責任なことをほざくな愚か者。また絨毯を買い替えさせる気か」

 鈴璃は、陣平の背中を優しくさする九郎を怒鳴りつけた。傍らにはいつの間にか二人の店員が洗面器と掃除用具を持って佇んでいた。

「いまのが……魔術?」

 吐き気に耐える陣平は、青い顔をしながらそう絞り出す。

「納得したか? 坊やたち人間には解決できないと言った意味が」

 陣平はソファから立ち上がり、大きく息を吸うと、ゆっくりと深呼吸をする。暫しの沈黙の後、鈴璃に顔を向ける。その顔には困惑と敵意が、まだ受け止めきれない現実として浮かんでいる。

 何十秒か、何分か、短くない沈黙が続いた後、九郎が口を開く。

「お前を此処に連れてきたのはな……俺の後任を任せる為だ」

「後任……?」

 九郎は言葉を探るように頭を撫でながら続ける。

「実を言うとな、今回のような魔女絡みの事件は、稀に起きていた。しかしこの国には魔術を裁く法律が存在しない。そもそも魔女の存在すら公になっていない。今までは、超法規的措置という形で鈴璃に事件を依頼し、動いてもらっていた。俺はそのサポートで捜査の手伝いをしてきたんだが、最近身体がきつくてな。いやいや、寄る年波には勝てん。それでこれまで何人か候補者を連れてきたんだが、ことごとくみんなビビっちまってな」

「絨毯に吐瀉物を撒き散らしたり、失禁したり、気絶したり、叫びながら逃げ出したりする愚か者ばかりだったな。おっと、銃を向けてきた奴もいたかな?」

 嘲りを帯びた声で鈴璃はけたけた笑う。九郎は、自分の責任だと思っているのか、あの時はすまなかったなと、苦笑いを浮かべるしかなかった。

「それで、オレに管理官の後任になれということですか?」

「そういうことだ。引き受けてくれるか陣平。鈴璃は中々お前を気に入ったみたいだぞ。お前も丁度相棒を病院送りにした後で、いまフリーだろ?」

「お断りします」

 陣平は、はっきりとそう口にする。

「どうした、やはり怖気付いたか?」

 陣平は鈴璃の挑発するような視線を睨み返す。

「魔女? 魔術? そんなもん本当に信じる訳ないだろ。あんな手の込んだ手品みたいなのでオレが騙せると本気で思っていたのか? 管理官も、なにが目的か知りませんが、こんな頭のおかしい女とは組めません。そもそもオレに相棒なんか必要ありません」

 陣平はそう吐き捨てると、デスクの上の書類をまとめ、鈴璃と九郎の返事を待たずに、事務所を後にする。怒りの感情を乗せた扉が、けたたましい音を立てて閉まる。

「はははっ、頭のおかしい女か」

 鈴璃は愉快そうに笑った。

「ま、ご覧の通り、狂犬みたいな奴でな。お互いアクが強いし、あいつは相棒には向かないと思うぞ?」

 九郎はため息混じりに言う。

「私もそうなることを心から願うよ」

「はあ? じゃあ何で急に自分と組めなんて言い出したんだ?」

 鈴璃は黙ったまま、意味深な笑みを九郎に向けた。

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