十九

文字数 2,975文字

 二人はしばらくの間、再び対岸に渡ろうとはしなかった。ヒロユキは、単なる好奇心の延長上に思わぬ不安と恐怖があることを知った。リュウイチにとっては、それは『家出』を意味していたからだった。リュウイチが家出を計画していることはわかっていた。しかし、小学生の二人には、それが、それほど重要なことであるとは思っていなかった。学年は異なるが、時々学校でリュウイチが他の生徒を蹴飛ばしたり、女の子を泣かせたりしている場面に出くわした。ヒロユキは他の生徒たちと共に、見て見ぬふりだった。その度に胸が締め付けられ、もう二度とリュウイチとは一緒に遊ばないと思った。ヒロユキにはリュウイチがどうして他の生徒に乱暴するのかわからなかった。それでも、また家に帰ると、リュウイチは優しげな笑顔を湛えて話し掛けてくる。初めは下を向いていたヒロユキも、屈託の無い笑顔で菓子を手渡されると学校でのことなど忘れ、どうしてもリュウイチを嫌いになることができなかった。
 ある日、ヒロユキの下校途中、向こうから凄いスピードで一台の車がやって来るのが見えた。それは黄色い外国産のスポーツカーで、一目でそれがリュウイチの家の車だとわかった。車はヒロユキを見つけると、クラクションを鳴らして速度を緩め、道の端に荒々しく乗りつけた。見るとリュウイチの母がサングラスをかけて運転席に座り、助手席でリュウイチが手を振っている。すぐにサイドの扉が開いた。
「ヒロユキ、乗れよ! 映画観に行くぞ、映画だぞ、早く来いよ!」
 一瞬ためらったが、リュウイチの母が手招きしていたので、車に乗った。車の中は革張りで、初めて見る左ハンドルだった。平均的な団地の貸家に住みながら、高級外車に乗ることがどういう意味なのか、リュウイチにもヒロユキにもわかっていなかったと思う。ただ子供ながらにその違和感を覚えてはいた。見慣れぬ華やかなものに心を奪われてもいた。周囲の人々がこちらを振り向く時、気恥ずかしさと共に、どこか誇らし気でもあった。今日のリュウイチはいつもより、はしゃいでいるように見えた。街の大通りを走り抜け、駅近くの繁華街の中にある映画館の前に車を停めた。
「さぁ、着いたわよ。二人でゆっくり観ておいで」
 ブランドのバックから大きな財布を取り出し、リュウイチに札を何枚か手渡した。
「終わったら、歩いて店においで」
 リュウイチの母は大声で言い、ヒロユキに向かって手を振ると、車のドアを閉めて走り去った。街行く人々が振り返って見ているのがわかった。リュウイチはそんなことには慣れた様子で、札をポケットに突っ込み、映画館へと入って行った。
「映画観終わったら、父さんの店で飯食べようぜ。ヒロユキの家には母さんが電話しとくってさ」
 この時、初めてリュウイチが『父さん』と呼んだのを聞いた。以前、一度だけリュウイチの父親を見たことがある。髭を蓄え、恰幅の良い人だったが、声ががさがさしていて、白いエナメルの靴を履いた怖そうな人という印象だった。リュウイチがヒロユキの家で夕食を食べて、疲れて寝てしまった時に、たまたまリュウイチの父が迎えに来た時だ。リュウイチのことを「坊主」と呼んでいた。リュウイチが酷く緊張しているように見えた。その後、何かの折に尋ねると、凄く投げやりな言い方で、「夜の仕事だよ」としか答えてくれなかった。その言葉の響きは、ヒロユキの心に繰り返し繰り返し甦って影を落とした。夜の仕事と白いエナメルの靴が鮮明に刻まれた。
 映画館を出ると、外はすでに暗くなっていて、街にネオンが灯っていた。
「父さんの店に行って飯を食おうぜ!」
「リッちゃん、僕、帰るよ、遅くなると叱られるから」
「心配するなよ、母さんがお前の家にちゃんと連絡したから大丈夫だよ。飯食ったらすぐに車で送って行くし、父さんの店で出す中華は美味いんだぞ」
 腹が減っていて、今にも音が鳴りそうだった。それにここから一人でバスに乗って帰る方法も知らない。落ち着かず、寒さで指先が震えた。見慣れぬ街のネオンも心に突き刺さった。リュウイチとは育ってきた環境が、これほどまでに違うのだ。
「ついて来いよ!」
 歩き出した。慣れた足取りで、ネオンの灯る店と店の間を通り抜けて行く。小学三年生とランドセルを背負った小学一年生の子供が歩いているのは、誰の目から見ても違和感があっただろう。しかしリュウイチはずっとこうして育ってきたのだ。ヒロユキは遅れをとらないように必死で歩いた。周りの景色など目に入らない。ただ二つ年上のリュウイチの背中だけを見つめていた。ネオン街を歩きながら、この心細さが、あの広大な雪の水田地帯で味わったものに似ていると感じた。しかし、一つだけ、あの時とは異なる感情があることに気がついた。それは重苦しい罪の意識だった。これまでに感じたことのない感情。ヒロユキはそれに押し潰されまいと必死に歩いた。
 映画館から数分歩いたところに、リュウイチの父が経営する店があった。
「そこでちょっと待ってろ」
 リュウイチが店の中に入って行った。少しして出てくると指で合図して、華やかなネオンが灯る店の正面からではなく店の裏へとまわった。通路は暗く薄汚れていて、表の華やかさがまるで嘘のようだった。従業員用の廊下を通って一室に入ると、女たちの笑い声や、ステージの方から楽器の音や歌声も流れてきた。やがて酔った客の冷やかしにも似た声と共に、まばらな拍手が聞こえた。ヒロユキはリュウイチと映画を観に来たことを後悔し始めていた。一秒でも早く家に帰りたかった。部屋にはテーブルとくたびれたソファがあり、灰皿には煙草の吸殻がぎっしりと詰まっていた。
「リッちゃん、やっぱり帰ろうよ」
 リュウイチが溜息をついた。
「帰るって、どうやって帰るのさ? お腹空いてるんだろう? 帰るにしても何か食ってからにしようぜ。食ったらすぐに送ってもらうから」
 それでも下を向くヒロユキの肩に手をやった。
「お前、エビ好きだろ、店の客が残した大きなエビがあるって、母さんが言ってた」
 心が萎縮し切っていた。リュウイチも足をしきりに揺らしている。すると部屋のドアが開いて、リュウイチの母が手に料理の皿を持って入ってきた。
「二人とも、待たせてごめんね。お腹空いたでしょう?」
 リュウイチの母の後から、ヒロユキの知らない若い大人の女性が入ってきて、テーブルの上に飲み物や食事を、これでもかというほど置いていった。その大人の女性たちは皆、赤や黒のきらきらと派手なドレスを着て、甘ったるい香水の香りがした。ヒロユキは女たちの姿を凝視することができなかった。最後にバニーガールの格好をした女性が部屋に顔を出し、リュウイチに手を振った。
「坊ちゃんたちには刺激過ぎたかしら?」
 周りにいた女たちが一斉に笑った。ヒロユキは皿の上の料理をじっと見つめたまま食べようとはしなかった。
「ヒロユキ、食おうぜ!」
 無心で皿の料理を頬張った。料理を味わう余裕など無かった。
 帰りの車の中で、リュウイチはカーラジオを聞きながら眠ってしまったが、ヒロユキは暖房で顔が火照り、緊張が解けても眠れなかった。
 家に帰り、自分の家の匂いを嗅いだ時、思わず涙が出た。部屋の明かりは柔らかく、石油ストーブの炎は赤々として、凍えたヒロユキの心を温めてくれた。
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