文字数 1,825文字

 部屋の扉に鍵はかかっていたが、ドアチェーンは外されたままになっていた。リビングのソファでミユキが寝息を立てている。朝、六時を過ぎていた。そっと自分の部屋に戻るつもりだったが、ミユキが目を覚ました。
「お帰りなさい、心配したわよ」
「ああ、ごめん」
「帰れないなら、帰れないで、電話の一本ぐらいしてよね」
「つい懐かしくて、気付いたら終電過ぎてた」
 キッチンに行き蛇口を捻り、勢いよく流れ出る水道水に横からかぶりついた。口の端から水流が溢れ、ステンレスを叩いた。
「汚さないでよね、せっかく磨いたんだから」
 口に含んだ水をごくりと飲み込む。
「ごめん」
 手の甲で口の周りの水滴を拭った。
「どうせ、すぐ寝ちゃうんでしょう? 詳しい話はそれから聞くわ」
 ひとつ欠伸をした。
「うん、とにかく一眠りするよ、頭がぼうっとする」
 額に手をやり、首を振った。そして寝室に向かった。夫婦の寝室は別々だった。ヒロユキが神経質なため眠りが浅く、人の気配ですぐに目を覚ましてしまうのだ。結婚してすぐに夫婦別々の寝室で眠る習慣になっていた。
「ずっと起きてたんだろう?」
 ミユキは振り返らずに頷いた。
 それから昼頃まで眠り、目を覚ましてまたキッチンで水をがぶ飲みし、リビングのソファに倒れるようにもたれかかった。ソファの上で眠っていた飼い猫が驚いて、ミユキの寝室へと逃げて行った。リビングの窓から外を眺めると、陽射しが強く、すっかり春の陽気になっている。頭の奥が脈打っていた。猫が逃げ込んだせいか、ミユキが目を覚ましたようだ。
「起きたの? 二日酔い?」
「ああ、少し、珍しく飲み過ぎた」
「そりゃそうよ、あなた一体何時間飲んでたのよ。いくら懐かしい友人と飲むからって、飲みすぎじゃない?」
「そうだね、ごめん」
 片目をつむった。
「で、どうだったの? そのお友達と楽しく過ごせたの?」
「ああ、青森時代の懐かしい話をいっぱいしたよ。その当時小学生だったけど、二人でたくさんいたずらして遊んだこと思い出した。今じゃ、考えられないけど」
「へぇ、小心者のあなたがねぇ」
「リッちゃんの家はね、まだ俺も子供だったから詳しくはわからなかったけど、青森でキャバレーを経営していたんだ。親父さんも、お袋さんも、夜は常に家に居なくてさ、彼は家に帰ると一人だった。それで俺が仙台から引っ越してきたのを機に、うちの両親と彼の両親とが近所付き合いするようになって、いつもリッちゃんはうちで夕飯を食べて帰るようになったのさ。彼はいじめっ子だったけど、俺のことはいつも守ってくれた。いつも一緒に遊んで、いつも一緒に夕飯を食べた仲さ。一人っ子の俺には親友が無くて、初めてできた兄のような親友だったんだ」
「初めて聞いたわ、これまでそんな話、一度もしてくれたこと無かったじゃない。あなたにそんなお友達がいたなんてね」
「そうだね、俺の中でも三十年ぶりに彼に逢うまでは、あまり思い出すこともなかったというか、記憶が脳の奥に奥に沈み込んでいたような気がするよ。彼に再会していなければ、それこそ一生取り出されることの無い記憶になっていたかもしれない」
「で、そのリッちゃんというお友達は何をやっている人なの?」
「それが……」
 適当な言葉が見つからず、頭に手をやった。
「恐らく、半グレというやつだな」
 ミユキが首を捻った。
「半グレ?」
「うん、ヤクザのような組織には属してないけど、用心棒だったり、取り立てだったり、裏の仕事に手を染めている連中のこと」
 ミユキの視線が刺さる。
「大丈夫なの? そんな裏社会の人と付き合って」
「心配ないよ、リッちゃんは俺をカモったりはしないから。それに全く裏の人間って言うわけじゃないよ」
 表情に影がさした。
「付き合いが続きそうなの?」
「わからないよ、そんなこと。単に懐かしいね、で終わるかもしれないし、また食事に行こうと誘われるかもしれない。だけど、心配しないで、俺は彼と深く付き合うつもりは無いし、君を危険な目に遭わせたりしないから」
「せっかく再会できたあなたのお友達にこんなこと言いたくないのよ。でも、やっぱり何だか怖いわ」
「ごめんよ、不安にさせてしまって」
「お付き合いを断ることはできないの?」
 その言葉を聞いて、胸に何か刺さった。
「わかったよ、できるだけ付き合わないようにする」
「ごめんね、あなたのお友達にまで口出しして」
「いいんだよ、誰だってそう思うよ。君は間違ってない」
 自らの心にも同じ言葉を呟いた。
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