文字数 2,941文字

 早朝五時。歌舞伎町の路肩のゴミにカラスが群がっている。カラス対策の青いネットをかけてはあるが、どこからか隙間を見つけてはゴミ袋をついばみ街を汚す。リュウイチはこの日も、歌舞伎町の契約先のキャバクラから連絡を受けて客と交渉し、そんなことを繰り返して朝を迎えていた。リュウイチは必ずひとりで部屋に戻る。新宿の戸山まで、少々歩かねばならなかったが、東京に引っ越して来て以来、個人的によく知る街だった。契約先が多い歌舞伎町と少し距離があった方が、何かと都合が良い場合もある。後をつけられることは滅多に無いが、脅した素人の恨みを買うというより、同業者や組の若い奴にちょっかいをかけられるケースが殆んどである。リュウイチが仲間とつるまないのには理由がある。これでもかと言うくらい、裏切りの現場を目にしてきた。勿論、幼少の頃から他人と言うものを信じてはいない。特にこの裏の世界で生きている奴を信じることは、自殺行為に等しいと思っている。しかし、この世に二人だけ心を許した人間がいる。一人は同じ戸山の団地で育った、歳が三つ離れたタカシという弟分で、タカシは指定暴力団の杯を受けていた。リュウイチのことを兄貴と呼んで慕っている。もう一人は歌舞伎町のキャバクラで働くミサキという女で、組の息のかかったしつこい男と話をつけてやったのがきっかけで親しくなり、付き合うようになった。組の若い奴や、やんちゃな同業者がリュウイチを陥れようとしても、タカシがそれを許さなかった。タカシはリュウイチのためなら死んでもいいと覚悟を据えている。自ら「暴力担当」と言い切って、汚い仕事をこなした。リュウイチにちょっかいをかけてくる者は、必ずタカシとその舎弟たちによって死の直前まで叩きのめされる。そしてリュウイチを夜の街で付け狙う者はいなくなった。それでも、この街に絶対という言葉は無い。いい気になって気を抜いて、無防備な姿を晒した奴が翌朝刺されてカラスについばまれたという話は一つや二つでは済まない。タカシは背も高く、相撲取りのような体をし、一度暴れ出すと誰も手がつけられない。リュウイチが止めなければ死んでいた奴は数多くいる。ある時など、たまたまタカシと二人で飲んでいる居酒屋に他の同業の若い奴が居合わせ、通りがかりに眼を飛ばしたという理由だけでタカシは逆上し、テーブルの上のビール瓶をカチンと角で割って手に持ち、男を呼びとめ、振り向き様に顔面に突き刺した。真っ赤に染まって潰れた眼球を押さえてもがき苦しむ男を、更に髪を掴んで店の外に引きずって行って、気絶するまで殴り続けたということがあった。その間、リュウイチは一人で席に座り、ゆっくりと酒を飲んでいた。タカシは警察に捕まったが、リュウイチは笑って手を振っただけだった。やられた男も関係する組に言いつけたようだったが、タカシからの報復を恐れてか、組同士のいざこざに発展するのを避けてかは知らないが、逆にその男は二度目の半殺しにあって歌舞伎町から姿を消した。そんなリュウイチを組の幹部が放っておくはずもなく、組への誘いが絶えなかったが、その都度、丁寧に礼を尽くして断っていた。やがて組も一目置くようになり、この街で生き延びることができた。
 リュウイチは青森から一家で夜逃げして、新宿戸山の団地に住んでいた。やがて両親が突然二人とも自殺して、たった一人団地に残されたが、高校にも通わず、生活費を稼ぎ、何とか一人で生きてきた。それは想像以上に厳しいものだった。死んだ父が残した借金を取立て屋が毎日のように高校生であるリュウイチの元へと現れ、バイトで稼いだ、なけなしの金まで奪い取って行く。自分の弱さが身にしみて、その悔しさで毎晩涙を流した。そんな時、同じ団地で両親からの愛情を受けずに育ったタカシと連むようになった。一緒にカツアゲした金で美味いものを食ったり、女の子をナンパしたり、バイクを盗んだり、たいていの悪いことを二人でしてきた。リュウイチとタカシの差は、タカシの両親は健在だったが、彼は愛情を受けずに育ち、リュウイチは両親を失ってはいたが、貧しいなりに青森時代を含め、手をかけてもらったという記憶があることだ。タカシは人が死ぬまで殴り続けても平気であったのに対し、リュウイチは殺人とレイプだけはしてはならないことと自覚していた。
 リュウイチがマンションの部屋に戻っても誰もいない。ミサキは一緒に暮らしたいと言うが、この仕事をしている限り、部屋をつきとめられて不意に襲撃されることが無いとは言えない。ミサキを巻き込みたくない。会う時は不特定な場所か、四ツ谷にあるミサキの部屋だった。
「この前、ガキの頃のダチに新宿で偶然遇ったんだ」
「へえ、リュウちゃんのお友達なんて、珍しい。どんな人かしら」
「青森に住んでいた頃のダチで、ヒロユキって言うんだ。俺のことを唯一リッちゃんと呼ぶ奴なんだ」
「リッちゃん?」
「そう呼ぶのは、死んだお袋とヒロユキだけで、タカシでさえ、俺のことをリッちゃんと呼ぶことは無い。新宿でヒロユキたちがうちの奴らに引っ掛かってて、そこで再会したんだが、初めは全くわからなくて、コイツから幾らぶん取ってやろうかと思ってたら、あいつが懐かしい名前を呼ぶもんだから、それでヒロユキだと気付いて、そいつら丸ごと見逃してやったんだ。初めは、もう二度と会うことは無いだろうと思ったんだけどな、俺があいつに「名刺あるか?」って、期待せずに言ったら、ヒロユキの奴、何の警戒もせずに、すんなりと俺に名刺を渡しやがった。後でヤクザにゆすられるかもしれないのによ。そんで、コイツ昔と変わってねえしな、と思ってゆするのやめて、しばらく様子を見てたんだ」
「まぁ、怖いのね」
「そしたらな、俺も焼きが回ったのかな、急に俺の方から懐かしくなって、ダメ元で電話してみた。声聞いて、少しでも迷惑そうだったら、バックレて、そのまま忘れ去ろうと思ったんだが、あいつは昔と変わらず、嘘の下手な奴でな」
「で、会って話してみて、どうだったの?」
「ああ、とても楽しかったよ。懐かしかった。俺が一番幸せだった頃を、ちょっとだけ思い出した。昔、ヒロユキとな、雪でかまくら作ったり、雪合戦したりして一緒に遊んで、もうくたくたに疲れて、俺には家に帰っても誰も居なかったけど、ヒロユキと遊ぶようになってからは、アイツの家で一緒に飯を食ったり、テレビを観たりして、本当に楽しかったんだよ。あいつの家族には本当に感謝しているんだ」
「そうなの、よかったわね、リュウちゃんがこんなに嬉しそうに話すの初めて見た。私も今度、そのヒロユキさんに会うことがあったら、彼女としてお礼を言わないといけないわね」
 ミサキの頭を撫でた。
「リッちゃんって呼び方、特別なのね。何だか悔しいわ。私もあなたのことリッちゃんと呼んでもいい?」
「ああ、いいよ。ミサキとタカシとヒロユキの三人だけは許す」
「ミサキ」
「何? リッちゃん」
「何故か理由はわからないけど、これから先、俺の人生、何か良いことがありそうな気がする。何か少しづつだけど、最低の俺の人生から抜け出せそうな気がするんだ」
「そうね、そうなるといいわね」
 ミサキがリュウイチを見つめた。
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