文字数 3,944文字

 土曜の夕方、ミユキに待ち合わせ時間を午後七時と嘘をついた手前、午後六時には家を出て新宿東口に向かった。新宿東口に行くのは、あの日リュウイチに遭った時以来だった。風林会館は、靖国通りから区役所通りを少し行った先にある。新宿では知る人ぞ知る有名な建物で、過去にはヤクザの発砲事件があった場所である。ヒロユキもその場所は知っていた。風林会館から花形通りを少し西武新宿駅の方に戻って、丁度区役所の裏手の辺りに、リュウイチが指定したルノアールという喫茶店がある。この近辺では定番の待ち合わせ場所だ。先日のことといい、今回の待ち合わせ場所といい、どうやらリュウイチは歌舞伎町を中心に動いているらしい。ヒロユキの住む調布からは、新宿三丁目まで早ければ三十分ほどで着く。待ち合わせは午後十時。三時間もどこで時間を潰そうか。飲み屋に入るわけにもいかないし、どこに連れて行かれるかわからない以上、下手に腹を満たしたくもない。気の利いた店も知らない。どうも歌舞伎町という街を好きになれなかった。ミユキに嘘をついたことを後悔し始めていた。結局、時間を潰すために紀伊国屋で文庫本を一冊買い、早々にルノアールに入りコーヒー一杯で粘ることになった。歌舞伎町という街は、望む者を拒まない街ではあるが、望まない者を拒む街でもある。壁をもつ者には壁で応える街。その代わり、望む者であれば、男であろうが女であろうが、国籍が違う者でも、堅気でもその筋の者であろうとも、全てを受け入れる街である。雑多で妖しくて、それでいて魅力的。暴力的で危険と隣り合わせだが、人情と知性もある。東北の片田舎で育ったヒロユキには、中々受け入れ難かった反面、これはリュウイチとその両親の影響もあるのかもしれないが、嫌いにはなれない街でもあった。ヒロユキは店の二階から見えるネオンを見つめながら、買ってきた文庫本は読まずに、ただ、煌びやかで妖し気な店に吸い込まれて行く客の様子を観察していた。それが意外に飽きることがなかった。三十年ぶりに会うリュウイチは、ヒロユキをどこに連れて行き、どんな話をするのだろう。漠然とではあるが、彼が自分を危険な目に遭わせたり、犯罪に巻き込んだりすることは無いだろうという確信があった。そうでなければぼったくりに引っかかったヒロユキたちを見逃すことはしなかっただろうし、素性を知って骨の髄までしゃぶることだってできた。リュウイチが「名刺はあるか?」と聞いた時、ヒロユキが少しでも疑って渋っていたならば、もしかすると食事の誘いの代わりに、真綿で首を絞めるような、彼ら裏の人間特有の答えをくれていたかもしれない。
 コーヒーもすでに飲み終わり、コップに注がれた水も温くなった頃、リュウイチが懐かしい笑顔と共に現れた。ちょうど十時だった。
「待ったか?」
「いいや、来たばかりだよ」
「そうか、それなら良かった。懐かしい友人を待たす訳にはいかないからな!」
 リュウイチがテーブルの上の伝票をスッと抜き取った。
「俺の知ってる店で飯でも食おう、お前、腹減ってるか?」
「ぺこぺこだよ」
「やはり、俺の知っているヒロユキだな、昔とちっとも変わってない」
「コーヒー代くらい自分で払うよ」
「いいから任せておけ。お前には金は一円たりとも出させないからな」
 
 二人はルノアールを出て、通りを風林会館の方に歩いた。複雑に入り組んだ小路を抜けた先に、一角だけ東南アジアの路地裏に似た空間があり、そこの中華料理店に入った。周囲は暗く、古く薄汚れた建物が絡み合っているが、その店だけ、台湾の夜市を思わせる明かりが灯っている。知らぬ者が一人で歩いて辿り着くことの無い店である。ここに辿り着くまでに幾つものネオンの前を通り過ぎたが、不思議なことに、誰一人としてヒロユキに声をかけてくるキャッチはいなかった。
 店内は古い田舎の食堂のようなテーブルと椅子が並び、奥の方に更に部屋があるようだったが、そこへは行かず、テレビが置いてある正面の席に座った。
「ここ、俺のいつもの席」
 白い歯を覗かせた。店内の白い壁には、これまで聞いたことも無い異国のメニューが所狭しと紙で貼り付けてある。
「鳩とか蛙とか、あるんだけど」
「一般的なものを頼めよ、どれも美味いぞ。ビールでいいか?」
 頷いた。他に客の姿は無い。リュウイチがビールとつまみを注文すると、女主人は店の外に出て、建物の三階に向けて大声で注文を告げた。
「しかし久しぶりだったな、一体何年ぶりだ?」
「三十年ぶりだよ、歌舞伎町の店でリッちゃんを見かけて、そのホクロを見た時から気になっていたんだ。ボーイたちがリッちゃんの名前を呼んでくれたおかげで、わかったんだ」
「そうか、奴らもたまには役に立つんだな」
「リッちゃんは俺のことわからなかった?」
リュウイチが片目をつむった。
「すまん、俺のことを『リッちゃん』と呼ぶ奴なんて他にいないんでな、それで一気に思い出した。ところでお前、いつ東京に出てきたんだ?」
「盛岡に引っ越した後、親父が今度は東京に転勤になって、僕は高校卒業まで盛岡にいたんだけど、卒業と同時に上京したんだよ。かれこれ東京に来て二十年になるかな。まさか再会できるとは思わなかったよ」
 リュウイチが嬉しそうに頷いた。
「リッちゃんは?」
「俺か? 俺は、お前が引っ越してから……高校中退してこっちに来た。青森でやってた親父の店が倒産してな、金貸しから逃れるためにこっちに来たんだ。いわゆる夜逃げっていうやつだ。だから、お前とも連絡を取らなかった。すまん」
「そうだったんだね、謝らないでくれよ」
 リュウイチが運ばれてきた瓶ビールをグラスに注いだ。
「とりあえず、今日は飲もう!」
 泡立つビールを一気に飲み干した。女主人がセンマイと臭豆腐を持って来た。
「オトモダチ?」
「コイツはヒロユキってんだ。ガキの頃からの仲間だ」
「ヒロユキサン、ユックリシテッテネ」
 リュウイチが臭豆腐に箸を入れた。
「で、ヒロユキは今、何やってんだ?」
「出版社の営業マンやってる。この前助けてもらった連中も一緒だよ。東京に来て、専門学校に入って、普通に就職して、結婚して、今、こんな感じ」
「おう、結婚してたのかぁ、指輪してないから独身かと思ったぞ。そうか、あのヒロユキがなぁ」
 何度も頷いた。
「リッちゃんは、今、どうしているの?」
「俺か・・・見ての通りだよ、みなまで言わせるなよ」
 苦笑した。それ以上深く聞くことができなかった。
「ところで、お前、一緒に雪の中で遊んだの覚えてるか?」
「勿論だよ」
「懐かしいな、近所のアレ誰だっけ? 確かヒデ君とか言う子を雪の穴に落として、二人で上から雪玉を投げまくって逃げたよな。あれは楽しかったなぁ。それから、近所のマー君とか言う子のズボンを雪の中に隠して、そいつがズボン探して雪の中で泣いてるのを見て、二人で爆笑だったよな。で春に雪が溶けて、そいつのズボンが田んぼの畔に捨てられてて、それ見て二度爆笑したの、お前も覚えてるだろ? 本当に懐かしいなぁ」
 リュウイチが目頭を押さえた。
「僕は、リッちゃんと見に行ったスーパーカーショーが忘れられない。ランボルギーニカウンタック、ミウラ、イオタ、ポルシェ、それからF1のタイレル六輪車、八輪車とかあったっけ。リッちゃん家のメルセデス、今でも覚えてるよ」
「そうだな、そんな時もあったな。それに、よくお前ん家で飯食ったよな、お袋さん元気か?」
 ヒロユキが頷いた。
「それは良かった、お袋さん、大事にしろよ」
「リッちゃんのお袋さんは?」
 一度唇を噛んだ。
「お袋はもういない、死んだんだ」
 リュウイチの瞳の奥を覗き込んだ。
「こんな話、お前にだから話すが、俺たち一家は、親父の奴のせいで借金取りに追われるようになってな、俺がまだ高校生の頃に、二人で行方不明になって、後に自殺したとわかった」
「そんな……」
「俺は高校を中退してすぐに働き始めた。世の中金だ、金が全てだ、と思い込んで、金のためなら悪いことも散々やった。金貸しの手先にもなったし、殺人以外のことならたいていやった。でもな、ヒロユキ、今の俺はそんなんじゃない。俺にも女がいるんだ。ミサキって言うんだ。そのうちお前にも会わせてやるよ。堅気の生活とまではいかないが、随分とまともな生活を送ってる。全部、ミサキのおかげだ。お袋は可愛そうだった。親父が借金さえしていなければ、死ななくて済んだものを。だから、俺は借金の取り立てはあまり好きじゃない。わかるだろ」
 ヒロユキがゆっくりと頷いた。
 それから二人は懐かしい昔話をしながら酒を飲んだ。時刻は午前三時をまわっていた。その時、急にリュウイチの携帯電話が鳴った。ヒロユキに済まない、と言って席を立ち、店の外に一度消えた。それから五分程して戻った。
「本当に済まない。急に今から行かなければならなくなった。ちょっと面倒なことが起こりそうなんだ」
「いいよ、始発までここにいて、焼飯でも食って帰るから」
「相変わらずだな、この埋め合わせは、いつか必ずするからな。それに、今日はお前を随分と待たせてしまった。それじゃあな、ヒロユキ!」
 リュウイチが立ち去った。この時初めて、自分の行動が誰かに見張られていたことを知った。女主人に焼飯を注文すると、会計が心配になった。
「お会計は二人分で幾らになりますか?」
 女主人は微笑して、代金はすでにリュウイチから貰っていると言った。心にぽっかりと穴が空いたような気持ちで、出された焼飯を一人で食べた。店を出る時、ふとミユキの顔を思い出した。
「終電で帰るって言ったっけなぁ」
 そろそろ始発が動き始めている頃だ。空はまだ白けて来ないが、歌舞伎町にひと時の休みが訪れていた。
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