文字数 5,248文字

 それから数日後、ヒロユキが午後六時に会社を出てすぐ、二人の背広を着た男たちに呼び止められた。アズマとコジマという刑事だった。ある程度予期していたものの、実際に刑事と話をするのは気が重かった。この件について、まだ妻のミユキに話していない。刑事とは言え、よく勤務先まで調べたものだ。ヒロユキの勤務先を知っている者など限られている。歌舞伎町で一緒に飲んだあの日から誰かに見張られていた可能性もある。現にヒロユキはリュウイチに見張られていた。彼を信じている反面、心のどこかにまだ信じ切れない思いの芽が残っている。ミユキには、今回のことを話さなければならないことはわかっている。しかしそれを話すことは、更にリュウイチとの付き合いに不安を抱かせることになる。タカシの話を付け加えたなら、リュウイチとの付き合いと家庭のどちらを選ぶのか問い詰められるだろう。刑事たちを目の前にし、ミサキの哀しげな表情が目に浮かぶ。重苦しい気持ちになる。
「ちょっといいですか?」
 アズマが警察手帳を胸の内ポケットから半分覗かせた。
「はい、何でしょうか?」
「あなた、随分と落ち着いてらっしゃいますね?」
 ヒロユキが首を傾けた。
「いえね、あなたが、私たちが来ることを知っていたように思えたものですから」
「で、刑事さんが何の用ですか?」
「あなた、サカキリュウイチという男をご存知ですよね?」
「はい、彼が何か?」
 アズマはコジマに目配せした。
「今、世間を騒がせているオレオレ詐欺はご存知ですよね。我々はその事件の重要参考人としてサカキリュウイチの情報を伺っています」
「彼がオレオレ詐欺に関わっているという証拠があるんでしょうか?」
「残念ながら証言しかありません。誰からとは申し上げられませんが」
「あなたは、サカキリュウイチとはどのようなご関係ですか?」
「友人です。幼い頃の」
「ほう、幼い頃の? あなたとサカキは幼い頃どこで暮らしていたんです?」
「東北の田舎町ですが、何か関係が?」
「いいえ、参考までに」
「東北はどちらですか?」
「青森ですよ」
「そうですか、ではあなたとサカキは青森で幼なじみだったわけですね? それで青森にはいつまで?」
「小学校の低学年までですよ。それからお互いに引っ越したから、その後はお互いに知らないんだ。もう、いいでしょう?」
 歩き出そうとすると、アズマが手で制した。
「あなたは、サカキがこの事件に関わっていないと言い切れますか?」
 アズマの瞳の奥を覗き込んだ。
「勿論ですとも」
「あなたは知らないかもしれませんが、サカキが東京に出て来てから、多くの犯罪に手を染めてきた人間だったとしてもですか?」
 頭の中が真っ白になった。言葉を忘れて頭の中を探し回ったが、唇が微かに動いただけだった。
「今日のところはこれくらいにします。サカキの事で何か思い出すことがあったら、いつでも連絡下さい」
 アズマが名刺を出した。帰りの電車の中で再びリュウイチのことを考えていた。幼い頃の彼の姿と、現在の姿とを交互に思い浮かべた。そこには三十年という月日の隔たりがある。その間を埋めるピースをヒロユキは持っていない。両親を失い、貧困の中で生活が荒れ、様々なことがあったことは想像に難くない。しかし、しかしだ。深いため息をついた。そのまま帰宅する気になれず、調布駅前の交差点の角にあるショットバーに立ち寄った。ミユキには少し遅くなるとメールを入れた。小さな雑居ビルの三階にあるそのショットバーは、ヒロユキの馴染みの店だった。まだ客は無く、ジャズピアノのBGMが静かに流れていた。
「いらっしゃい、あれ? 珍しい。お一人?」
 全部で十席ほどしかない店内の一番奥のカウンター席に座る。
「何だか浮かない顔して、どうしたの? 何かあった?」
「うん、まぁ」
目の前にコースターが置かれる。
「とりあえずビールを」
 マスターがサーバーからグラスにビールを注ぐ。
「久しぶりだったけど、忙しかった? 仕事の調子はどお?」
「出版は厳しいよ。相変わらず」
「そう、どこも大変なんだね。景気なんて、ちっともよくなって無い」
「確かに」
「ところでマスター、俺さ、最近、昔の友だちに偶然再会したんだ。俺がまだ小学校の低学年の頃に住んでた青森の友人」
「へぇ、ヒロユキくんって青森の人だったんだ」
「青森で生まれたわけじゃないんだけどね。親父が転勤の多い仕事だったから、家族みんなでその都度、色んな土地に住んだ。その時、その土地ごとに友人もいたし、たくさんの別れもあった。そしてまたこの東京で偶然遭うなんてさ、凄いことだよね」
「凄いことだね、奇跡的な確率じゃないの。大事にしなきゃ」
「もしもだけど、その友人が犯罪に手を染めているかもしれないと知ったら、俺、どうすればよいのか……」
 ビールを一口飲んだ。
「初めは信じられると思ってたんだけど、徐々に自信が無くなってしまって」
「自分の目で見て、聞いて、確かめたものだけ信じればいいんじゃない?」
 心の中で、暗い水底に沈みかけていた鉛のようなものが、一瞬ふわっと浮いた。
「その友人が、実際に犯罪に手を染めている証拠があるわけじゃないんでしょう?」
「ええ」
「だったら、信じてあげなきゃ、それが友人同士ってものだよ」
「そうだよね」
「人間ってさ、ある事無い事、勝手に自分に都合よく想像してさ、それをまた他人に話すから、そんなの全て真に受けてたら、自分を無くしちゃう。男だったら噂なんかに惑わされずに、自分の見たもので勝負しなきゃ」
「マスター、有難う、何かスッキリした」
「友だちはさ、大切にしなよ。陳腐な言い方だけど、金じゃ買えないから」
 ヒロユキは青森時代の、ある幾つかの情景を思い出した。

 冬、団地の外れの水田地帯には雪が積もり、真っ白などこまでも続く雪の平原を、リュウイチと二人で歩いている。未踏の雪は深く、一歩足を前に出すだけで膝まで埋もれてしまう。歩いても歩いても前に進まない。夕刻になり、陽が落ちて、遠くに見える家々の明かりが灯るが、リュウイチの家の明かりは灯らない。リュウイチは辺りが暗くなっても外で遊ぼうとする。ヒロユキは疲れ果て、早く温かい家に帰りたいと思っている。けれども、リュウイチを置いて先に帰ることはできない。なぜなら、友だちだから。それでも時間的な限界が来て、二人は一緒に雪国に舞い降りた闇の中を掻き分けて家に辿り着く。温かい食事をとり、互いにほっとして笑い合った時の事は、三十年経った今でも決して忘れることは無い。
 ヒロユキはバーを出て家路を急いだ。妻のミユキに話しておくことがあった。
玄関扉を開けると、ミユキが顔を覗かせた。
「あら? 思ったより早かったわね、食事は済ませてきたの?」
「ちょっと飲んできただけだから、何か食べたいんだけど」
「仕方無いわね、今何か作るから待ってて」
 着替えて、リビングのソファに腰掛ける。ミユキの背中を見ながら、彼女にどうやってリュウイチが事件に関わっているかもしれないこと、今日、刑事が来たこと、リュウイチがヤクザと関係していることなどを、話してよいのかわからなかった。ただ、ぼうっとキッチンに立つミユキの姿を眺めていた。
「急に飲んで来るなんて、珍しいわね。会社で何かあったの?」
「いや……」
「あなたの青森時代のお友だちのことでしょう?」
「あ、ああ、よくわかったね」
「そりゃ、わかるわよ。何年夫婦やってると思ってるの」
 ヒロユキは決心した。
「ちょっと聞いてくれないか?」
 ミユキが手を止めて振り返った。
「彼の名前はサカキリュウイチ。俺は子供の頃から『リッちゃん』と呼んでる。二つ年上だから今、四十歳か。子供の頃は近所のガキ大将で、俺はたまたま親同士の付き合いがあったおかげでいじめられずに済んだ。彼の家庭は複雑で、一見裕福なように見えて団地暮らしだし、父親は殆んど家に居なかったし。両親共に夜の仕事をしていて、母親が時々戻ってきてリッちゃんの面倒を見てた。家には高級外車が停まっていたけど、子供ながらに団地には不釣合いだったな。まぁ、その後、経営が悪くなって、家族で東京に逃げてきたってリッちゃんは言ってたけど。ここまでが青森時代」
 ミユキが頷いた。
「何となく哀しい感じの話ね」
「それで先日、偶然彼と新宿でばったり遇った。三十年ぶりかな。本当に懐かしくて、彼に今の会社の名刺を渡したんだ。そしたら、ミユキも知ってるように、この前連絡が来て再び会うことになった。ここまでは、俺は本当に彼がどういう人物なのか、今何をやっているのか全く知らなかったんだ」
「それで、彼は何て?」
 ヒロユキはミユキから目を逸らした。
「彼は今、少なくとも警察の容疑者になってる。今、テレビのニュースでやってるオレオレ詐欺事件の。でも彼は、はっきりと俺たちの前で、それはやってないと断言してくれた。誰かにはめられそうになってるって」
「怖いわ。誰がそんなことを?」
「それは教えてくれなかった。知らない方がいいって言ってた」
 ミユキは黙っていた。
「彼はどうやら青森から東京に引っ越してきた後、両親を自殺という形で亡くして、以来一人で生きてきたらしい。彼は新宿でずっと暮らしてきたようなんだけど、歌舞伎町で生きて行く上で、ヤクザやそういう裏社会との関わりは当然避けられなかったんだと思う。この前、彼が自分の弟分を紹介してくれたんだけど、正真正銘の組員だった」
「え? それ、本当なの?」
「彼の弟分はそうなんだけど、リッちゃん本人はどこにも所属していない一匹狼みたいなんだ。そのせいで、色々なところから目を付けられる」
「例えば?」
「歌舞伎町は色々な人種も入り混じっている。日本のヤクザもいれば、中国や台湾のマフィアもいる。お互いに勢力を拡大したがっていて、何か事件が起こると、それをきっかけに均衡が崩れることはよくあるらしいんだ。今回は誰かがオレオレ詐欺と警察を利用して、リッちゃんを陥れようとしているみたいなんだ」
「でも、あなたや私たち一般人には関係の無いことよね」
「確かにそうなんだけど。だからリッちゃんは俺たちに迷惑がかからないように、姿を消す準備をしている。しばらく会えなくなるからって、俺を自分の大切な仲間に引き合わせた上で、さよならを言ったんだ」
「何だか、本当に怖いわ。裏の社会のことなんて、考えたことも無かったから」
「心配要らないよ、俺たちとは住む世界が違っている」
「でも、こうしてあなたも巻き込まれそうになったわよね」
「ああ、でも友人関係をそんなことで、自分から切り捨てたくなかったんだ」
 ミユキはヒロユキを見つめたまま黙っていた。
「実は、今日、俺のところにも刑事と名乗る奴が来た」
 ミユキの顔が一気に青ざめた。
「何で、あなたに」
「リッちゃんのことで何か知らないかって、ただそれだけだよ」
「でも、警察はあなたと彼が何か関係があるって思っているってことよね」
 ヒロユキは口をつぐんだ。
「怖いわ、私。そもそもあなたの友人たちがその事件に関わって無いって断言できる? あなたまで仲間だと思われて、警察に行くことになったら私……」
 顔を手で覆った。
「ごめんよ、でも今はリッちゃんを信じてあげるしかない」
 ミユキが顔を赤くして声を荒げた。
「もう、あなたのお友だちとは金輪際会わないって約束して!」
「もう二度と?」
「そう、もう二度と連絡を取らないで!」
 ヒロユキはしばらく黙っていたが、ゆっくりと頷いた。考えてみれば無理も無い。突然ヤクザの友だちを紹介されて、受け入れられるわけがない。しかし心はまだ揺れていた。

 数日間、気持ちの整理がつかず、携帯電話のメモリーに登録したサカキリュウイチの文字を画面に呼び出し、削除ボタンを押しかけては止め、そんなことを繰り返していた。恐らく、ヒロユキから連絡しなければ、リュウイチから連絡してくることは無い。タカシもミサキもヒロユキの連絡先を知らないし、リュウイチが教えることも無いだろう。リュウイチはその世界で生き抜いてきた慎重な男だ。すでにヒロユキの連絡先を消去している可能性だってある。いずれは、こちらからだって連絡が取れなくなるはずだ。このまま自然に切れてしまうことが、最も良いことなのかも知れないが、何故かヒロユキの心にリュウイチを裏切るような負い目がある。そうかと言って、ミユキを裏切ることもできない。仕事中もそのことばかり考えていた。
 アスファルトにセミの鳴き声が貼りつくような季節になっていた。街角のちょっとした木陰に身を潜めたくなるような暑さが続いた。営業で外回りをしていても、ヒロユキの心はどこか遠くへ飛んでいた。このまま時間さえ過ぎれば、リュウイチとのことも何も無かったことになるのだろうか。ミユキもあれ以来、一言もリュウイチの話題に触れることは無かった。たまにニュースでオレオレ詐欺グループの主犯格の男が捕まったと聞くと、口には出さないが耳をそばだてて聞いていた。
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