十一

文字数 2,769文字

 「リッちゃん、一度どこかで会えないか?」
連絡を取ったのはヒロユキだった。リュウイチがしばらく無言のまま、受話器の向こうでヒロユキの声を聞いていた。
「歌舞伎町の台北小吃で会おう。ただし、これが最後になるかもしれない」
 ヒロユキもリュウイチに会うのはこれが最後と決めていた。会って、真実を自分の目で確かめ、自分の胸の内を全て話し、その上でさよならを告げるつもりでいた。だから今回だけは、ミユキに黙ってリュウイチに会うつもりだった。友情を捨てる代償として、これくらいの嘘は許されるだろうと思った。
「時間は?」
「土曜の夜、午後十時、直接、台北小吃で」
 通話はすぐに切れた。

 土曜の夜の歌舞伎町。熱帯夜。汗が額に浮く。街のネオンがヒロユキの眼鏡に映り込む。酔った男の姿とタクシーの真っ赤なテールランプがあちらこちらで見うけられた。夏の夜に、この街の蠢く音がする。
 午後十時丁度に店に着いた。リュウイチはまだ来ていなかった。時間には正確な男だけに少々違和感を覚えたが、瓶ビールをもらい、前と同じテレビのよく見える席でリュウイチを待った。
 午後十一時になってもリュウイチは現れなかった。携帯電話に着信が無いか気になって、テレビ番組の内容など覚えていない。時折、女主人がちらっとヒロユキの方を伺うが、他に流しの客が数人来ただけで他に客はいなかった。リュウイチが姿を現したのは、終電の時刻が気になり始めた頃だった。リュウイチは女主人に目で合図を送ると、さっと店内に入った。
「ヒロユキ、済まん、遅れてしまって」
 肩を叩いた。
「何かあったの?」
「まぁ、色々とな、裏の世界も色々と面倒なんだよ。それで話って何だ?」
 瓶ビールを頼むと、コップで一杯、グッと飲み干した。
「先日、僕のところにも刑事が来たよ」
「そうか、それで何を聞いてった?」
「リッちゃんのこと。オレオレ詐欺に関わってると言ってた。それから、リッちゃんとどこで知り合ったのか聞くから、俺、思わず、子供の頃に青森でって言ってしまった。拙かったかな?」
「いいや、構わない。お前は全て正直に話せばいい。嘘なんてつくな。お前たちみたいな素人が嘘ついたって、あいつら刑事にはすぐバレる。変な嘘ついて疑われるくらいなら、全部正直に話せ。俺は困らない」
「そうか、それなら良かった。少し気持ちが楽になった」
「すまんな、お前にまでそんな思いをさせて」
「いいんだよ、リッちゃん」
「実はな、たぶんお前のところにも刑事が行ったと思って、今日の待ち合わせ時刻、悪いと思ったが少し様子を見させてもらった。刑事だけじゃない、お前を誰かがつけていることも考えられるだろう? 済まなかったな」
「そうだったの。今、リッちゃんの周りで本当は何が起こっているの? 今日はそれを自分の目で確かめに来たんだよ」
 リュウイチがヒロユキの瞳の奥を覗き込んだ。ヒロユキもリュウイチの目を見返したが、青みがかった大きな瞳に吸い込まれてしまいそうで、思わず目を逸らした。
「いいだろう、話してやるよ」
 リュウイチはそう言って、煙草に火をつけた。
「歌舞伎町の裏社会は複雑に入り組んでいて、組だけでも相当な数になる。更に中国、ロシア、コロンビア、メキシコ、ナイジェリア、イラン、台湾、香港の奴らが加わって、歌舞伎町の街は暗黙のルールの下に共存共栄で何とかやってきたんだ。色んな勢力争いは、俺がこの街に来た時からあったが、基本は共存共栄で、たまにどこかで喧嘩があって、若いのが一人や二人死んだとしても、組同士では穏便に金で解決してきた。俺たち組に属さない、いわゆる半グレと呼ばれるやつらも、一匹狼は稀で、たいていは仲間で群れたり、特定の組と深く関わったりしている。組としても、自分たちが直接手を下し難い暴対法でパクられるような案件も、半グレたちはやってしまうから、組も半グレたちも互いに都合よく利用し、共存していたんだ。それは本当に微妙なバランスの上に成り立っていて、何かのピースが外れることで歪んで、またそこに争いが起こる。今回はお前もニュースで知ってるだろうが、例の組の分裂騒動が発端で、ここぞとばかりに誰かが誰かに毎日ちょっかいかけてきやがる。おまけに今回は警察までが、組や不法滞在の外国人、そして俺たち半グレをも切り崩そうと躍起になっている。今回のことは、単に組が分裂して、組と組との抗争では済まないんだよ。外国人や俺たち半グレまで巻き込んだ裏社会の『戦争』になりつつある」
 話を黙って聞いていたが、すでに歌舞伎町の現状の話などどうでもよかった。ミユキのためにも、これ以上この闇の深い世界に関わることはできない。
「もう、裏の社会から抜け出すことはできないんだね」
 リュウイチが頷いた。
「ヒロユキ、お前の気持ちは全てわかったよ。でもな、俺はもう、この世界から抜け出して堅気には戻れない。わかるだろう? 俺のような人間が、今更明るい陽の下で生きて行けると思うか? お前たち堅気の奴らは、裏の社会のことを悪の巣窟みたいに言うけどな、裏社会はな、表社会からあぶれた俺たちのような奴らを受け入れてくれた」
 リュウイチが苦笑する。
「お前、必要悪って言葉、知ってるか?」
 ヒロユキが首を傾げた。
「表の顔をした奴らだって、何か争いが起こればすぐに金を使って裏の人間を利用しようとするだろう? 現にヤクザがいなければ、海外のマフィアが楽々と暗躍するだろうし、半グレはやりたい放題だ。世の中にはなぁ、奇麗事では済まされないことが幾つもある。俺たち裏社会の奴らより、狡賢い素人の方が、余程性質が悪いと思わないか? 大企業のお偉いさんの顔してヤクザを使ったり、汚い仕事やってる奴、俺は腐るほど知ってるぜ」
 何も言い返すことができなかった。リュウイチのこれまでの人生を思えば思うほど、何も言葉が出て来なかった。正義という言葉を、社会的な枠にはめ込んで彼らに振りかざしたって、何の意味も無い。正義をかざし、いくら騒ごうが喚こうが、そんな主張など弾丸一発で闇に葬られることを、リュウイチは経験的に知っている。闇の深さを思った。すでに計るのをやめていた。
「わかったよ、リッちゃんはリッちゃんの道を行けばいい。俺も俺の道を行くから」
 リュウイチは微笑を浮かべながらも、瞳はどこか遠くを見ているようで、目尻に寄った皺が寂しげだった。
「短い付き合いだったけどな、昔をいっぱい思い出せて、楽しかったよ」
 ヒロユキが頷いた。
「もう二度と会うことは無いと思うが、元気でな、ヒロユキ」
 リュウイチが席を立った。湿気を含んで蒸した空気が動いた。彼が消えた歌舞伎町の闇に、ヒロユキは祈りを捧げたい気持ちでいっぱいだった。首の周り、背中、額にじっとりと油のような汗をかいた。もうすぐ夏が終わろうとしていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み