第14話 泡沫の倖せ
文字数 2,121文字
緑に囲まれた湖のほとりには大きな城がある。
重厚な石造りの城だ。
城の周りには木々が生い茂っており、夜になると辺り一帯が霧に包まれる。迷い込めば闇に呑まれ、二度と出られない。
いつの頃からかそんな噂がまことしやかに囁かれ、訪れる者もいなくなってしまった。
今は静かで穏やかな時間が流れている。
***
カーテンの滑る音、窓から差し込む白い光。
それらが朝の訪れを告げて、彼は瞼を持ち上げる。耳には風のささやきのような優しい声。
「おはようございます。今日はいい天気ですよ」
青年は上半身を起こして伸びをし、それからあくびを一つこぼした。
「おはよう」
青年は彼の仕える主人であり、幼馴染でもあった。
この城に住むのは、彼らの他に誰もいない。家が没落し、財産を失ってしまうと同時に、他の使用人たちは皆去ってしまった。
広い城にたった二人。
寂しくないと言えば嘘になるが、ゆったりと流れる時間は尊いものだと使用人の男は思っている。
食卓につくのは主だけ。
使用人はいつでも傍に控えている。
もう気にすることはないからおまえも席につけと言われたことは何度かあったが、使用人がそれを拒んだ。
「おまえには本当に感謝してるよ」
「なんですか、急に」
「ん、まあな……」
主はふふっと吐息のような笑いを漏らす。
「なあ、今日は天気もいいし、外に出てみようかと思っているのだけど、おまえも付き合ってくれるか?」
使用人の日記 3月15日
今日は朝から庭の散策をされた。
春の陽射しが心地よく、木蓮の花の蕾がほころび始めていた。
庭師がいなくなってからは手入れが行き届かず、いくつか枯れさせてしまったものの、あの方の好きなこの花だけはと思って世話をしてきた甲斐があった。
どうにか今年も見られそうだ。
「明日だろうか、明後日だろうか。いや、もう少し先かもしれないな」
そう言って、彼は楽しみだと笑っていた。
運動をした為か腹減ったと言い、この日の夕食は珍しく、いつもより多く召し上がられていた。
皆が去ってしまってから、やはり内心では落ち込んでおられたようなので心配していたが、今日の様子を見て少し安心した。
***
「これ、使い古しで悪いけど」
そう言って差し出されたのは、革をなめして作られた長方形の箱だ。中央に金の刻印がされている。
唐突なことに使用人が戸惑っていると、主は蓋を開けて見せた。
中にはチェーンのついた平たい円形の物が収められている。
「昔、親父にもらったものでな。本当なら、もっとちゃんとしたものを用意したかったんだけども」
温かみのある、あかがね色のそれは懐中時計で、上蓋を開くと針はきちんと時を刻んでいた。
「一応さっき合わせておいたけど、また適当に調整してくれ」
「そんな、こんな大事なものいただけません」
「いいから」
慌てて首を横に振るが、主はさっさと使用人の衣服の釦穴にチェーンを通してしまう。
そうして満足そうに笑い、使用人の顔を見上げて言ったのだった。
「誕生日おめでとう」
使用人の日記 3月17日
長らく誕生日の祝いなどしておらず、すっかり忘れてしまっていた。
こんな風に気にかけていただけるのは、もったいないことだと思うが、素直に嬉しい。
頂いた時計は三日に一度は竜頭を巻かないといけないらしい。昨日、調節してくださったと言っていたから、明後日に巻けばいいのだろうか。
ところで、あの方の誕生日は一月後だ。
おれは何をすればいいだろう。どうすれば喜んでもらえるだろう。
おれが今日嬉しかったように、あの方にも喜んでいただきたい。
今のこの状況でできることは限られているけれど、その中で可能な限りのことはしていきたいと思う。
***
朝方はきれいに晴れていた空が、今は薄い灰色の雲に覆われている。
優しい風がカーテンを揺らす窓際に椅子を寄せ、主は何やらぼんやりとした様子で分厚い本を開いて眺めていた。
「何を読んでいるんですか?」
「んー」
ポットと茶器を乗せた盆を机に置き、問う使用人に、主は手招きした。
「知ってるか? これ、天空の鏡って呼ばれる絶景」
「ああ、聞いたことがあります。雨で冠水した土地に空が映し出されるんですよね。いろんな条件が揃ってないと見られないとか」
本に書かれたその現象は遠く、遠く離れた土地で起こる奇跡の光景だ。
主はぱらぱらとページをめくって見せてくれる。
「他にも色々あるぞ。空気中の埃が氷を纏って宝石みたいにキラキラ輝いて見えるとか、砂地の上に自然にできた模様だとか……」
主は楽し気に話し、それから一つ息を吐き出して言う。
「見てみたかったなあ」
閉じた本の表紙を見つめ、彼が何を考えているのか使用人には嫌というほどわかっていた。
使用人の日記 3月21日
気の利いた言葉の一つも言えない自分がもどかしく、嫌になる。
わかっている。あの時たとえおれが何を言っても、きっと気休めにもならなかっただろう。
それでも何もできないのは辛い。
あの方の痛みや苦しみをおれがぜんぶ負うことができたらいいのに。
それができないならせめて、分け合うことができればいいのに。
けれど、おれには結局何もできやしない。
無力な自分が情けない。
重厚な石造りの城だ。
城の周りには木々が生い茂っており、夜になると辺り一帯が霧に包まれる。迷い込めば闇に呑まれ、二度と出られない。
いつの頃からかそんな噂がまことしやかに囁かれ、訪れる者もいなくなってしまった。
今は静かで穏やかな時間が流れている。
***
カーテンの滑る音、窓から差し込む白い光。
それらが朝の訪れを告げて、彼は瞼を持ち上げる。耳には風のささやきのような優しい声。
「おはようございます。今日はいい天気ですよ」
青年は上半身を起こして伸びをし、それからあくびを一つこぼした。
「おはよう」
青年は彼の仕える主人であり、幼馴染でもあった。
この城に住むのは、彼らの他に誰もいない。家が没落し、財産を失ってしまうと同時に、他の使用人たちは皆去ってしまった。
広い城にたった二人。
寂しくないと言えば嘘になるが、ゆったりと流れる時間は尊いものだと使用人の男は思っている。
食卓につくのは主だけ。
使用人はいつでも傍に控えている。
もう気にすることはないからおまえも席につけと言われたことは何度かあったが、使用人がそれを拒んだ。
「おまえには本当に感謝してるよ」
「なんですか、急に」
「ん、まあな……」
主はふふっと吐息のような笑いを漏らす。
「なあ、今日は天気もいいし、外に出てみようかと思っているのだけど、おまえも付き合ってくれるか?」
使用人の日記 3月15日
今日は朝から庭の散策をされた。
春の陽射しが心地よく、木蓮の花の蕾がほころび始めていた。
庭師がいなくなってからは手入れが行き届かず、いくつか枯れさせてしまったものの、あの方の好きなこの花だけはと思って世話をしてきた甲斐があった。
どうにか今年も見られそうだ。
「明日だろうか、明後日だろうか。いや、もう少し先かもしれないな」
そう言って、彼は楽しみだと笑っていた。
運動をした為か腹減ったと言い、この日の夕食は珍しく、いつもより多く召し上がられていた。
皆が去ってしまってから、やはり内心では落ち込んでおられたようなので心配していたが、今日の様子を見て少し安心した。
***
「これ、使い古しで悪いけど」
そう言って差し出されたのは、革をなめして作られた長方形の箱だ。中央に金の刻印がされている。
唐突なことに使用人が戸惑っていると、主は蓋を開けて見せた。
中にはチェーンのついた平たい円形の物が収められている。
「昔、親父にもらったものでな。本当なら、もっとちゃんとしたものを用意したかったんだけども」
温かみのある、あかがね色のそれは懐中時計で、上蓋を開くと針はきちんと時を刻んでいた。
「一応さっき合わせておいたけど、また適当に調整してくれ」
「そんな、こんな大事なものいただけません」
「いいから」
慌てて首を横に振るが、主はさっさと使用人の衣服の釦穴にチェーンを通してしまう。
そうして満足そうに笑い、使用人の顔を見上げて言ったのだった。
「誕生日おめでとう」
使用人の日記 3月17日
長らく誕生日の祝いなどしておらず、すっかり忘れてしまっていた。
こんな風に気にかけていただけるのは、もったいないことだと思うが、素直に嬉しい。
頂いた時計は三日に一度は竜頭を巻かないといけないらしい。昨日、調節してくださったと言っていたから、明後日に巻けばいいのだろうか。
ところで、あの方の誕生日は一月後だ。
おれは何をすればいいだろう。どうすれば喜んでもらえるだろう。
おれが今日嬉しかったように、あの方にも喜んでいただきたい。
今のこの状況でできることは限られているけれど、その中で可能な限りのことはしていきたいと思う。
***
朝方はきれいに晴れていた空が、今は薄い灰色の雲に覆われている。
優しい風がカーテンを揺らす窓際に椅子を寄せ、主は何やらぼんやりとした様子で分厚い本を開いて眺めていた。
「何を読んでいるんですか?」
「んー」
ポットと茶器を乗せた盆を机に置き、問う使用人に、主は手招きした。
「知ってるか? これ、天空の鏡って呼ばれる絶景」
「ああ、聞いたことがあります。雨で冠水した土地に空が映し出されるんですよね。いろんな条件が揃ってないと見られないとか」
本に書かれたその現象は遠く、遠く離れた土地で起こる奇跡の光景だ。
主はぱらぱらとページをめくって見せてくれる。
「他にも色々あるぞ。空気中の埃が氷を纏って宝石みたいにキラキラ輝いて見えるとか、砂地の上に自然にできた模様だとか……」
主は楽し気に話し、それから一つ息を吐き出して言う。
「見てみたかったなあ」
閉じた本の表紙を見つめ、彼が何を考えているのか使用人には嫌というほどわかっていた。
使用人の日記 3月21日
気の利いた言葉の一つも言えない自分がもどかしく、嫌になる。
わかっている。あの時たとえおれが何を言っても、きっと気休めにもならなかっただろう。
それでも何もできないのは辛い。
あの方の痛みや苦しみをおれがぜんぶ負うことができたらいいのに。
それができないならせめて、分け合うことができればいいのに。
けれど、おれには結局何もできやしない。
無力な自分が情けない。