第15話 溶けて消える

文字数 2,024文字

「覚えてるか?」

 朝から降っていた雨はいつの間にか止んでいて、空はすっかり晴れ渡っていた。
 開け放たれた窓から星を見上げながら、主が言った。

「昔、二人で城を抜け出したことあったよな」
「はい。山に遊びに出かけて、迷ったんですよね」
「日が暮れて真っ暗で、鳥の声が不気味で、木の枝や葉がオバケのように見えて怖かったな」

 怯えながらも、二人で手をつなぎ歩き続けた。
 そうして木々の途切れた場所に出た時、見上げた星空の美しさは今でも覚えている。
 主はすっと腕を伸ばして人差し指を空に向けた。

「あの星だったよな」
「そうですね」

 真北に見える、ひときわ強い輝きを放つ星。
 動くことがなく、ずっと同じ位置にあるという。
 使用人が父親から教えてもらったと聞き、それを頼りに方角を見定めたのはまだ幼かった主だった。
 互いに互いの手を握り、再び歩き始めて。
 そうしたら二人を探しに来た大人たちと会うことができて、無事城に帰ることができたのだった。

「もしも道に迷うことがあったなら、あの星を頼りに進むといい。おまえの親父さんの言葉だったな……」
「はい」

 まだ冷たい夜の風が吹き込んで、カーテンを揺らす。
 主は頬杖をつき、うっとりとしたように呟いた。

「星が綺麗だな……」


 使用人の日記 3月25日

 あの方はおれよりも二つ年上で、子どもの頃はよく一緒に遊んでもらったものだった。
 なんでもよく知っていて、色々なことを教えてもらった。
 おれにとって、あの方はあの動かない星そのものだ。
 今までも、そしてこれからも……

***

「悪いな、おまえには色々世話になって……苦労かけて」

 ベッドに横になったままの状態で主が言った。
 声は弱々しい。
 使用人は黙って首を横に振ると、ベッド脇の卓に水差しを乗せた盆を置いた。
 上半身を起こした主に、水を注いだカップを手渡す。

「少しでも何か食べられませんか?」
「いや……今はいい。また、腹が減った時に頼むよ」

 主は一口だけ水を口に含んだだけでカップを盆の上に戻してしまう。
 そしてまたベッドに体を横たえた。

「少し寝るな、昨日はよく眠れなくて………」

 少しして、穏やかな寝息が聞こえてくる。
 きちんと布団をかけなおし、使用人はその寝顔を見つめる。
 そしてしばらくの間、その場を離れなかった。


 使用人の日記 4月6日

 日に日に弱っていく様子は、見るに耐えない。
 食欲もあまりないようで、また少し瘦せたようだ。
 ひどい時には、水を飲んだだけでも吐いてしまう。
 痛みを和らげる薬があと少しで切れそうだから、また街に行かなければいけない。けれど街までどれだけ急いでも半日はかかる。その間、あの方を一人にしてしまうのが心配だ。



***


「星が見たいな、一面の星空。なあいいだろ? 少しだけ、少しだけでいいから」

 夜中に近い時間だった。
 子どものようにせがむ彼の望みを、使用人は聞き入れた。
 春が近くなるにつれ、夜でも以前のように冷え込むことはない。
 それにこの数日、主の容態は安定している。
 短い間なら大丈夫だろう。
 薄手の毛布でやせ細った体を包み、肩を貸して歩く。
 夜の湖は静かで暗く、少し不気味だった。
 近くの草地に彼は腰を下ろし、使用人はいつものとおり後ろに下がろうとしたところ、服の裾をそっと引かれた。

「隣に」
「でも」
「今日だけでいい。なあ頼むよ。昔みたいに、な?」
「………」

 主人だとか、従者だとか関係なく、ただの友人として隣に並び共に遊んだあの頃のように。
 二人で空を見上げる。

「あれが、海ヘビ座、乙女座、大熊座、小熊座……でしたよね」
「よく覚えてるなあ」
「おれがあなたに教えられる唯一のことですから」

 星を見るのが好きだった主のために、使用人は父から星座や星の名前を教えてもらった。
 膝を抱えた使用人の腕に何かが当たった。

「     」

 懐かしい呼び名だ。
 主は口を開きかけて、けれどすぐに閉じてしまう。
 何かを言いかけて、やめたように見えた。

「どうしましたか? 具合が悪いのなら部屋に……」
「いや、大丈夫」
「無理はしないでください。星は逃げませんから、明日また見に来ましょう」
「うん、ありがとう」

 素直に頷く主を再び支えて、使用人は立ち上がる。
 城に戻り、ベッドに寝かせて、それから言った。

「おやすみなさい。良い夢を」


 使用人の日記 4月8日

 いつもどおりちょっと微笑んで、「おやすみ」と言って。
 顔色だって悪くなかった。
 だけど。
 朝、まるでただ眠っているだけかのように彼は亡くなっていた。
 朝の光の中、今にも目を開けて、起き上がってきそうに見えた。
 でも、いくら声をかけても、体をゆすっても、なんの反応もなかった。
 穏やかな顔をしていたのは、唯一の僥倖だったのかもしれない。
 苦しまず、本当に眠っている間に息を引き取ったのであれば……それだけでも。
 だけどおれは……
 最後の時まで傍にいようと決めたのに。
 最後の最後で、彼を一人にしてしまった。
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