第63話 甘いにおい

文字数 2,031文字

 おれってそんなに信用ない?

 複雑な計算式を物凄い速さで書きながら、ティランは頭の隅で考える。
 そうかもしれない。
 山吹のことを告げれば、ルフスはショックを受けるだろうし、自責の念にかられるだろう。元はといえば、力を利用されたティランに非があるというのに、それを言ったところで、ルフスにはきっと響かない。
 共にいて何も気づけなかったことを後悔するに違いない。
 ルフスという人間は意外に繊細だ。それはティランがルフスと一緒にいて感じたことだ。感情を殺したり、見切りをつけるということができない優しい男だ。本来ならば戦いとは無縁の世界で、平穏に生きることが性にあっているタイプだろう。

 いや、本当はティラン自身がそれを彼に望んでいるだけかもしれない。

 柔軟な思考も、苦難を乗り越えられるだけの強かさも、ルフスにはあって、ただティランが見たくないだけなのかもしれない。ルフスが傷つくところを、傷ついた顔を。
 だからルフスには知らせず、ティランは自分の力でどうにかするつもりでいた。
 魔法と、呪い、妖の力。それらに関する、あらゆる知識を得れば、それをかけ合わせて解呪の方法を作り出せるかもしれない。
 魔王は大いなる知識を持つ存在だが、そこから新しいものを生み出すことはない。
 生み出すのは、この世界に生きる者達の役目だ。

「?」

 不意に書きかけの文字がぐにゃりと歪んだように見えて、ティランはペン先を持ち上げた。
 何枚にも渡って綴られた紙に、黒のインクで記された図形。そして文字と数字の群れ。それらが紙から剝がれ浮き上がり、ひとりでに動き始めたので、ティランはぞっとして、傍に転がしておいた杖を取り、飛び退って座卓から離れた。
 バラバラにされた文字と線が組みなおされ、空中に描かれた魔法陣。
 それは召喚に関するものだ。
 ただし、対象は魔王ではない。

 虚ろなる深淵。
 筒蛇。
 空間を繋ぐ存在。

 読み取ると同時に、魔法陣から飛び出してきた真っ黒な塊が大きく口を開き、ティランを頭から飲み込んだ。
 視界が暗転する。
 まるで全身を押しつぶされるような圧に、ティランは意識を失った。


 次に気が付いた時、ティランは檻の中にいた。
 商品である人間を入れるための鉄の箱。競売場で何度も目にしたそれだ。ティラン自身はそれ以前に傀儡の術を施されていたので、他の逃げ出すおそれがある奴隷などはそこに閉じ込められ運ばれていた。
 格子越しに見える外は、無骨なそれとは不釣り合いな場所だった。
 思い出すのは、初めてロッソと出会ったあの時。
 そう、アルナイル城の謁見の間。
 長く伸びた真紅の絨毯の先、壇上に据えられた玉座。そこで微笑みを浮かべて座るのは、本当の主ではなく、彼の婚約者であった女だ。
 可憐な唇から二重にぶれた声が発せられる。

「気分はどうだね、賢者殿」
「アンノウン……!」

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 強く睨みつけながら、ティランは吐き捨てるように言った。起き上がろうとして、身体の動きが鈍いことに気づく。
 両手を床につきながらどうにか上半身を起こすティランを眺め、アンノウンは微笑む。

「もうしばらく遊ばせてやってもよかったんだがね。この身体がそろそろ限界のようで、猶予がなくなってしまった。恨むならこの愚かな姫君を恨むといい。自ら聖剣に貫かれるなど愚行を犯したこの身体の持ち主を」
「だまれ」

 頭をもたげたまま、ティランは低く言う。
 なんだこれは。体が思い通りにならない。頭が重くてぼんやりしている。思考がまとまらない。
 魔法か。
 いや、その気配はない。
 ただ何か……
 室内に漂う、この甘ったるい匂い。ゆっくりと顔を上げ、視線を動かして部屋の隅に香炉を見つけた。こめかみを嫌な汗が伝う感触が妙に生々しい。
 そうだ、この匂いは。この症状は。徐々に働かなくなる頭を、気力だけでどうにか動かし、ティランは答えを導き出す。

「りゅう、りんそう……」
「正解だよ、流石だなァ賢者殿」

 手を叩いて喜ぶアンノウンのふざけた態度にも、ティランは怒る余裕さえ残っていない。
 上半身を支えていた腕から力が抜けて、床に倒れる。

「人間達の間で麻薬としても使用されるこの植物は強い快楽を生むが、同時に使用者の脳に影響を与える。強引なやり方だが、こうでもしないと君に憑りつくのは難しそうだからね」

 アンノウンは玉座から腰をあげる。
 薄れゆく意識の中、ティランの耳にどさりと音が響いた。
 それは、今までアンノウンの依り代となっていたセラフィナの身体が床に落ちた音だったが、ティランがその事実を知ることはなかった。
 それからややあって、檻が唐突に消えたかと思うと、倒れていたティランが立ちあがった。
 自身の体を見下ろし、手指を曲げ伸ばししたりして動きを確認する。
 望む通りに動く体。
 そして、身の内から溢れんばかりの魔力。
 クッと喉が震える。
 三日月の如く弧を描いた唇から、抑えきれない笑い声が漏れた。
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