12:兆候

文字数 3,452文字

 信哉は「支度中」の札がかかるドアを遠慮なく押し開けた。からころとドアベルが鳴った。
「ごめーん、食事できるー?」
 大きな声で厨房に向かって呼びかけると、奥から「いつものでいいー?」と男の声が返ってきた。
「おねがーい」
 彼は誰もいない店内のカウンター席に腰かける。PJという名のこの店はずいぶん前に新宿から目黒区のはずれに移転したが、雰囲気はあきれるほど変わらない。せっかく年季の入った重厚な調度を使っているのにテーブルには前世紀の食堂を思わせるビニールクロスがかかっており、フードの類も昔ながらの洋食屋といった風情で“カフェ”と呼ぶにはちょっと戸惑いがある。
 昼はランチタイムだけ営業し、夜はアルコールを出しているが、女子ウケには程遠く、大盛りのカツカレーを目当てに男が一人、二人と訪れては帰っていく。そんな店だった。
 しばらくすると四十がらみのマスターがオムライスとサラダ、アイスコーヒーを手際よく信哉の前に並べた。
「いつも悪いすね。こんな時間に」
「その代わりいつも同じもんだよ」
 午後の三時前だった。信哉はいつも明け方から仕事をして午後早めに切り上げる。もちろん作業中は一人だ。店にもそう頻繁に通っているわけではないが、会話らしい会話をするのはマスターぐらいという状態が続くことが珍しくなかった。
「一昨日、寺岡さんって人が来た」
「テラオカ?」
「昔、ノブさんと一緒にバイトしてたって。データ入力っていってたな」
 信哉はスプーンを口に運びながら寺岡のことを思い出す。
「眼鏡かけてて、背がわりと高い」
「そう。その人だね」
「マスター覚えてないだろうけど、店が新宿にあった頃に一回連れてきたよ」
 信哉は記憶をたどり、苦々しいものに突き当たるのを感じた。
「そうだっけ? だからか」
「だからって?」
「藤崎さんって人があんたのこと探しているから連絡が取りたいんだってさ。それって昔よく一緒に来てたコージくんだろ?」
 スプーンを動かす信哉の手が止まる。
「だね。コージだ」
 信哉はアイスコーヒーのストローをくわえた。
「で、テラオカにはなんて?」
「一応、しばらく顔を見てないけど来たら伝えるってとぼけておいたよ。それでいいんだよな?」
「うん。ありがとう」
 マスターは壁のホワイトボードから名刺を一枚外してカウンターに置いた。
「連絡先だってさ」
 昔のアルバイト先のロゴマークと寺岡の名前が目に入る。裏面には手書きで別の電話番号とSNSのアカウントが記されていた。信哉は名刺を横目に見ながら、再びオムライスと格闘を始めた。いつものことながらかなりのボリュームだ。
「これまで来た連中とはだいぶ毛色が違ったから、ほんとに友だちなんだろうとは思ったけどね」
「助かるよ。すまないっすね」
 マスターはコップに水を注ぎ足しながら言った。
「なあ、ノブさん?」
「ん?」
 信哉は口を動かしながら顔を上げた。
「この頃ちょっとまずいんじゃないのか? ちょいちょいあんたを探しにくる奴がいる」
「迷惑かけるね」
「いや、そんなのは大したことじゃないんだけどさ」
 寺岡の名前を聞いた瞬間に覚えた胸騒ぎがやはり消えない。用心に越したことはなかった。
「マスター、テラオカは一人?」
「そうだね。外にも連れがいる気配はなかったな」
「確かにテラオカは昔の知り合いだし、コージのことはずっと気になってるんだけど」
「うん」
「またあいつが来てもおれのことは教えないでほしいんだ」
「もしコージくんが来たら?」
「そっちも。とりあえず」
 マスターは承諾すると「ゆっくりしてって」といって厨房に戻っていった。

                   ◇

 寺岡に仕事を教えたのは信哉だった。
 あまり自分から話しかけてくるタイプではなかったが、音楽には興味があったようで信哉やバンドをやっている連中の話を楽しそうに聞いていた。どこか他人行儀な距離感はなかなか消えなかったが、それでも少しずつ親しくなっていった。
 アルバイトが休みのとある土曜日、寺岡から電話がかかってきた。電話番号は彼をライブに呼んだときに教えた。ライブハウスがかなりわかりにくい場所だったので念のためにという感じだった。
 彼からの連絡を少し意外に思いながら電話に出た。
「すみません。ノブさんしか思い当たらなくて」
「なにかあった?」
「ここから連れ出してほしいんです」
「どこにいんの?」
 寺岡は小声ながらひどくあわてていた。
「会社の近くのファミレスわかりますか?」
「交差点からちょっといったとこか」
「はい」
 あまり詳しい話を聞いている時間はなさそうだと信哉は判断した。「すぐいくよ」と電話を切った。万一のことを考えて、少し季節外れだったが持っている革ジャケットの中でも一番厚手のライダースを羽織って出かけた。
 寺岡が言っていたファミリーレストランに入ると、奥まった壁際のボックス席に寺岡がいた。お待ち合わせですか?という店員の問いかけに無言でうなずいて、信哉はテーブルに向かった。
 彼の隣に学生風の男が座っていたが、雰囲気は寺岡とよく似ている。向かいの席にも一人いるが背中から服装を見る限り同じようなタイプだった。友だち同士で時間つぶしをしているようにしか見えない。
 彼らが殴り掛かってくるようなことはまずないと信哉は踏んだ。
「悪いけど、この後こいつと約束があるんだ」
 信哉は二人の顔を交互に見た。
「こちらもまだ用事が済んでいない」
 向かいに座っている男が、責めるような視線を寺岡に向けた。
「なあ、いこうぜ」
 信哉は、奥にいる寺岡に腕を伸ばして手招きをした。そして、その腕を戻しながら隣の男の前にあったアイスコーヒーをライダースの袖にひっかけた。グラスが男の脚に落ちる。
「なっ!」
「あー、ごめん。ほんとごめん」
 信哉は立ち上がった男を気づかうように席からどかせた。
「テラオカ、いくぞ」
 寺岡を奥の席から引っ張りだす。信哉はウェイトレスとすれ違いがてら「コレこいつの分ね」といってポケットから出した千円札を押し付けると、そのまま寺岡を店外に連れ出した。
 小走りで店から離れる。振り返ると男立ちが店の前で左右を見まわしていた。信哉と寺岡はそのまま小道に折れて彼らの視線を逃れた。
「助かりました」
「なんなの? あれ」
「勧誘、っていうか引き留め。うち、親が会員で」
「でも、これじゃまた呼ばれるだろ」
「とりあえずこれからは会わなければいいんです」
「そんなに簡単なもんなの?」
「わかんないですけど、今日はあれ以上がんばるのムリだった」
 信哉は周囲に目をやって人影がないことを確認すると、歩調も緩めずそのまま寺岡を一軒のカフェに引き込んだ。

                   ◇

 そのカフェがまだ移転前のPJだ。
 そしてあの時、寺岡を引き留めていたのが“えにしの会”という団体だった。当時の信哉にはもちろん無縁の団体だったが、現在は状況が違う。
 自分の仕事の最終的なクライアントにその団体がいることを信哉は知っていた。パイプが付け替わっても変わることがない流れの一番上のひとつだ。団体が認めているのか、会員の一部が勝手にやっていることなのかはわからないが、信哉の“(ロイド)”たちは資金面で彼らにそれなりの貢献をしているはずだった。
 いずれにしても自分には直接関わりがないことだと考えてきたが、最近になって日常に違和感を覚えるようになった。何者かが自分の周囲を探っている。やがてPJにも自分を訪ねてくる者が現れた。
 目的は“(ロイド)”しかない。
 直接交渉してこないのはクリエイターを介在させたくないからだ。“(ロイド)”のオリジナルと信哉の開発ツールがあれば自前で回すことができると考えているのだろう。似たようなケースは以前にも別のクリエイターで発生したことがある。
 カウンター席から振り返り、ドアの小窓の向こうに目を凝らす。外は夕暮れの気配に包まれ、通りにも人が増えてきた。もうしばらくしたら店もディナータイムだ。そのタイミングで店を出ようと信哉は思い、アイスコーヒーの残りを飲む。
 寺岡だけならば、懐かしい相手ではあるがそのまま無視をすればいい。きっと団体と無関係ではないだろう。
 問題は、彼が貢士の名前を出してきたことだった。明らかに意図的に一度は連絡を断った貢士がなぜ今さら自分を探しているか、信哉にはもちろんわからない。ただ、自分を探しているならば、当然はるかのことも探しているだろう。
 けれど、はるかを見つけ出すのは、自分を探すよりずっと難しい。
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