9:逡巡

文字数 2,813文字

 あの屋上で寺岡に会った日から後も、貢士は何度か都心に足を運んだ。はるかの実家がすでにないことは寺岡の話でわかっていたが、信哉が住んでいたアパートにもすでに彼はいなかった。彼の行きつけだった店もすでにない。
 正直なところ、ここまで何もつかめない状況になっているとは思っていなかった。信哉はかなり腹を立てていたようだし、もうこれ以上踏み込まない方がいいのかもしれない――そこでいつもの逃げ腰な自分に気づく。不愉快だった。
 少し考えるのをやめよう。そう思っても街角の風景に記憶は反応し、またはるかと信哉のことに思考は引き戻された。
 普段なら入らないような古びた喫茶店に、逃げ込むように腰を落ち着けた。
 オーダーをしてから、貢士は首筋の張りを確かめるようにゆっくりと頭を回した。後頭部にまとわりつくような違和感が気になる。
 一度意識してしまうと、それはいつも雨が降り始めるまで続く。例えばいま空が晴れていても、そんな時にはいずれ雨になる。そして実際に雨が降り出すと、こわばりは消える。いつも重く沈みだす気分にじっと耐えながら雨を待つことになった。
 一休みして喫茶店を出ると、冷たく湿った風がかたまりのように一度だけ通りを吹き渡った。
 すぐに降り出すだろう――貢士は少しほっとする。

 地下鉄の車内で首を左右にひねると、思いのほか大きな音を立てて首が鳴り、不意に意識がはっきりしてくるのを感じた。降り出したな、と彼は直感する。
 線路が地上に出ると、車窓には次々と水滴が貼り付いていった。
 貢士は窓の外に目を凝らした。子どもの頃から見なれた風景ではあった。だが、ベッドタウンとして発展した住宅地の灯火は首都機能移転で明らかに減っている。
 そろそろだと思った貢士は席を立ち、ドアの窓から遠くの丘陵地に視線を伸ばした。
 巨大な折り鶴のような構造物が丘の上に佇んでいる。列車が進むにつれ、その鉄骨の構造物は自ら回転するように角度を変えていった。
 横浜青葉二号機はまだ撤去作業の途中だった。
 もう機腕(アーム)が持ち上げられることはなく、そこに赤や青のランプが灯ることもない。撤去作業用の白い照明が、折り鶴のあばらを内側から冷たく照らしていた。
 貢士はその姿を凝視する。
 第三世代の大型機体――懐かしい目黒一号機と同型だった。そればかりか、目黒一号機の機体が一部流用されていることが確認されていた。もう調査結果のあらましはまとまっているだろう。
 機体のバイオグラフィが自分の過去と重なっている。何かを悼むような気分の貢士に、また思い出が追いすがる。

                  ◇

 その日、はるかと二人で海を見に行った。
 彼女は夜のアルバイトもその日は休んでくれた。それでも、そんな掛け持ちの毎日が楽なはずがない。湘南からの帰り道、今度は貢士がハンドルを握った。
「私が運転して横浜で降ろすのに」
「目黒のクレーンが見たいんだ。はるちゃんとこの近くから電車で帰るよ」
「またクレーンかあ」
 彼は第三京浜を経由して目黒通りを上っていくルートをとった。
「ノブくん送っていったときの道だね」
 返事をする代わりに、貢士は視線を泳がせながら微笑んだ。視線はビルの切れ間に現れては消えるストラクチャシステムのランプを追っていた。
 目黒一号機が起動したのは一年半ほど前だった。貢士はアルバイトの帰りにときどき遠回りをしてその作業を見物してきた。
 “彼女”は今夜も優雅に作業を続けていた。
 建設中のビルはすでに一〇〇メートルを超える高度を稼いでいた。鉄骨の機腕が地表の建物の灯りをかすかに受けながら滑らかに移動していく。
「この前より高くなったみたい」
「地上三〇階ぐらいまで行くつもりらしい」
 貢士は運転をしながら説明した。
「あいつはこれまで自己メンテナンス期間を三回繰り返してる。その期間に入るとストラクチャシステムは機能のほとんどをいったん停めるんだ」
「ふーん」
「建物の高さに合わせて動力ジョイントを移動するためなんだけど、構造的には必ずしも停止までする必要はない。どうもプログラムに自分たちでは修正できないバグがあるらしくて――まあ退屈だよな、こんな話」
 眠っているはるかに気づいて、貢士はストラクチャシステムの話を止めた。
 彼は目黒通りから住宅地の細い道へと折れると、静かに坂を上った。そして高台の公園の脇に車を停めるとサイドブレーキを引いた。
 青い光点の列が夜空を滑っていく。目黒一号機の機腕に灯されたマーカーだった。
 貢士は少しシートを倒して、その光景を見つめていた。
 はるかが目を覚ました。
「運転、疲れた?」
「いや、ここから見えるあいつが一番きれいなんだ」
 彼女はくすりと笑った。そして、シフトレバーに置かれたままの貢士の手に自分の手のひらを重ねる。
「さよならなんだね」
 そういいながら、身体を起こして仰向けの貢士に顔を寄せた。
 柔らかに湿度を帯びて、彼女のすべてが自分のもとに崩れ落ちてきたように貢士は感じた。長い時間、二人はそうしていた。
「――ごめん」
 離れると、貢士ははるかの口元に指先で触れた。
 窓の向こうで、水平に移動していた二本の青い光点の列が、それぞれにゆっくりと傾いていった。やがて光の列は傘のような山型に並んだ。
 動きが停止すると、青い光は左右とも下のほうから、ひとつひとつ赤い光に変わっていった。
 目黒一号機が迎えた、最後の自己メンテナンス期間だった。

                   ◇

 感傷から引き戻すようにリストデバイスが振動した。ディスプレイに目を向けている間に横浜青葉二号機の残骸は視界から消えた。
 貢士は「タイラミドリ」の表示をタップし、手首を耳に寄せる。
「班長? 音声だけ? 電車とか?」
 せっかちな声に彼はつい口元をほころばせた。しばらくぶりに聞く声だった。
「うん、移動中」
「かけなおそっか?」
 乗客は少なく、貢士がいる車両は彼一人だった。
「貸し切り状態。みんな新首都に引っ越しちゃったんだな」
 貢士はのんびりと答える。今日も一日揺さぶられ続けた。そんな自分を悟られないようにしたかった。
「で、どしたの?」
「どしたの?じゃないっすよ。再構の建物出てそれっきり」
「めでたく無職になったからのんびりしてるんだろうと思ってさ」
「もうね、のんびりしすぎで死ぬ」
 自宅の最寄り駅まではもうすぐだった。が、このまま帰ってもすることはない。帰宅してからの時間を想像して、貢士は一瞬心が曇るのを感じた。
「軽くいこうか」
「ですよー。班長ごちそうさまです」
「無職の集いに班長もくそもあるかよ」
「ひひ。あたしラフテー食べたいな」
「了解。おごりでいいよ」
 待ち合わせの場所と時間を決めて通話を切ると、貢士は都内に引き返すために電車を降りた。上り列車のホームで雨を見つめながら、はるかと信哉のことを考えた。寺岡との約束も、やはり守りたいと思った。
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