13:ふたり

文字数 2,253文字

 青函トンネルがもうすぐだった。
 いわゆる中核市といわれる規模の街を含めても、東京から四時間以上かかる地方都市は陸路でもほとんどなくなった。それでも空路よりは旅の気分が味わえる。貢士は鉄道に格別の愛着があるというわけではなかったが旅行の際には陸路を好んだ。碧はそもそも旅行というものにほとんど関心がなかったし、沖縄に帰省するとしても空路だ。二人の意見は新幹線で一致した。
 トンネルに入ると、窓の外を見ていた碧が貢士に顔を向けた。
「さっき、夜行列車っていうのに乗ったことがあるっていってたじゃん?」
「うん」と貢士は車内誌をめくりながら答える。
「ベッドがついててさ。っていうよりベッドに乗るっていうか」
「よくわかんないな」
「で、ずっとこんな感じ。トンネルの中にいるみたい。で、たまに街の灯りとか見て、なんかしんみりしてみたりする」
「ますますわっかんねえ」
 新幹線が札幌まで延伸してからもブルートレインは時々復活した。貢士は何年も前の一人旅のことを思い出すままにとりとめもなく話した。
 酒が残ったまま吐き気をもよおしながらの歯磨き。鏡に映ったむくんで別人のような顔。
「ぼんやりしたまま札幌に着いてさ。そこで別の列車に乗り換えた」

                   ◇

 真冬だった。
 札幌に到着した貢士は、小一時間ほどで稚内に向かう列車が出ることを知った。とりあえずその列車に乗ることに決め、駅から適当な宿を予約した。アルバイトをして少し余裕があるときにはふらりと旅行に出たことがこれまでにも何度かあった。家を出るときに宿が決まっていることはあまりなかった。
 その列車に乗っていたのは七時間ほどだったろうか。
 ひたすら雪景色に見とれていた。買っておいた二つの弁当はどちらもカラになった。二両編成の列車の乗客は入れ替わりながらも少しずつ減っていった。結局、一番長く乗り合わせていたのは、当時流行していたホスト風のファッションに身を包んだ若い男だった。里帰りで気合が入っているのだろうと勝手に想像した。
 稚内で列車を降りると、すでに街は夜の気配だった。予約しておいたホテルにチェックインすると荷物を置き、また街に出た。慣れない雪道に足をとられながら繁華街をうろついた。食事をしたかったが冬の街に並ぶ店はどこも扉を閉ざしていた。中の様子をうかがうことができない酒場に入っていく勇気はなく、なじみのあるチェーン店も見当たらなかった。
 なんとなく億劫になり、ホテルに戻った。館内には小さな居酒屋が併設されている。こんなところまで来て自分は何をしているのだろうと思いながらビールを飲んだ。
 貢士の他に客はほとんどいなかった。店を切り盛りする中年の女性と男性客が話し込んでいた。地元の常連かホテルの関係者なのだろう。二人の会話に聞くともなしに耳を傾けながら「明日はどうしようか」と、その日初めて考えた。壁に貼ってあった観光ポスターが目に入った。
 最北端に行ってみよう。ポスターを見て、そう決めた。

 翌日かなりの早朝にフロントでタクシーを呼んでもらった。タクシーは雪が舞う道路をゆっくりと進んだ。運転手は自分も最近まで東京にいたのだと言った。貢士よりもいくつか年上の青年だった。二人はあまり盛り上がることもない会話をぽつりぽつりとしながら、どうにか最北端の碑にたどり着いた。
 石碑の向こうには雪の降る灰色の海があり、ただそれだけだった。
 タクシーを駐車場に置いて案内してくれた運転手が「写真、撮ります?」と言った。貢士はなんだか申し訳ないような気分になり、スマホを渡してシャッターを切ってもらった。タクシーはもと来た道を稚内の駅前まで引き返した。
「今度は夏に来てくださいよ。夏はいいですよ」
 青年は道中に二度ほど、同じことを言った。貢士としては目的が達成できて満足だったのだが、何か訳アリの旅だと思われたのかもしれない。
 タクシーの料金は、それなりの額になった。
 自分でもあまり変化や刺激を求める性格ではないと貢士は思っている。周囲の人間も同じ印象を抱いているだろう。けれど時々、衝動的にこうした旅行に出かけた。はっきりした目的も計画もなく、父を喪った後のあまり豊かとはいえない生活とは明らかに矛盾する金の使い方をした。
 楽しみとか行楽とは少し違っていた。けれど、冒険というほどの出来事など何もなく、逃避というほどの切迫感もない。
 その旅行の帰路には長距離フェリーを使った。ペンキの匂い。絶えることがないエンジン音。けれど、船内は不思議な静けさに満ちている。今でも眠れない夜が来ると、貢士はそんな深夜の船内を思い出す。そして、もどかしいほどにゆっくり流れる時間や船の揺れをベッドの上で呼び戻そうとしてみる。
 あの頃の自分の旅行は、強いて言えば入院とか隔離とか、そんなものだったのではないか。貢士はそう思うことがある。

                   ◇

「そういうのって、いつも一人?」
「そうだったね」
「へえ――」
 碧は珍しい生き物にでも出会ったように貢士を見つめたまま、ペットボトルの緑茶をひと口飲んだ。
 なんとなく会話が途切れたまま、列車はトンネルを走り続ける。天井の照明が白々と光を放ち、車内は明るい。
 貢士が窓に目を向けると、碧の横顔が映っていた。少し疲れたのか、いつもとは違う落ち着いた印象の女性がそこにいた。
 ガラスに映った彼女は貢士の視線に気づくと、唇の両端をくいっと上げてわざとらしい笑顔で首をかしげてみせた。
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