11:雨上がり

文字数 2,756文字

 待ち合わせた駅の改札を出ると、橙色のTシャツを着た碧が、柱に寄りかかって待っていた。それが彼女だと気づくまでに貢士は少し時間がかかった。
 彼女のTシャツは古びて色も少しくすんでいたが、素材がしっかりしているのか、不思議な安堵感のようなものがあった。そこそこの値段がする古着なのだろうという気がした。
 二人は職場でいつもそうだったように「おつかれ」とだけ言葉を交わすと、碧が何度か行ったことがあるという居酒屋まで商店街を歩いていった。

「ふぅん。じゃあ班長ったら誰もお友だちがいないんだ」
 碧はカウンターの一段高くなったところに置かれたハブ酒の瓶を平気な顔で眺めながら、貢士をからかった。店内の騒々しさを潜りぬけるようにして三線の音が流れている。
 いい歳をして「お友だち」もないものだ、と貢士だって思う。彼は箸を置くと何杯目かのサワーのジョッキをつかむ。
「だからいないんじゃなくて、どこかにいるの。はるちゃんだって、ノブだって」
 口が滑った、と一瞬思う。酒はそれほど強いわけではない。
 碧がにやりと笑う。
「あらあ? もしかして女性かしら? そのはるちゃんさんという方は」
「うるさいなあ。みんな仲良かったの、そのバイト」
 碧はにやにやしながら柔らかいラフテーに箸をいれた。大きめの一片を口に放り込むと、「ほぉーん、そうれすか」とうなずく。
 そして、ごくんと飲みくだすと言った。
「あたしはもう再構に入る前のことはどうでもいいかな」
 もうしばらくしたらデザイン関係のスクールに通う、今日は申し込みにいってきたのだ、とさっき聞いた。
「前からそっち方面考えてたのか?」
「まあ、お絵かきとか好きなコだったからね」
 碧の表情が瞬間、翳ったように感じる。ふと安田の言葉が心をよぎる。
 ――あれでけっこうかわいそうな娘でな。
「ねえ、班長はなんで潜ったの?」
「いつまでもバイトってわけにもいかないだろ」
「でもさ、だったら安田のおじさんの研究室でもよかったわけじゃん」
 貢士はうろたえつつ苦笑する。
「タイラの方こそどうなんだよ」
 訊いてはいけないことのような気もしたが、つい口にしてしまった。
「あたしはもともとめんどくさいことばっかりだったし、班長だって意外とそんな感じなんじゃないの?」
 話を流してくれたのだな、と貢士は気づく。あっけらかんとしているようでいて、彼女は時々そういう気の回し方をする。
 けれど、もっといろいろなことを正直に話してしまいような気もした。

 その時、グラスが割れる音と一緒に怒声が響いた。
 店内が静まり返り、貢士と碧も店の奥を見る。
 長いカウンターは二人の席から八人分ほど向こうでL字に曲がっている。
 その曲がった奥で初老の男がよろけながら立ち上がった。「まあまあわかるよ、わかる」と連れの中年男が慣れた調子でそれをなだめる。
 最初は中年男に向かっていたらしい初老の男の怒りは、そこにはいない誰かに向かい、道に迷ったように本人の内奥に帰っていった。
 ぶつぶつと何かをつぶやく声が止むのをじっと待っている自分に気づいて、貢士は苦笑しながら緊張を解いた。
 店の中にもざわめきが戻ってくる。
「再構の話をしてたの聞こえちゃったかな」
 碧がいたずらを見つかった子どものように声をひそめた。
「それはないだろ」
 彼らの作業服にプリントされたロゴマークには見覚えがあった。碧も彼らが解体屋であることに気づいていた。
 初老の男のつぶやきはしばらく続いた。やがて中年男の「お勘定お願い」という声が聞こえた。
 貢士と碧はもうしばらく居座ることにして泡盛のボトルを入れた。解体屋の男たちがもたつきながら店を出ていくまで再構築委員会の話はしなかった。
 碧のろれつが怪しくなってきたので、貢士は店員に会計を頼むとトイレに立った。席に戻ると、彼女はキープしたボトルに白いマーカーペンで何かを描き込んでいるところだった。
 彼女はいたずらっぽく笑いながら貢士の鼻先にボトルを突き出す。そこにはストラクチャシステムの機腕部分のイラストが器用に描かれていた。
「さっきのおじさんが見たらまた荒れちゃうな」
「二か月置いといてくれるって。また連れてきてくれるよね」
「タイラが彼氏と飲んでくれてもいいよ」
「ば・か・や・ろ・お」
 彼女は自分のデイパックを抱え持つと中をもそもそとあさった。
「でもさ、班長だってクレーン大好きじゃん」
 さっきの男たちのことに話が戻ったらしい。
「まあ、な」
「やっぱ停まんなきゃよかったんだよ」
 酔った碧はぶつぶついいながらデイパックの中をまさぐり続けている。
「タイラ、さっきから何してんの?」
「おさいふ」
「だからここはいいってば」

 雨上がりの夜は、少しひんやりとして気持ちがよかった。月の光に縁どられた雲の切れ間からは星が思いのほか強く瞬いている。
 碧がふざけて貢士のショルダーバッグのストラップをつかんで振り回すので、二人はぶつかったり離れたりを繰り返しながら、飲み屋以外はシャッターを降ろしてしまった商店街を駅に向かった。
 故郷の唄らしいメロディをハミングしていた碧が、不意に貢士の正面に向き直った。
「で? まだ探すんですか? おともらち」
「とりあえず、しばらくすることもないしな」
 彼女は「うんうん」と意味不明にうなずくと、また貢士のバッグを引っ張って歩きだした。
「会いたいんだね。その人。はるちゃんさん」
 貢士はどう答えたらいいかわからずに黙っていた。信哉にもはるかにも会って謝りたい。それははっきりと思う。でもそれでどうなるというんだろう。彼は、今さらのように頼りない気分になる。
 碧もしばらくしゃべらずに何かを考えていた。
 地下鉄の入口まで来た。
「班長。少し前から考えてたんだ、ですけどね」
「だいじょうぶかよ、ろれつ回ってない」
「平気――」とつぶやいて碧は続ける。
「あたし、北海道行きたいなって思ったんですよ」
 彼女は意識してなるべくしっかり話そうとしているようだった。
「北海道?」
「うん。とままこ、あれ? とまここ」
 碧が笑いだし、貢士もふきだす。
「苫小牧、な」
「あそこの六号機」
「ああ、まだ動いてるんだよな」
「そこで班長に指令、です」
「は?」
 いつから考えていたのか、碧は決められたセリフを読み上げるように告げる。
「安田のおじさんから見学の紹介状をもらって、タイラミドリさんを現地までお連れしなさい」
 いい提案だ、と貢士は思う。
 そして、いきなり旅の段取りを思い浮かべ始めてしまったせいで貢士は一瞬黙ってしまう。困惑していると思い込んだ碧があわてる。
「いや、あの。そういうこととかああいうこととかじゃくて、マジ退屈なんだよぉ」
 貢士は安田に連絡を取ることをその場で約束した。
 悪くない。それに北海道は信哉の故郷だ。
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