3:退職

文字数 1,892文字

 貢士が退職願を出したのは、安田と鶴ヶ島三号機の現場で会ってから二週間後のことだった。安田の研究室への移籍ということもあって、退職願はスムーズに受理された。
 彼の姪でもある同僚の平良碧も、ほぼ同じ時期に退職することになった。
 一緒にエレベーターを待っていた貢士に、碧は前置きなしでいきなりその話を始めた。
「めんどくさいからお前も一緒でいいや、だって」
 碧は業務以外の場では年上の貢士にも友だち口調だ。貢士も上下関係にはこだわらない性格だったし、そうした気安さは彼女の魅力でもあった。
「なんだ、それ」
「だから安田のおじさんがね、どうせ“還る”んだったら手間が省けるから藤崎班長に合わせろって」
 安田らしい身も蓋もない理由に貢士は苦笑した。
「なんかもうさ、職権濫用ってやつでしょ」
 職場のエレベーターホールで口にするにはあまり穏当な言葉ではない。彼女はつい大きくなった声を少しひそめて続けた。
「それいったら、そもそもあたしみたいのがここに入れたのがおかしいんだけどさ」
「楽しかったよ。タイラと働くの」貢士は笑った。
「こちらこそお世話になりました。帰還用のケータイ番号とかもうある?」
「あるけど」
「じゃ交換して」
 退職してしまえばもう会うこともないだろうと思っていた。が、当然でしょと言わんばかりの彼女の態度に気圧されて、貢士はおとなしくデータを送った。
 すぐに碧のリストデバイスからデータが返ってくる。
「ねえ班長?」
「ん?」
「また会おうね」
 彼女がまっすぐに貢士の目を見て、にっと笑う。
 貢士はあやふやな返事をするわけにもいかなくなり「そうだな」とうなずいた。

 退職してからしばらくは、あわただしい毎日が続いた。貢士は、住んでいた古い官舎を退居しなくてはならなかった。
 この数年、彼が担当するストラクチャシステムは、関東地方でもそろそろ首都圏と呼ぶのがためらわれるようなエリアに展開している機体が多かった。休暇のほとんどは、自分の部屋ですごした。もともとどこに住んでいようとあまり関係のないライフスタイルだった。
 彼は自分が育った神奈川県の私鉄沿線の街に帰ることにした。そこならば安田の研究室にも通いやすい。
 転居を済ませても、まだ二週間ほど自由な時間が残った。七月が終わろうとしていた。安田の研究室に顔を出すと、どうせすぐ盆に入るし、もうしばらく休めと言われた。そんなに暇ならこれでも読んでおけと安田から渡されたのは、研究室のデータへのアクセス権だった。
 データには防御システムに関する資料が含まれていた。ストラクチャシステムが彼らの言語で処理していたシステムを人間が操作できるようにする。安田は、全自動建築システムのセキュリティ機能を、ストラクチャシステムが自身で更新した防御システムの研究にこだわり続けていた。

 エアコンが効きすぎ、身体が冷えてきた。資料を読むのにも飽きると、貢士は新居の窓を開けた。
 蝉の声がなだれこんでくる。
 郊外のニュータウンは、首都機能の移転でゆっくりと変貌を続けていた。
 街には貢士の少年時代よりも空き地が増えた。空き地にはストラクチャシステムの展開を阻むために公園や緑地が暫定的に整備されたが、やっつけ気味の植栽は予算不足で手入れが行き届かないこともあって荒々しく繁茂した。住民の減った街にはニュータウン開発以前の姿を思わせる藪山のようなものさえ生まれている。
 時間が進んでいるのか退行しているのかよくわからない郊外の住宅街で、貢士もどっちつかずの宙ぶらりんな時間を持て余していた。あまり長く続けるべきではない時間のように思えた。
 繋ぎっぱなしのインターネットラジオから一九七〇年代の曲が流れてきた。信哉がアルバイト先に持ち込んだギターでよく弾いていた古いロックだった。
「迷うのも限界か」と貢士はつぶやく。
 ――そうか、自分は迷っていたのか。
 彼は、引越しの後も開かずに放置したままの段ボール箱を開封すると、古いメモリを取り出した。すでに規格が古くなっていることに思い当たると、再びその箱をかき回してアダプタを探した。
 メモリには再構築委員会に入る前に家族や友人とやりとりしたメールや画像などのデータが保存されていた。
 いくつかファイルを開くと、他愛のないテンプレートにHAPPY NEW YEARの文字が躍った。信哉の年賀状だった。そのまま返信をしようと考える。
 手が止まり、ため息がもれた。
 何を書けばいいというのか。はるかに対しては、なおさらだった。
 貢士はそのまま画面を閉じた。ストラクチャシステムの資料を読むのも今日はもう止めにしようと思った。

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