第32話 空の引き抜きについてはこれでお終いです

文字数 2,937文字

 上田の社長解任報道から数日後、僕は彼と会った。

 スマホで呼び出された待ち合わせ場所は僕の行きつけのラーメン屋だった。

 少し脂っこい店内の空気、厨房から聞こえるボイラーと換気扇の音。中華鍋をかき回すお玉の金属音がカシャカシャカンカンと響き渡る。やや大きめのラジオのアナウンスが僕とは無関係な道路情報を教えてくれた。もしどこかの運転手に転職したらゆっくり聞かせてもらうことにしよう。

 店内奥手の四人がけテーブルに着くと僕に確認の暇も与えず上田はチャーシューメン二つと餃子を二皿注文した。もちろんメニューには目もくれない。

 店員が運んできたお冷やを一息に飲み、上田はテーブルに備え付きのピッチャーから氷水を注いだ。

「……すまん」

 上田の口から謝罪の言葉が零れる。

「あれだけ大層なこと言っておいてこのザマだ」
「いいよ」

 僕は上田と向かい合って座っていた。隣の席にはちより。真っ直ぐに上田を見据えている。

「それに断るつもりだったし」
「そうなのか?」

 意外そうな顔をされた。

 こいつ、僕がトドに行くと思ってたのか。

「……釣れると踏んでいたんだがな、別れた奥さんとよりを戻せるチャンスでもあったんだし」
「いや、別れてないから。ただの別居だから」

 ここは強調しておきたい。

 千夏と別れてなんかいないぞ。

「それより君は大丈夫なのか?」
「まあそれなりにダメージはあるな」

 上田が力なく笑い、肩をすくめる。声のトーンに哀愁が交差した。

「今住んでいるところも引き払うつもりだ。ま、そんなことはどーでもいいんだけどな」
「これからどうするんだ?」

 この問いに上田が答える前に餃子が運ばれてきた。

 少しの間会話が中断する。胡麻油の独特の匂いが気まずい空気に食欲というフィルターをかけた。包まれた暗い空気がぷっくりと風船のように膨らんで存在を主張する。だが、僕はそれを尻目に餃子のタレを手早く作った。テーブルの上にあった醤油と酢とラー油を適量混ぜる。一手遅れた上田にも同じものを作ってやった。問答無用だ。

「……いつもはラー油を入れないんだがな」

 苦笑する上田にちよりが目を丸くする。

「えーっ、上田くんならぎとぎとになるくらいラー油を使いそうなのに。すごい不思議」

 その発想のほうが不思議なのだがそこはスルーする。

 上田が箸を割り、餃子を軽く垂れにつけて口に放った。一口だ。熱さと辛さにヒーハーハフハフと咀嚼する。ブタっぽさよりも子供っぽさのほうが勝っていた。それがあんまりにも面白くて、よくわからないけど面白くて僕はにやけてしまう。

「松山、気色悪い笑みはやめろ」

 一蹴される。酷いっ、。ブタ社長……いや今はただのブタのくせに。

「わぁ、上田くん飛べないブタのくせに生意気」

 ちゃかすようにちよりが言うがもちろん上田には聞こえない。

「社長を辞めさせられても減らず口は変わらないんだな」
「ほっとけ」

 上田が僕を睨んだ。

 僕も睨み返す。

 ラジオが古い曲を流していた。歌手の名前はわからない。だが聞き覚えのある歌だった。一人の女性を巡って二人の男が争うという内容だ。女がまわりの人に二人のケンカを止めてもらおうと助けを求めている。

「私のために……」というところまで聞いてぷっと上田が吹き出した。

 つられて僕も笑ってしまう。

「えっ、えっ?」

 ちよりがいきなり何なのといったふうに僕と上田を交互に見た。目をぱちぱちさせる彼女にこういうのは男同士にしか通じないのかもしれないなと得心する。

「何だよこの歌の女」

 上田がまだ笑い足りない様子で肩を震わせている。

『「私のために』ってどんだけ自意識過剰だよ」
「いやいや、これそういう歌だし」
「それにしたって……わははっ!」

 二人で笑っているとチャーシューメンが来た。そこでブレイクとなり無意味なバカ笑いが止まった。

 僕は中学のころを思い出していた。

 嫌な思い出もあるけど上田や他のクラスメイトとの楽しい思い出もある。久しぶりに蘇った記憶の中で僕は上田と今のように笑っていた。くだらない話で盛り上がったと記憶しているが細かいところまでは忘却の彼方だ。それでも僕たちは笑っていた。その先の近い未来も遠くの将来も何も気にせずに笑っていた。

 上田がチャーシューメンに箸をつける。

 ずずずっと音を立てて麺をすするともごもごと口を動かした。優雅さなど微塵もなくただひたすらに上田らしく豪快にずるずると麺を食べていく。

 僕はふっと笑い、上田に倣ってチャーシューメンを頬張った。熱さとか行儀の良し悪しとかは無視して二人で競争しているかのように食べ続けた。ちよりが何か言っていたが聞き流した。これは男の世界の出来事なのだ。彼女にはしばし傍観者でいてもらおう。

 スープも飲み干して僕たちは丼をほとんど同じタイミングで空にする。カチャンとレンゲを鳴らし、くるりと丼の縁をなぞるように回転させた。餃子は途中で完食している。思いの外充足した時間だった。たまにはこういうのも悪くない。

 ゲップ、と上田がおくびをする。まわりに聞かれてもおかしくない音量だった。ニシシと彼は歯をむき出しにして笑み、にやついた顔に少量の真面目さをトッピングして告げた。

「俺、トドの社長を解任されて良かったと思ってるんだ」
「えっ」

 僕はお冷やを飲もうとグラスを持ち上げかけていた手を止めた。

「社長をやっていてそれなりにやりたいことはできた。でも、不自由さもあったんだ。上に立つ人間だからこそわかる窮屈さというか……ま、お前にはわからんだろうがな」
「自慢や嫌味ならお断りだぞ」
「いやいや」

 上田が片手を振って否定した。

「そんなつもりじゃない。俺はな、ただの『上田慎也』に戻れてほっとしているって言いたいんだ。ゼロに戻ってリスタートできたらなとか抱えているものを全て放り出してしまいたいとか何度も思っていたんだよ。その度にトドの経営者としてそんなことではだめだと叱る自分がいて、守らなければならない社員がいて、立場と責任が俺を縛りつけていたんだ」
「……」

 そうか。

 僕は心の中でつぶやいた。

 こいつにはこいつの苦労があったんだよな。

 トップにいるから、いやトップであるからこそ普通の人間では味わうことのない苦しみがあったんだ。

 けれど、それももはや過去のこと。

 上田はもう自由だ。

 これからは自分のために行動できる。

「上田くん……トドの社長をクビになって飛べるブタになったんだね。自由に飛べる翼を手に入れたんだね」

 ちょっと涙声のちよりに僕は小さくうなずいた。僕の首肯に何を勘違いしたのか上田が口角を広げる。

「俺、まだまだやるぜ。せっかくゼロになったんだ、まわりなんて気にせずに自由にやらないとな」

 その目はいきいきとしていた。まだ陰はあるがエネルギッシュでパワフルな上田が顔を覗かせていた。

 飛べるブタはこれからどんな未来を見るのだろう。
 
 
 
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