第44話 あたし、この人嫌い!

文字数 2,961文字

 日々の経過というのはあっという間である。

 僕は営業部の引き継ぎとシステム開発室の仕事に忙殺されていた。

 有田に呼び出しを食らったとき、僕はほぼおなじみとなりつつあった柊さんのお徳用キットカットでライフを癒している最中だった。

 半ばブラックになりかけの業務内容に疲弊しきった身体にはこれこの上なくありがたい回復アイテムである。

 さしずめ柊さんはシステム開発室という名のパーティーに属する聖女様だ。彼女のおかげで僕は何とかこの激務についていけている。



 ★★★



「やぁやぁ、松山生きてるか?」

 広告部に赴くと有田が大げさなモーションで片手を上げて出迎えた。デザインはいいが真っ赤なジャケットと赤とオレンジのストライプ模様のネクタイ、ベージュのスラックスというなかなかにパンチの効いたいでたちである。ワイシャツの白さがかろうじてこの世の人物なのだと僕を安心させてくれた。人外はちより一人で十分だ。

「……相変わらず何かすごいね、この人」

 横にいるちよりがぽつりと言う。

「ビジネスマンというより芸人みたい」
「……」

 ちより、とりあえず世界中の芸人さんに謝ろうな。

 偏見がこもっているどころか溢れ出しそうなちよりの発言に無言でつっこむ。

 僕は有田に誘われるままパーテーションで区切られた一角に進んだ。広めのテーブルとソファーがあるだけの簡素な場所だがちょっとした打ち合わせをするには丁度良いともいえる。広告部にはここを含めて三カ所のスペースを応接用としていた。

「悪いな、なっちゃんはちょい外出中だ」

 七海が広告部に移ってから有田は彼女のことを『なっちゃん』と呼ぶようになっていた。

「別にいいよ。というか彼女とはそういう関係じゃないぞ」
「いやいや、お前ら会社公認の不倫カップルだろ」

 ごつん、と音を立ててそのセリフが僕の頭を叩いた。あまりのことに頭がくらくらしてくる。

「あーやっぱりみんなにバレてるんだ」

 僕の隣に座るちよりが追い討ちをかける。勘弁してもらいたい気持ちを声にしかけてやめた。ちよりは有田には見えないし彼女の声も聞こえない。僕がちよりに苦情を訴えても有田の目には独り言を言っているようにしか映らないだろう。

 やむなく僕は有田に言った。

「七海とはまだそんなんじゃないって……まさかこんなくだらない話をするために呼んだんじゃないよな」
「いやー千夏さんに調べておいてくれって頼まれたんでな」

 有田がさらりと真面目なトーンで告げる。これまたそのセリフは鈍い音を鳴らして僕に直撃した。

 くっ、有田のくせにやるな。

「……あーあ、空の浮気がばれちゃうね」

 神妙さと愉快さをないまぜにしたようなちよりの声。僕は気が遠くなりそうになりつつも気力で踏み留まった。

 この場に七海がいないのはむしろ幸運だったのかもしれない。いくら僕でも有田・ちより・七海の連合軍を相手にしたらひとたまりもない。

「……浮気はしてないぞ。神に誓って一線は越えてない」
「男としてあるまじき発言だな」

 ふっと笑い、有田が芝居がかった動作で足を組む。軽く自分のしゃくれた顎を撫でると彼は続けた。

「もし俺なら言い寄ってくる可愛い娘は速攻でウェルカムだがな」
「いや、それは駄目だろ」

 ちなみに有田も妻帯者である。

「女に期待させておいて何もしないのは男の恥だし、万死に値する大罪だぞ」
「……」

 え?

 それじゃ、僕って大罪人?

「あー空って罪な男だよね。あたしよーく知ってるよ」

 ちよりがジト目で僕を見る。その冷たい眼差しに急速冷凍させられそうになっている僕は冷や汗を浮かべてため息をついた。七海がいなくても轟沈してしまいそうだ。

「……と、とにかく浮気はしてないからな。千夏におかしなこと吹き込むなよ」
「ああ悪い。さっきのは嘘だ」
「はあ?」

 あっさりと白状する有田に僕は頓狂に返す。

 ぐるんぐるんと頭の中が回りだしている。この調子で走馬燈でも回りだしたらえらいことになりそうだ。

 僕は親指で自分のこめかみを押さえ、ゆっくりと有田にたずねた。

「そんな嘘をついて何が面白いんだ?」
「別に面白がってないぞ」
「……」

 にやにやしている有田を僕は睨みつける。

 有田にうろたえた様子はない。彼は再度オーバーアクション気味に足を組み直してしゃくれた顎に手を添えた。

「ただ、ちょっと心配になってな。お前にその気がなくても女のほうから寄ってくる可能性もあるし……手伝いを頼んでおいてこんなこと言うのもアレだが、エキスポ期間中にコンパニオンに手を出すのはやめてくれよ」
「いや、出さないし」
「……」

 ちよりがじーっと僕を凝視してくる。

 その目には疑いの色がありありと浮かんでいた。

 ……こいつ、僕を信用してないな。

 後でこの件をじっくり話し合おうと僕は心に決めた。

「あーどうもどうも」

 突如、聞き覚えのない声が意識にとんとんとノックしてくる。僕は声の主を見上げた。

 ライトブラウンのスーツに身を包んだ長身の男がいた。見た目四十代後半くらいの男だ。彼は人なつっこい笑顔でもう一度挨拶してきた。

「どうもどうも、有田さん先日はどうも」
「いやいや、こちらこそご足労願ってしまい申し訳ないです。あ、どうぞお座りください……松山、お前はこっち」

 と、有田が自分の隣を指差す。

 来客があるなら先にそういっておけよ、と内心つっこんで僕は支持に従う。

 ちよりのいたところに男が腰を下ろそうとした。慌てて彼女は僕のいたほうに逃げる。

 僕と男は名刺を交換した。

「……『エスキモー企画』の稲垣吾郎(いながき・ごろう)さん?」
「はい、よろしくお願いします」

 稲垣が柔らかく笑い、頭を下げた。

 ふわっとした黒髪のオールバックが揺れる。面長な顔は結構整っていた。細い眉に涼やかな目、やや高い鼻に小さな口、それに形のよい耳。計算されたかのようなバランスで配置されているこの顔は女性でなくてもハンサムだと判じるだろう。がっしりとしてはいないがほどよい肉質の身体はスーツを着ていてもわかった。

「……」

 ちよりが稲垣を見つめている。

 そりゃそうだ。これだけ男前なら見惚れても仕方ない。

「空」

 ちよりが低い声で頼んでくる。

「この人、エッセルにいたかどうか聞いて」
「?」

 えっ?

 と思ったがちよりの口調がやけに真剣だったので言う通りにした。

「あの……稲垣さんはもしかして芸能事務所の『エッセル』にいませんでしたか?」
「はい」

 少し驚いたのか目をぱちぱちさせて稲垣が答える。

「確かに『エッセル』で働いていたこともありますが、なぜそれを?」
「ええっと、何となくです」

 うん。

 不審がられるよな。

 ちよりが稲垣の返事に表情を険しくした。何か不穏な気配を察したものの、この状況ではどうすることもできない。

 ちよりが席を立ち、稲垣を睨みつける。彼女は心底嫌そうに告げた。

「あたし、この人嫌い! 大っ嫌い!」
 
 
 
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