第16話 空があたしを救ってくれた
文字数 2,720文字
ちよりのいじめがなくなってから始まったものがある。
それは僕への嫌がらせだ。
このことについて僕は詳しく述べるつもりはない。とにかく、よく無事に受験を乗り越えられたものだと思う。当時の僕を褒めてやりたい。そのおかげで今の僕がいるのだから。
ちよりの声がふわりと僕の沈み書けた心を引き上げた。
「あたし、空があの盗難騒ぎで助けてくれなかったらきっとダメになっていた」
どこからか消防車のサイレンが聞こえてくる。近所の犬がサイレンに呼応するように吠えだした。輪唱のように他の犬が後に続く。
誰かが誰かに影響している。
誰かが誰かに影響されている。
ちよりが告げた。
「あたし限界だったもの、あのままいじめられていたら自殺していたかもしれない……空があたしを救ってくれたの」
そっと彼女の手が僕の頬に触れる。優しさと哀しさを入り交じらせたような眼差しで僕を見つめてきた。触れられた頬がやけに熱く感じる。細い指先のわずかな感触さえ僕には強く伝わっていた。
「……」
僕は黙ってちよりの手に自分の手を重ねる。
目をつぶった。
★★★
セピア色のイメージは脳裏にはっきりと形を作り、思い出という一場面を映し出す。
あれはちよりのいじめがやんで少ししてから、たまたま放課後の教室で二人きりになったときのことだった。
窓から西日が差し込み、薄暗くなった教室にほのかな光を染みこませている。
教室にいるのはセーラー服を着たちよりと学生服姿の僕。ちよりは教卓の傍に立っていて僕は窓際の席に座っていた。
ちよりとは特に話をするような間柄でもなかったから僕は意味もなく緊張していた。いじめられていた娘だけど容姿は文句なしに可愛らしかった彼女の何を知っている訳でもない。でも、どこか気にはなっていた。
今にして思えば、それは好意だったのかもしれない。
最初は探り探り言葉を選んで話を切り出し、前日に観たテレビの歌番組を話題にした。僕が望んでチャンネルを回したというよりは母の好みに巻き込まれたというべき選局だ。
「あ、それあたしも観た」
偶然にも母とちよりの好きな番組は同じだった。
「いーよね、あたしあの番組の司会者の白柳(しろやなぎ)さん好きだよ。何かこう独特だよねあの早口は」
白柳さんは僕が三十四歳になった今でも現役で、お昼のトーク番組を持っている。まあそれはちよりと関係ないけど。
「今週も一位は松下聖子(まつした・せいこ)だったね」
僕が言うとちよりはうなずいた。
「うん。あたしもあの歌好きだよ」
「そうなんだ」
「ついテレビに合わせて歌ったりしちゃうんだ。それでお母さんに『うるさい!』って怒られるの」
僕は思わず笑ってしまった。ちよりが母親似叱られるなんて想像すらしたことがない。意外すぎて逆に親しみが持てた。
ちよりが少しむっとする。ぷくっと頬を膨らませた彼女は毛糸玉で遊んでいたのに横取りされた子猫みたいに怖くない。むしろ愛らしい。
「あーっ、そんなに笑わなくてもいいじゃない」
「いや、だって」
「松山くんって酷い」
「いやいやいやいや。これそんなに怒ること?」
「むぅ」
睨まれて僕は笑いを堪える。ちよりはまだ怒り足りないといったふうに両腕を組んだ。
「罰としてこれから松山くんのことを『空』って呼び捨てにするから。いいよね、空」
ちよりに「空」と呼ばれて悪い気はしなかった。それどころか彼女との距離が縮んだような気さえする。けれど僕はそのことがちよりに伝わらないようにわざと困ったふりをした。
「えーっ、いきなり下の名で呼び捨て?」
「空は嫌?」
一瞬でちよりの表情が曇る。さっきまでの強気がどこかへ行ってしまい、わずかでも触れたら崩れてしまいそうな弱々しさに取って代わった。
あ、やばい。
秒速で誤りを察知して僕は焦る。ちよりの猫のような目が潤んでいた。放っておいたら容易く決壊しかねない。僕は「あーわかったわかった」とやや諦めたふうな口調で承諾した。
「空でいいから」
「本当?」
ちよりがたずねてくる。その可愛らしい声音に「うっ」と心の中で呻いてしまったのは内緒だ。
「ああ、本当。嘘じゃないよ」
「じゃあ決まり」
ちよりが微笑む。山の天気より変わりやすいなぁ、と僕は無言でつっこんだ。けれどそれが嫌かと問われれば嫌ではない。ころころと変わる彼女の表情は見ていて飽きなかった。
「空もあたしのこと『ちより』でいいよ」
元気を取り戻したちよりの声が降ってくる。ある意味不意打ちじみた彼女の言葉はどこか気恥ずかしさの色があった。伴っている快活さとは裏腹に込められた彼女の本心を見極めようと僕は細い目をさらに細くする。それが彼女に誤解を生んだようであった。
彼女は腕組みを解いて詰め寄る。バンと両手で机の天板を叩いた。
「何よ、不満なの?」
「あ、いや」
気圧されて僕はたじろぐ。宙に目をやって最も的確な答えを求めた。しかしそんなものが都合良く得られるはずもなく、ただただ気まずさが僕の中で膨らんでいった。
やっとのことで導き出せたのは自分でも的外れなもので、それでもその的外れにすがるしかなくて、とにもかくにも僕は言った。
「君の歌聞きたいな」
「え?」
猫のような目が丸くなる。相当に予期せぬ台詞だったようで、ちよりは口をあんぐりと開けたまま動かなくなった。
僕はといえばあまりにも唐突すぎることを口走ったことに早くも後悔し始めていた。よりにもよってどうしてこんな注文をしてしまったのか。彼女がテレビに合わせて歌ったという話を聞いたからだろうか?
しばらくしてからちよりが首肯した。
「い、いいけど……笑わないでね」
「わ、笑わないよ」
照れくさそうにちよりが頬を染め、机から離れる。深く一呼吸し、セーラー服がゆったりと揺れた。クラスの女子の中では豊かな部類の胸のラインに意識がいってしまいかけやっとのことで僕は踏みとどまる。けれど一度芽生えてしまったものは完全には消えてくれずもやもやとした衝動が僕の奥で波のように打ち寄せてきた。
そんな僕の胸中とは正反対なくらい清らかな声でちよりが歌いだす。松下聖子が可愛さ全開で歌っていたのにちよりが歌うと別の曲のように思えた。音痴という訳ではない。音程とリズムは合っている。ただ、歌声がきれいなのだ。透き通った声がそよ風のように僕の聴覚を凪いでいく。
素直に「うまい」と判じた。
それは僕への嫌がらせだ。
このことについて僕は詳しく述べるつもりはない。とにかく、よく無事に受験を乗り越えられたものだと思う。当時の僕を褒めてやりたい。そのおかげで今の僕がいるのだから。
ちよりの声がふわりと僕の沈み書けた心を引き上げた。
「あたし、空があの盗難騒ぎで助けてくれなかったらきっとダメになっていた」
どこからか消防車のサイレンが聞こえてくる。近所の犬がサイレンに呼応するように吠えだした。輪唱のように他の犬が後に続く。
誰かが誰かに影響している。
誰かが誰かに影響されている。
ちよりが告げた。
「あたし限界だったもの、あのままいじめられていたら自殺していたかもしれない……空があたしを救ってくれたの」
そっと彼女の手が僕の頬に触れる。優しさと哀しさを入り交じらせたような眼差しで僕を見つめてきた。触れられた頬がやけに熱く感じる。細い指先のわずかな感触さえ僕には強く伝わっていた。
「……」
僕は黙ってちよりの手に自分の手を重ねる。
目をつぶった。
★★★
セピア色のイメージは脳裏にはっきりと形を作り、思い出という一場面を映し出す。
あれはちよりのいじめがやんで少ししてから、たまたま放課後の教室で二人きりになったときのことだった。
窓から西日が差し込み、薄暗くなった教室にほのかな光を染みこませている。
教室にいるのはセーラー服を着たちよりと学生服姿の僕。ちよりは教卓の傍に立っていて僕は窓際の席に座っていた。
ちよりとは特に話をするような間柄でもなかったから僕は意味もなく緊張していた。いじめられていた娘だけど容姿は文句なしに可愛らしかった彼女の何を知っている訳でもない。でも、どこか気にはなっていた。
今にして思えば、それは好意だったのかもしれない。
最初は探り探り言葉を選んで話を切り出し、前日に観たテレビの歌番組を話題にした。僕が望んでチャンネルを回したというよりは母の好みに巻き込まれたというべき選局だ。
「あ、それあたしも観た」
偶然にも母とちよりの好きな番組は同じだった。
「いーよね、あたしあの番組の司会者の白柳(しろやなぎ)さん好きだよ。何かこう独特だよねあの早口は」
白柳さんは僕が三十四歳になった今でも現役で、お昼のトーク番組を持っている。まあそれはちよりと関係ないけど。
「今週も一位は松下聖子(まつした・せいこ)だったね」
僕が言うとちよりはうなずいた。
「うん。あたしもあの歌好きだよ」
「そうなんだ」
「ついテレビに合わせて歌ったりしちゃうんだ。それでお母さんに『うるさい!』って怒られるの」
僕は思わず笑ってしまった。ちよりが母親似叱られるなんて想像すらしたことがない。意外すぎて逆に親しみが持てた。
ちよりが少しむっとする。ぷくっと頬を膨らませた彼女は毛糸玉で遊んでいたのに横取りされた子猫みたいに怖くない。むしろ愛らしい。
「あーっ、そんなに笑わなくてもいいじゃない」
「いや、だって」
「松山くんって酷い」
「いやいやいやいや。これそんなに怒ること?」
「むぅ」
睨まれて僕は笑いを堪える。ちよりはまだ怒り足りないといったふうに両腕を組んだ。
「罰としてこれから松山くんのことを『空』って呼び捨てにするから。いいよね、空」
ちよりに「空」と呼ばれて悪い気はしなかった。それどころか彼女との距離が縮んだような気さえする。けれど僕はそのことがちよりに伝わらないようにわざと困ったふりをした。
「えーっ、いきなり下の名で呼び捨て?」
「空は嫌?」
一瞬でちよりの表情が曇る。さっきまでの強気がどこかへ行ってしまい、わずかでも触れたら崩れてしまいそうな弱々しさに取って代わった。
あ、やばい。
秒速で誤りを察知して僕は焦る。ちよりの猫のような目が潤んでいた。放っておいたら容易く決壊しかねない。僕は「あーわかったわかった」とやや諦めたふうな口調で承諾した。
「空でいいから」
「本当?」
ちよりがたずねてくる。その可愛らしい声音に「うっ」と心の中で呻いてしまったのは内緒だ。
「ああ、本当。嘘じゃないよ」
「じゃあ決まり」
ちよりが微笑む。山の天気より変わりやすいなぁ、と僕は無言でつっこんだ。けれどそれが嫌かと問われれば嫌ではない。ころころと変わる彼女の表情は見ていて飽きなかった。
「空もあたしのこと『ちより』でいいよ」
元気を取り戻したちよりの声が降ってくる。ある意味不意打ちじみた彼女の言葉はどこか気恥ずかしさの色があった。伴っている快活さとは裏腹に込められた彼女の本心を見極めようと僕は細い目をさらに細くする。それが彼女に誤解を生んだようであった。
彼女は腕組みを解いて詰め寄る。バンと両手で机の天板を叩いた。
「何よ、不満なの?」
「あ、いや」
気圧されて僕はたじろぐ。宙に目をやって最も的確な答えを求めた。しかしそんなものが都合良く得られるはずもなく、ただただ気まずさが僕の中で膨らんでいった。
やっとのことで導き出せたのは自分でも的外れなもので、それでもその的外れにすがるしかなくて、とにもかくにも僕は言った。
「君の歌聞きたいな」
「え?」
猫のような目が丸くなる。相当に予期せぬ台詞だったようで、ちよりは口をあんぐりと開けたまま動かなくなった。
僕はといえばあまりにも唐突すぎることを口走ったことに早くも後悔し始めていた。よりにもよってどうしてこんな注文をしてしまったのか。彼女がテレビに合わせて歌ったという話を聞いたからだろうか?
しばらくしてからちよりが首肯した。
「い、いいけど……笑わないでね」
「わ、笑わないよ」
照れくさそうにちよりが頬を染め、机から離れる。深く一呼吸し、セーラー服がゆったりと揺れた。クラスの女子の中では豊かな部類の胸のラインに意識がいってしまいかけやっとのことで僕は踏みとどまる。けれど一度芽生えてしまったものは完全には消えてくれずもやもやとした衝動が僕の奥で波のように打ち寄せてきた。
そんな僕の胸中とは正反対なくらい清らかな声でちよりが歌いだす。松下聖子が可愛さ全開で歌っていたのにちよりが歌うと別の曲のように思えた。音痴という訳ではない。音程とリズムは合っている。ただ、歌声がきれいなのだ。透き通った声がそよ風のように僕の聴覚を凪いでいく。
素直に「うまい」と判じた。