第14話 女の気配はわかるもんだよ
文字数 2,447文字
前日に電話しておいたからか母は家にいた。
久しぶりに会う母は思っていたよりも元気で、そのにこやかな表情以上にパワフルな気力のようなものを身に纏っていた。
「お腹空いてるだろ、すぐにニンジンチャーハン作ってあげるから待ってな」
小柄な体躯をひょこひょこと揺らして母が玄関からキッチンへと向かおうとする。ふんわりした髪型の黒髪には白髪は見当たらなかった。今年で六十四歳になる母が毛染めクリームを使っていることは以前から知っているけど、こうして白髪を隠そうとしているのを目にするとまだまだ女なんだなぁと思ってしまう。
僕は母を呼び止めた。
「中学のアルバムとかってまだあるよね?」
「ん? そりゃ、あるよ」
振り返った母の頭には疑問符がついていた。僕と同じ細い目をさらに細くする。やや丸みのある鼻をちょっと鳴らした。
「子供の思い出を捨てるような親じゃないよ。というか電話したときに言ってくれたら用意してあげたのに」
「だよねーっ」
僕の横にいたちよりがうなずく。これ見えていたら母はどんな顔をしただろう。若い愛人を連れて来たとか騒ぐかな?
いや、まず一発殴られていたかもしれない。
「初めまして、空の愛人二号のちよりでーす!」
要らん挨拶を無駄に明るい調子で飛ばす。そんなちよりを無視して僕は靴を脱いだ。
つーか二号って何だ?
ちよりが説明した。
「七海さんが愛人一号。だからあたしは二号ね」
いやいやいやいや。
まだ七海は愛人じゃないぞ。
母のいる手前つっこむのをやめたものの、僕はちよりをジロリと睨む。ちよりは動じない。むしろ嬉しそうに口角をさらに上げた。
不機嫌そうな口を曲げて母がニンジンチャーハンを作りに行ってしまう。間違いなく僕は母親似だなぁと内心納得して後を追った。
キッチンの入り口で母が足を止める。
「そうそう」
振り向きもせずに母が言った。
「千夏さんと千恵ちゃんが出て行ったいきさつは電話で聞いたけど、本当にあんたの浮気が原因とかじゃないんだよね?」
「あ、うん」
ものすごくドスのきいた声だったので、ついびくりとしてしまう。七海の顔がちらりと頭をよぎる。あれは浮気じゃないと無言で繰り返した。
「……もしそんな真似したら、母さん絶対に許さないからね。あんたをぶん殴るくらいじゃ済まさないよ」
あ、これ本気だ。
母が千夏のことを気に入っているのは承知していた。でも、実の息子にそこまで言うか?
僕はごくりと唾を飲んだ。次にここに帰るときは千夏を連れてこよう。彼女の口から僕が浮気なんてしていないって言ってもらわないと。
ちよりがぽつりと漏らした。
「空、これバレてるよ」
「はぁ?」
思わず声に出してしまった。慌てて空咳を加えてごまかす。ちよりは置いてくれば良かったと今さらながら後悔するがもう遅い。だいいちちよりが大人しく留守番してくれるかどうかもあやしい。
ちよりがにやにやする。
「あたしがお母さんに見えて亡くて良かったね。でも、女の気配はわかるもんだよ」
「……」
ちよりさん、怖いからそういうこと言うのやめてください。
★★★
ニンジンチャーハンはご飯とタマネギと玉子を炒めるときに摺り下ろしたニンジンを加えて作る。かなり雑な料理で、母の調理している様子を観察する限り美味しそうには思えないのだがなぜかいつも絶品だった。
基本的に母は目分量と雰囲気時間の人だ。「美味しくなるくらいの分量」を使い、「美味しくなるくらいの時間」をかけて作る。母がレシピを読みながら……なんてこれまで見たことがない。
前に千夏が母のやり方でニンジンチャーハンを作ったが見事なほど失敗していた。母の調理法はどうやら常人が手を出していいものではないようだ。
ちよりの「いいなぁ、あたしも食べたいなぁ」攻撃を受け流しつつニンジンチャーハンを食べながら僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
これから中学のアルバムを調べてちよりの謎に迫ろうというのに今一つ呑気な自分がいた。これは実家にいるという安心感のなせる業か。
満たされた腹を突き出して椅子の背もたれに身を預けているとテーブルを挟んで向かいに座っていた母が口を開いた。
「それにしても、どうして中学のアルバムなんて見たがるんだい?」
「ちょっとした調べ物だよ」
億劫な気分で答えた。ふうと息をついて天井を見上げる。ペンダント型の照明が目に入った。柔らかな光を放ち、それでもまだ窓から差し込む陽光には負けているといった感じで、人間の作れるものにはどうしようもない限界があるのだと思い知らされる。天井の染みも何だか気を滅入らせた。満腹の幸福感が穴の空いた風船のようにしぼんでいく。
僕はため息をついた。
おもむろにたずねてみる。
「幸せって……何だろう」
「はい?」
母にしては間抜けな声だった。
「いや、幸せって何かなーって」
「どうしたの急に」
母の言葉に心配の色が混じる。不安から不穏へと移行した空気を察して僕は視線を落とした。不機嫌そうというより怒っていると呼んだほうがいい母の表情と遭遇する。
「あんた、やっぱり……」
テーブルの上に置かれた母の両手が拳を形作る。やばいと思うより先に僕は首を振っていた。
「いやいや、それ誤解だから」
「じゃなきゃ、どうして千夏さんと別居になんてなるんだい?」
「それは電話でも説明しただろ、千夏が外で働きたいって……」
「働くだけならファミレスとかコンビニとか近場にいくらでもあるだろうに。それをわざわざ遠くの温泉旅館だなんておかしいじゃないか」
「仕方ないだろ、千夏が……」
「愛想が尽きた、とかじゃないんだろうね?」
はぁっと深い息を吐く。これ電話で話したことをもう一度話さないと駄目なのか?
久しぶりに会う母は思っていたよりも元気で、そのにこやかな表情以上にパワフルな気力のようなものを身に纏っていた。
「お腹空いてるだろ、すぐにニンジンチャーハン作ってあげるから待ってな」
小柄な体躯をひょこひょこと揺らして母が玄関からキッチンへと向かおうとする。ふんわりした髪型の黒髪には白髪は見当たらなかった。今年で六十四歳になる母が毛染めクリームを使っていることは以前から知っているけど、こうして白髪を隠そうとしているのを目にするとまだまだ女なんだなぁと思ってしまう。
僕は母を呼び止めた。
「中学のアルバムとかってまだあるよね?」
「ん? そりゃ、あるよ」
振り返った母の頭には疑問符がついていた。僕と同じ細い目をさらに細くする。やや丸みのある鼻をちょっと鳴らした。
「子供の思い出を捨てるような親じゃないよ。というか電話したときに言ってくれたら用意してあげたのに」
「だよねーっ」
僕の横にいたちよりがうなずく。これ見えていたら母はどんな顔をしただろう。若い愛人を連れて来たとか騒ぐかな?
いや、まず一発殴られていたかもしれない。
「初めまして、空の愛人二号のちよりでーす!」
要らん挨拶を無駄に明るい調子で飛ばす。そんなちよりを無視して僕は靴を脱いだ。
つーか二号って何だ?
ちよりが説明した。
「七海さんが愛人一号。だからあたしは二号ね」
いやいやいやいや。
まだ七海は愛人じゃないぞ。
母のいる手前つっこむのをやめたものの、僕はちよりをジロリと睨む。ちよりは動じない。むしろ嬉しそうに口角をさらに上げた。
不機嫌そうな口を曲げて母がニンジンチャーハンを作りに行ってしまう。間違いなく僕は母親似だなぁと内心納得して後を追った。
キッチンの入り口で母が足を止める。
「そうそう」
振り向きもせずに母が言った。
「千夏さんと千恵ちゃんが出て行ったいきさつは電話で聞いたけど、本当にあんたの浮気が原因とかじゃないんだよね?」
「あ、うん」
ものすごくドスのきいた声だったので、ついびくりとしてしまう。七海の顔がちらりと頭をよぎる。あれは浮気じゃないと無言で繰り返した。
「……もしそんな真似したら、母さん絶対に許さないからね。あんたをぶん殴るくらいじゃ済まさないよ」
あ、これ本気だ。
母が千夏のことを気に入っているのは承知していた。でも、実の息子にそこまで言うか?
僕はごくりと唾を飲んだ。次にここに帰るときは千夏を連れてこよう。彼女の口から僕が浮気なんてしていないって言ってもらわないと。
ちよりがぽつりと漏らした。
「空、これバレてるよ」
「はぁ?」
思わず声に出してしまった。慌てて空咳を加えてごまかす。ちよりは置いてくれば良かったと今さらながら後悔するがもう遅い。だいいちちよりが大人しく留守番してくれるかどうかもあやしい。
ちよりがにやにやする。
「あたしがお母さんに見えて亡くて良かったね。でも、女の気配はわかるもんだよ」
「……」
ちよりさん、怖いからそういうこと言うのやめてください。
★★★
ニンジンチャーハンはご飯とタマネギと玉子を炒めるときに摺り下ろしたニンジンを加えて作る。かなり雑な料理で、母の調理している様子を観察する限り美味しそうには思えないのだがなぜかいつも絶品だった。
基本的に母は目分量と雰囲気時間の人だ。「美味しくなるくらいの分量」を使い、「美味しくなるくらいの時間」をかけて作る。母がレシピを読みながら……なんてこれまで見たことがない。
前に千夏が母のやり方でニンジンチャーハンを作ったが見事なほど失敗していた。母の調理法はどうやら常人が手を出していいものではないようだ。
ちよりの「いいなぁ、あたしも食べたいなぁ」攻撃を受け流しつつニンジンチャーハンを食べながら僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
これから中学のアルバムを調べてちよりの謎に迫ろうというのに今一つ呑気な自分がいた。これは実家にいるという安心感のなせる業か。
満たされた腹を突き出して椅子の背もたれに身を預けているとテーブルを挟んで向かいに座っていた母が口を開いた。
「それにしても、どうして中学のアルバムなんて見たがるんだい?」
「ちょっとした調べ物だよ」
億劫な気分で答えた。ふうと息をついて天井を見上げる。ペンダント型の照明が目に入った。柔らかな光を放ち、それでもまだ窓から差し込む陽光には負けているといった感じで、人間の作れるものにはどうしようもない限界があるのだと思い知らされる。天井の染みも何だか気を滅入らせた。満腹の幸福感が穴の空いた風船のようにしぼんでいく。
僕はため息をついた。
おもむろにたずねてみる。
「幸せって……何だろう」
「はい?」
母にしては間抜けな声だった。
「いや、幸せって何かなーって」
「どうしたの急に」
母の言葉に心配の色が混じる。不安から不穏へと移行した空気を察して僕は視線を落とした。不機嫌そうというより怒っていると呼んだほうがいい母の表情と遭遇する。
「あんた、やっぱり……」
テーブルの上に置かれた母の両手が拳を形作る。やばいと思うより先に僕は首を振っていた。
「いやいや、それ誤解だから」
「じゃなきゃ、どうして千夏さんと別居になんてなるんだい?」
「それは電話でも説明しただろ、千夏が外で働きたいって……」
「働くだけならファミレスとかコンビニとか近場にいくらでもあるだろうに。それをわざわざ遠くの温泉旅館だなんておかしいじゃないか」
「仕方ないだろ、千夏が……」
「愛想が尽きた、とかじゃないんだろうね?」
はぁっと深い息を吐く。これ電話で話したことをもう一度話さないと駄目なのか?