第58話 亜麻色の髪の彼女(最終回です!)

文字数 3,093文字

 あのエキスポの最終日、彼女が僕の目の前から消えて六年が経っている。

 この六年の間にいくつかの出来事があった。



 まず上田のその後。

 彼はトドの社長を解任されてからしばらく日本を離れていた。ベトナムとインドでベンチャー企業を立ち上げ、数年でそれらの会社から退くと、日本にあるとある大学の研究室と手を組んで事業を興した。ネットに関連したものなのだが何とその研究室とは「ネットに熱湯をかけてみた」の著者・草薙剛(くさなぎ・つよし)教授のいる研究室。この二人実は大学の同期でセパタクロー同好会の仲間でもあったらしい。いやはや、世の中というのは案外狭い。



 トドは「上田社長の呪い」と語られる甚大なシステム障害をきっかけに業績を落とし、業務提携するはずだった大手通信会社に吸収された。グループの子会社としてかろうじて「トド」の社名は残してあるものの上田がいたころに比べたらかなり規模は小さくなってしまっている。現在の社長は中居正広(なかい・まさひろ)。あの人事部の中居さんである。このニュースをネットで見たときは正直驚いた。彼には頑張ってほしいと思う。



 結果的に七海を騙したも同然の鷺沢と香取の二人は特殊詐欺に手を出して逮捕された。こちらは民放テレビ局のニュースで取り上げられ、七海に「堕ちるところまで堕ちましたね」と呆れられている。執行猶予がつくのか実刑なのかそこまでは僕も知らないし興味もない。もうこの二人と会うことはないだろう。そうであることを祈る。



 稲垣さんは現在もエスキモー企画で働いている。彼の細やかな気配りと優しさはこれからも所属するコンパニオンたちの力となるだろう。あの歳以来エスキモー企画はイベントやエキスポのときに世話になっている。これからも稲垣さんとは年に数回は会うことになるはずだ。



 あんぺあ出版は僕がシステム開発室(フォートラン)に異動となった年の翌年四月から正式にアウトソーシング化を果たした。とはいえ社屋はそのままで部署の位置も変わっていない。事務的な変化はあったが傍目にはそう大して違いはなかった。僕はさらに柊さんからクライアントを引き継ぎ、今ではだいたい半分くらいの顧客を受け持っている。



 千夏とは離婚した。

 嫌いになって別れた訳ではない。ただ、お互いに異なる生活をするのに限界が来たのだ。彼女に温泉旅館の仲井を辞める気はなく、僕もフォートランの仕事を離れるつもりがなかった。互いに別々の道を選んだだけ……それだけなのだと思いたい。千恵には可哀想なことをしたけれどいつかきっとわかってくれると信じている。これは僕の身勝手な願望だろうか。



 僕の離婚を知って一番喜んだのは七海である。しかし、千夏と別れたからといってすぐに七海と付き合ったり再婚したりするほど僕は軽率ではなかった。むしろかえって慎重になってきたのかもしれない。二度目の結婚ってこうなってみるとちょい気後れしてしまうものなのだな。



 そして……。



 ★★★



 春。

 そよ風がフォートランの部屋の開いた窓から吹いてくる。微かに桜の香りが混じっているのは近くの高校の桜が満開になっているからだろうか。あたたかな陽光が窓から差し込んでいて室内は明るい。天気予報では終日晴れとのことなので何となく今日一日気分良く過ごせそうな気がする。

 いつもなら先に出勤しているはずの柊さんの姿はない。こういうときはだいたい総務に行っているのでじきに来るはずだと僕は踏んだ。どさりと椅子に座りデスクトップPCを起動してメールをチェックする。午前中に仕上げなければならない案件が幾つかあった。早速ワードを開き、書類を作成する。

 カチャカチャと文章を入力していると部屋の外から駆け足が近づいてきた。柊さんにしては走り方が若い。プログラマーの二人のどちらかにしても出社時刻が合わなかった。彼らのどちらもこんなに早く来たためしがない。

「おはようございまーす!」

 どこか聞き覚えのある若い女性の声がフォートランの室内いっぱいに響き渡る。僕が振り向くと入り口に淡い青色のビジネススーツに身を包んだ娘が立っていた。走ってきたからか肩を上下させている。本来は色白であろう肌がほんのりと朱に染まっていた。

 あーそう言えば今日から新人が入ってくるんだっけ……とぼんやり思い出して僕はこくんと頭を下げた。

「おはよう。君、今日からの人だよね」
「……」

 僕が優しく声をかけたのに彼女はむうっと頬を膨らませる。猫のような目を吊り上げて彼女は僕を睨んだ。

 え?

 僕、何か失礼なことでもした?

 頭に疑問符を並べていると彼女はつかつかと歩み寄ってくる。窓からぴゅうと風が吹き、セミロングにした亜麻色の髪を凪いだ。なぜか懐かしい気分にさせる姿に僕の心臓がとくんと高鳴る。

 フラッシュバックのように六年前の記憶が蘇った。

 あのエキスポ最終日、光とともに消えた彼女。

 僕だけにしか見えず、僕だけが声を聞け、僕だけが触れることのできる彼女。

 亜麻色の髪の彼女。。

 僕は目を瞬いた。

「えっ……だって、君は」
「天国に行っちゃったって思った?」

 はっきりと聞こえたその声はまぎれもなく「彼女」のものだった。

 とくんとくんと心音が速くなる。僕は立ち上がった。彼女は口許を緩め、挑むような、からかうような笑みを浮かべて僕に告げる。

「あたし、転生していたの。でも最初は空のこと憶えてなくて……普通に今のあたしでいたの。けどね、六年前に追突事故にあってしばらく昏睡状態になってしまったのよ。その間にあたしの魂が身体から抜け出して……」
「僕と会った……と?」

 彼女はこくんとうなずいた。

「事故のショックで空のこと思い出したわ。あなたに会いたい、どうしても会いたいって思ったらあんぺあ出版に転移してた」
「……」

 これは想いの力とでも呼ぶべきなのか。奇跡と言うにはあまりにもファンタジーすぎる。

 僕が呆けていると彼女は続けた。

「見つけた男の人が空だってすぐにわかったわ。でも、声をかけたら空ってば階段から落ちちゃうんだもの……あたし、びっくりしちゃった」
「……」

 てことはあの転落事故の前に聞こえた声は彼女のものだったのか。

 僕が頭を打つ前から彼女の声は聞こえていたんだ。

 じゃあ、あの昇天じみた彼女の消えかたは?

 僕は戸惑いつつたずねた。

「あのとき……君と別れた最後のあれは? 天国に……」
「あーあれ、あたしもわかんなーい♪」
「はぁ?」

 いくら何でもそれは雑だろ。

 ちゃんと説明してくれよ。

「まあ、あたしだって知らないことはあるのよ。そういうのは神様にでも聞くのね、どこにいるかわかんないけど」
「……」

 おいおいおいおい。

 ちょっと目眩がしてきたぞ。

 ふっ、とちよりが息をつき、いきなり僕に抱きついてくる。ふわりと甘い柑橘系の匂いが僕を包み込んだ。彼女の感触、彼女の体温、これは本当に転生した姿なのかと疑いたくなるが耳を撫でる甘えた声にどうでも良くなる。

「空、やっと会えた」

 とくんとくんと僕たちのリズムが重なった。僕は衝動に身を任せ彼女を強く抱き締める。

「空」

 亜麻色の髪の彼女は僕に言った。

「幸せにしてあげる」
 
 
 
**本作はこれで終了です。。

 ここまでお読みいただきありがとうございました!
 
 
 
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