第26話 言葉の裏にあるもの

文字数 2,551文字

 ちよりが盗難事件の犯人にされそうになったとき、確かに僕は彼女を助けた。

 でも、そのせいで僕は……。

 僕と上田は休憩室に移っていた。広めにとったスペースにはいくつかのテーブルと椅子が置かれており、自販機とコーヒーメーカー、それと珍しいことに綿菓子とポップコーンの製造器があった。

 上田は僕に待つように言い、コーヒーメーカーで二杯分を淹れて戻ってきた。そっと差し出された紙コップに手を伸ばす。香ばしいコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐった。濃い色のコーヒーはブラックで上田が慣れた手つきでシュガースティックとミルクを手渡してくる。僕はやんわりとそれを断った。そうか、と上田が苦笑し自分の紙コップに二人分を放り込む。

「松山、俺はお前に負い目を抱いていたんだ」

 休憩室には僕たちしかいない。テーブルは四人がけで僕と上田は向かい合って座っていた。ちよりは僕の右隣に着いている。

「もしかしたら俺がお前みたいに嫌がらせを受けていたかもしれないんだよな。あのとき、お前じゃなくて俺が彼女を助けていたらあのいじめグループに目をつけられていたかもしれないんだよな……俺があいつらにびびってなければ」
「どうなっていたかなんてわからないよ」

 僕は少し口調を強めた。紙コップから伝わる熱がじんわりと手を焦がしていく。嫌な記憶が必要としていないのに蘇ってきた。心の奥深くに沈めていた暗い粘着質な陰がひたひたと音を立てて上ってくる。慌てて僕はコーヒーに口をつけ、黒い液体ごと飲み下した。じいんと喉から胃へと熱が落ちていく。

 そのまま消化されればいいのに。

「それにもう済んだことだろ。あいつらが今どうしているか僕は知らないし知りたいとも思わない。考えたってどうしようもないんだ。どんなにあれこれ想像したところで過去は変えられない。僕たちにできるのは今を生きることだけなんだ。振り返ってばかりでは過去にとらわれてしまう。そんな生き方幸せじゃないだろ?」
「……」

 眉を下げていた上田が俯く。柄にもなく語ってしまった。僕はふっと笑い、ごまかすようにコーヒーをすする。

 互いに口を閉ざすと自販機の音がやけに気になった。ぶうんと鳴るこの音はコンプレッサーの音だろうか。重なるように流れている環境音楽がコーラスの伴奏のように聞こえてくる。意識を別の方向にやっていたからかさっきよりは僕の陰は薄くなりかけていた。

「空」

 ちよりがささやいた。

「あたし知らないうちに上田くんを苦しめていたんだね」

 悲しみと後悔を織り交ぜるように彼女は言葉を紡ぐ。愛らしい声がか細くなった。

「空のときと同じ、あたし何も知らなかった。知ろうともしなかった。空も上田くんもあたしのせいで背負わなくてもいいものを背負ってしまったんだよね。ごめんね」

 しだいに震えていく声。僕はぎゅっと抱き締めてしまいたい衝動に襲われるがどうにか我慢した。代わりにさりげなく手を伸ばし、彼女の小さな手を自分の手で包む。幽霊のはずの彼女の温もりを感じた。幽霊なのに彼女の存在を強く知覚した。幽霊でもここにいる。

 亜麻色の髪の彼女は僕にしか見えないけれどここにいるのだ。

 僕は言った。

「もし気に病んでいるのならやめてくれ」

 ちよりの身体がびくんと跳ねた、。上田がはっとして顔を上げる。コーヒーの薫りがちょっとだけ僕の陰を慰めた。溶けていく砂糖のように少しずつ少しずつ陰はその体積を小さくしていく。

「あのことでいろいろあったのは事実だ。だからといって今さら誰かに何かしてほしいとは思っていない。そりゃ、文句がないと言ったら嘘になる。犯人を知っていたのに黙っていただなんてずるいじゃないか。僕一人が……いや、やめよう。こんなの意味ない」

 ぎゅっとちよりの手を握った。いつの間にかちよりの手も僕の手を受け容れていた。二つの手が指を絡ませる。より強く彼女の体温を意識した。

「……ごめん」
「それで十分だ。これで前に進めるよな」
「……」

 上田がゆっくりとうなずく。彼にしてもらしくない態度だった。地下鉄で再会したとき僕が上田に対して持ったイメージはこんな弱々しい男ではない。もっとパワフルで自信に漲っているブタ野郎だった。こんな飛べないブタはただのブタどころか社長にも相応しくない。

「空……上田くん……」

 ちよりがつぶやき、一筋の涙を零す。上田の目があるから、涙を拭いてやれないのは辛いところだな。

「松山、お前やっぱいい奴だよ」
「そうか?」

 真面目なトーンの上田に僕はおどけてみせる。照れ隠しなのはもちろん秘密だ。

「いい奴だよ」

 と、上田の声に力がこもる。

「ますますお前が欲しくなった。松山、俺と一緒にやろうぜ。お前なら信用できるし、俺にはそういう奴が必要だ」
「……」

 他人からこんなふうに必要とされるのは悪くなかった。僕にだって承認欲求はある。もしかしたら自己評価が低い分人より強いのかもしれない。

 あんぺあ出版には愛着がある。長年勤めてきたのだから当然だろう。七海や有田の顔が頭に浮かんだ。仲間たちもいる。相応に僕の居場所はあるのだ……あるのだと思いたい。

 けど、上田はどうなのだろう?

 ふと芽生えた疑問を胸に上田を見る。彼は急成長したトドの社長だ。運も実力もあったのかもしれない。努力だってしてきたのかもしれない。まわりの人たちに支えられてきたのかもしれない。

 でも……。

 さっき上田の言った言葉に僕は気づいていた。上田が意識して口にしたのかはわからない。だが、確かに彼は言ったのだ。

 お前なら信用できるし、俺にはそういう奴が必要だ。

 聞きようによっては口説き文句である。しかし、僕には別の意味に聞こえた。

 つまりは孤独。

 誰も信じられない中にいるという孤独。

 僕の思い過ごしならそれでいい。ただ、もしそうだとしたら……上田は可哀想な奴なのではないか。成功しているように見えても、エネルギッシュに見えても、その実不幸せなのではないか。

「上田」

 僕はたずねていた。

「君は自分のことを幸せだと思うか?」
 
 
 
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