第17話 ギターを抱えた少女

文字数 2,742文字

 ★★★



 無遠慮な足音が僕の意識を現実へと引き戻した。

 僕とちよりはぱっと離れる。僕の手にはちよりの手の感触が残っていたけれど余韻に浸っている余裕はなかった。

 外から物置を覗くような姿勢で母が現れ、僕の目と合うと完全に姿を見せた。ひょこひょこと中に入ってくる。

「どう? 探し物は見つかったかい?」
「あ、うん」

 見えているはずはないと思いながらもついちよりの存在を隠しておきたくなった。母がきょろきょろとあたりを見回す。ちよりがびくりとしたような気がしてちらと彼女に目をやった。やや引きつった面持ちのちよりと視線が重なる。

「そ、空のお母さんって、もしかして霊感とかある?」
「……」

 そんなものがあるなんて聞いたことない。

 というかあったらとっくにバレているはずだ。生身の若い娘(少なくとも見た目は若い)ではないからいきなり殴られはしないと思うが何かしらの文句は言われていただろう。

 ……いや。

 千夏以外の女を連れ歩いているのだからぶん殴られる可能性はゼロではないか。

 母が近づいてきた。ギターの傍で足を止めて手にすると、ポロンと軽く弾いた。

「あんたが使ってくれたら良かったのにね。そうすりゃこれも埃をかぶらずに済んだのに」

 ギターは母のものだった。五年か六年前にテレビドラマに触発されて始めたらしくよせばいいのに動画を僕や千夏に贈ってきたものだ。

 そういえば最近来なくなっていたけど、さては飽きたな。

「母さん、どうせ途中でやめちゃうんだからそんなにほいほい手を出すのやめたら?」
「やめた訳じゃないよ。ちょっと休んでるだけ」

 子供の言い訳か、とつっこみたいのをぐっと堪える。そんなことをしても何倍にもなって返ってくるだけだ。下手すれば拳で訴えかねない。

「あぁ、いいなあ。あたしも久しぶりにギター弾きたいなぁ」

 ちよりがぽつりと漏らす。

 僕は少し驚きつつも追求を後に回す。どちらかというとちよりはピアノが似合いそうなのにギターの経験があるなんて意外だ。

 また母がポロンと鳴らした。放ったら菓子にされていた割にはちゃんと音が出るものだな。

「そういやあんた中学三年のときに転校してきた娘がいたの憶えているかい?」
「えっ」

 びっくりしたのはちよりだ。

 僕も目をぱちぱちさせた。母が話題にしているのはちよりのことだった。そんな僕たちの動揺などお構いなしに母が続ける。

「その娘、高校に上がってから路上で弾き語りをしていたそうだよ。そういう娘もいるんだねぇ」
「……ど、どうしてそんなこと知ってるの」

 僕の疑問に母がつまらなそうに答えた。

「そりゃ、テレビに出ていたからねぇ。ローカル局だったけどテレビはテレビだろ。しかもあんたと同い年だし。すごい娘もいたもんだって思ったもんだよ」

 いくらテレビに出ていたとはいえ、高校のころの話だと十七年くらい前のことだ。そんな昔のことをよく憶えているな。

「人違いじゃないの? でなければ記憶違いとか」
「あんた、私のこと馬鹿にしてるんじゃないだろうね」

 ギロリと母が睨んでくる。ひょっとしたらそちら方面の人なのではないかと思えるほど怖かった。これ五歳児以下の子供なら絶対に泣くぞ。

 威圧感に刺を加えて母が言葉を投げつけてきた。

「あんたと違ってこっちはぼうっと生きていないんだよ。あんたが千夏さんに逃げられている間にあれやこれやと精一杯人生を楽しもうとしているの。だから頭はあんたよりもずーっとしっかりしているんだよ」
「いや、逃げられてないし」

 弱々しくも、つい口答えしてしまう。千夏のことだったし、これくらいのことは言っておかないと。

「……ま、千夏さんがここにいないんだから何とでも言えるよね」
「……」

 こりゃ駄目だ。

 また時間を無にするのは御免だった。僕は口をへの字にして母を睨み返す。どこかでカラスの鳴く声がした。カァカァとまるで人を小馬鹿にするような調子で連呼している。その場から遠ざかったのかカラスの声は少しずつ小さくなっていった。

 フン、と母が鼻息を荒くした。

「逃げられたんじゃなきゃ今度来るときは千夏さんも一緒に連れてくるんだね。あんただけじゃろくな話相手にもならないよ」

 ギターを置き母が踵を返す。まるで夕立のように短いやりとりだった。それなのになぜか母がいなくなってからどっと疲れが襲ってきた。だらだらと冷や汗が流れ、僕はその場に座り込んだ。

 ちよりが心配そうに覗き込む。

「……空?」
「あ、いや、大丈夫」

 僕は力なく笑った……たぶん笑えた。

 ちよりがギターのほうを向いた。母が置き直したギターはさっきよりも誇らしげに物置の壁に立てかけられている。ちよりが物憂げな目で見つめているのに僕は気づいた。ちよりはあのギターには触れない。先刻もギターに伸ばした手は透過している。かつて演奏できたものができなくなってしまう哀しさはいかほどのものだろう。

 僕はギターどころかほとんどの楽器の経験がなかった。学校の授業で使ったのがせいぜいだ。これといった感慨すらない。

 僕はたずねた。

「高校に行ってからギターを始めたの?」
「うん」

 小さくうなずきながらちよりが短く応じた。そっと目を伏せる。

「空は忘れちゃったかもしれないけどあたしへのいじめがなくなった後に空の前で歌ったことがあるの。そのとき褒めてもらえてすごく嬉しかった。だからあたし、歌が好きになったの。元々好きだったけどもっと好きになったんだよ」

 そのことは憶えている……いや、思い出したというべきか。

 確かにあのときちよりは僕の前で歌った。松下聖子の曲だ。ちよりの美しい歌声に僕は聞き惚れてしまったことも憶えている。

 それにちよりにドキドキしたことも……。

 もっとも、このことはまだ教える気はないが。

「高校に進学してまわりの環境も変わってあたしのことを知らない人ばかりになって、あたし、思い切って時分を出してみたの。親にギターを買ってもらって一生懸命練習して、それから3ヶ月くらいで高校の最寄り駅とか公園とか商店街の隅とかで歌ったの。あ、もちろん許可は取ったよ」

 ちよりの歌声は僕だけでなく多くの人を魅了したようだ。彼女は地元ローカル局の取材を受けた。そのことが牽引となり、とある事務所から声をかけられることとなった。

 僕はこの事務所を知っている。

「エッセル」

 今では大手芸能事務所に成長しているが、僕たちが高校生のころはまだ弱小の音楽事務所だった。
 
 
 
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