第45話 ちよりのマネージャー
文字数 3,110文字
「あたし、この人嫌い! 大っ嫌い!」
このセリフの後すぐにちよりは姿を消してしまった。
僕は突然のことに頭の上が疑問符だらけになってしまったが、とにかくエスキモー企画の稲垣との初顔合わせを無事に終わらせることができた。
稲垣は終始笑顔で口調も丁寧だった。その清涼感すら感じさせる声音は一度として嫌味を発さず、誰かに嫌われるような要素なんて微塵も見当たらなかった。
エキスポ期間中はエスキモー企画から八人のコンパニオンが派遣されあんぺあ出版から発売される書籍や雑誌、スマホアプリなどの案内を行ってもらうことになっていた。当日は稲垣も幕張に来るらしい。彼はエスキモー企画のエグゼクティブマネージャーという役職についていた。それがどのくらい偉いのか僕にはわからない。
「お前、エッセルのことどうして効いたんだ?」
稲垣が帰ってから有田が興味深げに聞いてきた。
テーブルの上にはエキスポ期間中のスケジュールとあんぺあ出版のブースでやる予定の展示について細かく記した企画書が広げられている。それらをきちんと整理しつつ有田が片づけた。
「なあ、どうしてだ?」
「別に……何となくだよ」
僕は気まずさを覚え、彼から目をそらした。逃げようとする意識をぐいと捕まえるような速さで有田が質問を重ねる。
「そもそもどうしてエッセルなんだ? もっと大きいプロダクションもあるだろうに。アナホリプロとかマギーズ事務所とか」
「だから、たまたまだって。不意に浮かんだだけだから意味とかないよ」
「ふうん」
納得しきれないといったふうに有田が唸る。彼はソファーに座り直し、足を高く上げてから組んだ。
「稲垣さんもちょっとおかしかったんだよな。お前の名刺を見たときびっくりしたような顔をしたんだ。すぐに笑顔に戻ったけどな。お前ら本当は知り合いとかってオチはないよな?」
「……それはない」
断言できた。
少なくとも僕は初対面だ。これまでの人生で彼に会ったことなどない。ちよりのときのように記憶から消していたなんてこともないと思う。
そもそも住む世界も違うのではないか。彼と僕の接点があるとはとても考えられない。
僕がはっきりと、真面目なトーンで答えたからか有田は「そうか」と応じてそれきりこの話題に触れなくなった。
僕は胸のあたりにもやもやしたものを抱えたまま広告部を後にした。
★★★
システム開発室に帰ると室内には誰もいなかった。
僕のデスクの上には五本のキットカットとポストイットのメモがあり柊さんの綺麗な文字で「お疲れ様、とりあえずこれで回復してね」とメッセージが添えられていた。こういうちょっとした心配りはとても嬉しい。でもキットカット五本はチョコレートの食べすぎにならないかな?
僕は椅子に腰かけてキットカットに手を伸ばす。袋を破いて中身にぱくつくと背後から声をかけられた。
「どうしてあの人がここに来たの?」
ちよりだった。
食べかけのキットカットを片手に振り向くと暗い表情のちよりがいた。どんよりと曇った彼女の顔に戸惑いと怒りが複雑に絡み合っていて僕は一瞬チョコの甘さを忘れる。しかし身体は糖分を求めていて自然に次の一口を口に運んでいた。
サクリとウエハースの食感が音を奏でる。
ちよりがキットカットを持っていた僕の手を掴んだ。
「ねぇ、どうしてあの人が今ごろになって現れるのよ」
「……」
ちよりの身体から黒いオーラが漂いだしていて僕は絶句する。一体何が彼女をこんなふうに怒らせているのか。いや、稲垣のせいだとはわかるが理由の見当がつかない。
僕は質問した。
「君と彼の間に何があったんだ?」
ちよりの口がきゅっと結ばれる。僕の手を掴んでいた手に力がこもった。
数秒の沈黙が嫌でも彼女の心の奥深くにある何かを意識させる。重苦しい空気があたりを満たしていった。僕は息苦しさを覚え、同時に息の仕方を忘れる。はっと呑んだのは空気だろうか、それともちよりの霊気だろうか。そのどちらであれ僕は時間の経過を知覚することができた。
握力を緩めてちよりが僕の手を解放する。彼女は一歩身を退いてはぁっと嘆息した。揺らいでいた黒いオーラがわずかに薄くなる。
「マネージャーだったの」
ちよりが小さく答えた。
「あの人は私のマネージャーだったの」
「えっ」
驚きのあまり僕は三分の一くらい残っていたキットカットを落としてしまう。拾うよりも先にちよりの言葉が僕の手を止めた。
「あたし、交通事故で死んだって話したでしょ? ほら、大型トレーラーに後ろから追突されたって……あのとき車を運転していたのが彼」
確かにそんな話をしていた。
ちよりがエッセルに所属して歌手になったこと、デビュー曲もその後もヒットしなかったこと、そして四枚目を出す前に交通事故に遭ったこと……。ちよりにとっては辛い記憶だ。そして悲劇ともいえる。
そのちよりのマネージャーが稲垣だったとは。
と、そこで僕は思い出す。
ちよりが自分のマネージャーに対して「酷い」と評していたのだ。この言葉だけでも彼女が自分のマネージャーのことを嫌悪しているのがよくわかる。
「あの人本当に厳しかったの。全然休ませてくれないし、そのくせ学生なんだから勉強もしろって怒るし。あたし、精一杯頑張ったのよ。それなのにちっとも認めてくれないし……あんなに優しくない人、あたし大っ嫌い!!」
自分で自分の言葉に反応するかのようにちよりが興奮していった。せっかく薄まりかけていた黒いオーラが色濃さを取り戻しただけでなくさらに黒くなっていく。
これこのまま放っておいたらやばいんじゃないか?
と、不安になるがどうするべきか対処方法が見つからない。
ちよりがきっと僕を睨む。鋭い眼差しが僕を貫いた。至近距離からのレーザービームだ。これはひとたまりもない。
「空、どうにかならないの? あたし、あの人とまた会うなんて嫌だよ」
「いや、そんなこと言われても」
怖い。
僕の心にこの二文字が浮かんだ。ちよりの黒いオーラもだが、彼女の剣幕も凄かった。たぶんこれまでで一番怖い。
これ、この勢いで怨霊とかにならないよな?
「あ、有田が見つけてきた人なんだし、僕がどうこう言える立場じゃないんだ。だから稲垣さんの件は諦めてもらうしかない」
「どうしても駄目なの?」
「……」
詰め寄られて僕はまた呼吸ができなくなる。
有田に文句をつけたい衝動にかられたが今はそれどころではなかった。頭の中を高速回転させて現状を切り抜ける術はないかと模索する。そんなものは凡人の僕に得られるはずもなくただ疲弊するだけだった。ふわりと香る甘い柑橘系の匂いだけがせめてもの慰めだ。
ふうっとちよりが息をつく。
彼女は頭を振った。亜麻色の髪が宙を舞う。
「……うん、わかってる。こんなのあたしの我が儘なんだよね。わかってるの……わかってるんだけど許せないんだもの。本当に嫌いで我慢できないんだもの」
「……」
涙目になるちよりを前にして僕の心臓がとくんと跳ねる。途端に彼女への恐怖心が吹き飛び、愛しさがこみ上げた。
そっと腕を伸ばしかけ、やめる。
そんな場合じゃない。
それでもちよりが可愛くて、けれど己を押し止めようとする自分がいて、中途半端な僕は結局何もできずに彼女の流す涙を見つめることしかできなかった。
このセリフの後すぐにちよりは姿を消してしまった。
僕は突然のことに頭の上が疑問符だらけになってしまったが、とにかくエスキモー企画の稲垣との初顔合わせを無事に終わらせることができた。
稲垣は終始笑顔で口調も丁寧だった。その清涼感すら感じさせる声音は一度として嫌味を発さず、誰かに嫌われるような要素なんて微塵も見当たらなかった。
エキスポ期間中はエスキモー企画から八人のコンパニオンが派遣されあんぺあ出版から発売される書籍や雑誌、スマホアプリなどの案内を行ってもらうことになっていた。当日は稲垣も幕張に来るらしい。彼はエスキモー企画のエグゼクティブマネージャーという役職についていた。それがどのくらい偉いのか僕にはわからない。
「お前、エッセルのことどうして効いたんだ?」
稲垣が帰ってから有田が興味深げに聞いてきた。
テーブルの上にはエキスポ期間中のスケジュールとあんぺあ出版のブースでやる予定の展示について細かく記した企画書が広げられている。それらをきちんと整理しつつ有田が片づけた。
「なあ、どうしてだ?」
「別に……何となくだよ」
僕は気まずさを覚え、彼から目をそらした。逃げようとする意識をぐいと捕まえるような速さで有田が質問を重ねる。
「そもそもどうしてエッセルなんだ? もっと大きいプロダクションもあるだろうに。アナホリプロとかマギーズ事務所とか」
「だから、たまたまだって。不意に浮かんだだけだから意味とかないよ」
「ふうん」
納得しきれないといったふうに有田が唸る。彼はソファーに座り直し、足を高く上げてから組んだ。
「稲垣さんもちょっとおかしかったんだよな。お前の名刺を見たときびっくりしたような顔をしたんだ。すぐに笑顔に戻ったけどな。お前ら本当は知り合いとかってオチはないよな?」
「……それはない」
断言できた。
少なくとも僕は初対面だ。これまでの人生で彼に会ったことなどない。ちよりのときのように記憶から消していたなんてこともないと思う。
そもそも住む世界も違うのではないか。彼と僕の接点があるとはとても考えられない。
僕がはっきりと、真面目なトーンで答えたからか有田は「そうか」と応じてそれきりこの話題に触れなくなった。
僕は胸のあたりにもやもやしたものを抱えたまま広告部を後にした。
★★★
システム開発室に帰ると室内には誰もいなかった。
僕のデスクの上には五本のキットカットとポストイットのメモがあり柊さんの綺麗な文字で「お疲れ様、とりあえずこれで回復してね」とメッセージが添えられていた。こういうちょっとした心配りはとても嬉しい。でもキットカット五本はチョコレートの食べすぎにならないかな?
僕は椅子に腰かけてキットカットに手を伸ばす。袋を破いて中身にぱくつくと背後から声をかけられた。
「どうしてあの人がここに来たの?」
ちよりだった。
食べかけのキットカットを片手に振り向くと暗い表情のちよりがいた。どんよりと曇った彼女の顔に戸惑いと怒りが複雑に絡み合っていて僕は一瞬チョコの甘さを忘れる。しかし身体は糖分を求めていて自然に次の一口を口に運んでいた。
サクリとウエハースの食感が音を奏でる。
ちよりがキットカットを持っていた僕の手を掴んだ。
「ねぇ、どうしてあの人が今ごろになって現れるのよ」
「……」
ちよりの身体から黒いオーラが漂いだしていて僕は絶句する。一体何が彼女をこんなふうに怒らせているのか。いや、稲垣のせいだとはわかるが理由の見当がつかない。
僕は質問した。
「君と彼の間に何があったんだ?」
ちよりの口がきゅっと結ばれる。僕の手を掴んでいた手に力がこもった。
数秒の沈黙が嫌でも彼女の心の奥深くにある何かを意識させる。重苦しい空気があたりを満たしていった。僕は息苦しさを覚え、同時に息の仕方を忘れる。はっと呑んだのは空気だろうか、それともちよりの霊気だろうか。そのどちらであれ僕は時間の経過を知覚することができた。
握力を緩めてちよりが僕の手を解放する。彼女は一歩身を退いてはぁっと嘆息した。揺らいでいた黒いオーラがわずかに薄くなる。
「マネージャーだったの」
ちよりが小さく答えた。
「あの人は私のマネージャーだったの」
「えっ」
驚きのあまり僕は三分の一くらい残っていたキットカットを落としてしまう。拾うよりも先にちよりの言葉が僕の手を止めた。
「あたし、交通事故で死んだって話したでしょ? ほら、大型トレーラーに後ろから追突されたって……あのとき車を運転していたのが彼」
確かにそんな話をしていた。
ちよりがエッセルに所属して歌手になったこと、デビュー曲もその後もヒットしなかったこと、そして四枚目を出す前に交通事故に遭ったこと……。ちよりにとっては辛い記憶だ。そして悲劇ともいえる。
そのちよりのマネージャーが稲垣だったとは。
と、そこで僕は思い出す。
ちよりが自分のマネージャーに対して「酷い」と評していたのだ。この言葉だけでも彼女が自分のマネージャーのことを嫌悪しているのがよくわかる。
「あの人本当に厳しかったの。全然休ませてくれないし、そのくせ学生なんだから勉強もしろって怒るし。あたし、精一杯頑張ったのよ。それなのにちっとも認めてくれないし……あんなに優しくない人、あたし大っ嫌い!!」
自分で自分の言葉に反応するかのようにちよりが興奮していった。せっかく薄まりかけていた黒いオーラが色濃さを取り戻しただけでなくさらに黒くなっていく。
これこのまま放っておいたらやばいんじゃないか?
と、不安になるがどうするべきか対処方法が見つからない。
ちよりがきっと僕を睨む。鋭い眼差しが僕を貫いた。至近距離からのレーザービームだ。これはひとたまりもない。
「空、どうにかならないの? あたし、あの人とまた会うなんて嫌だよ」
「いや、そんなこと言われても」
怖い。
僕の心にこの二文字が浮かんだ。ちよりの黒いオーラもだが、彼女の剣幕も凄かった。たぶんこれまでで一番怖い。
これ、この勢いで怨霊とかにならないよな?
「あ、有田が見つけてきた人なんだし、僕がどうこう言える立場じゃないんだ。だから稲垣さんの件は諦めてもらうしかない」
「どうしても駄目なの?」
「……」
詰め寄られて僕はまた呼吸ができなくなる。
有田に文句をつけたい衝動にかられたが今はそれどころではなかった。頭の中を高速回転させて現状を切り抜ける術はないかと模索する。そんなものは凡人の僕に得られるはずもなくただ疲弊するだけだった。ふわりと香る甘い柑橘系の匂いだけがせめてもの慰めだ。
ふうっとちよりが息をつく。
彼女は頭を振った。亜麻色の髪が宙を舞う。
「……うん、わかってる。こんなのあたしの我が儘なんだよね。わかってるの……わかってるんだけど許せないんだもの。本当に嫌いで我慢できないんだもの」
「……」
涙目になるちよりを前にして僕の心臓がとくんと跳ねる。途端に彼女への恐怖心が吹き飛び、愛しさがこみ上げた。
そっと腕を伸ばしかけ、やめる。
そんな場合じゃない。
それでもちよりが可愛くて、けれど己を押し止めようとする自分がいて、中途半端な僕は結局何もできずに彼女の流す涙を見つめることしかできなかった。