第47話 一泊目のホテルの出来事? 何それ、美味しいの?
文字数 3,235文字
エキスポ初日。
「ふわぁ」
シルバーのスタッフジャンパーを身につけた僕はあんぺあ出版のブースに設けられた物販のコーナーでカウンターに少し身を預けながら欠伸をした。間の抜けた声が宙を舞い、クスクスと僕を嘲るように霧散する。
隣に立つ七海が不満たっぷりにこちらを見つめ、やがて呆れたふうに口を開いた。
「先輩、たっぷり眠ったんじゃないんですか?」
「もちろん眠ったとも」
嘘をついた。
昨夜はちよりの相手をしていてほとんど眠っていない。ベッドの中にいたのはいたのだけれど、眠らせてはもらえずにいた。
誓って言うが淫らなことは一切していない。そもそもちよりはベッドの外だった。彼女は寝ている僕を見下ろすようにベッドに腰かけていたのだ。
ちよりは稲垣を避けて他のブースを見て回っていたらしい。
マイケルソフトはもちろんパインナップル社やフジツー、サムサム電子などの大手企業、そして下町ミサイルソフトやしろくろパンダ社といった新規参入メーカーのブースが会場内に設置されていた。
確か325もの企業がブースを並べていたはずだからとても全ては回り切れていないだろう。
特設会場ではアイドルによるパフォーマンス、マイケルソフトやソフトバンキングのトップを交えたトークショー、ネットゲームの大会などが予定されていた。一部の催しは入念なリハーサルが行われ緊急時を想定したロールプレイも徹底されている。
エキスポの規模は僕の理解よりも遙かに大きい。セキュリティにも十分すぎるくらいの金と人材が投入されているはずだった。
専門用語なんてろくにわかっていないちよりの説明と感想を昨夜は延々と聞かされていた。これちょい彼女の呪いなんじゃないかって終わりのほうでは思ったくらいだ。
もう一度欠伸をした。
視界の端でシステム開発室の東山室長がやたら横幅の広い男性客と話し込んでいる。
東山室長は身長一九〇センチとかなり背が高い。肉づきはいいほうで彼の好きな世紀末の格闘家を連想させた。面長で浅黒い顔には気高そうな太くて長い眉、切れ長の目、鷲鼻、薄い唇が計算したかのように配置されている。ウルフカットの黒髪から覗ける小さな耳がちょっと被さってくる髪を疎ましげにしているように見えた。
スタッフジャンパーではなくダークスーツを着ているのは彼がこのブースのメンバーではないからだ。商談ついでにここに寄り、たまたま知り合いの担当者と会った、という感じだった。
「よぉ、松ちゃん」
話し合いを終えた東山室長が緒方部長ばりのフレンドリーさで挨拶してきた。極めてご機嫌な声である。商談がうまくいったのだろうか。
「お疲れ様です、室長」
僕が会釈すると七海も倣った。
「東山室長、お疲れ様です♪」
「お疲れ、ななっち」
軽薄そうに応じ、東山室長がにこりとする。
「昨夜は松ちゃんとお楽しみだったのかな?」
「それが酷いんですよぉ」
七海が僕をジト目で睨んだ。静かな圧をかけながら言葉のハンマーを振り下ろす。
「いざというときに000なんですよ。最低だと思いません? 私、あんな辱めは初めてですぅ」
「……」
おいおい。
なぜ伏せ字にする?
というか七海を辱めた覚えはないぞ。
僕がホテルで七海にしたのは「早く寝たいから」と言ってさっさと部屋に戻って七海の襲撃を断固阻止したくらいだ。安眠を守ろうとして何が悪い。
ま、結局眠れなかったけど。
「……ふむ」
東山室長が一声漏らし、七海から僕へと目を移した。眼光に鋭さが宿る。僕は暗殺拳の使い手に狙われた下っ端悪党のように身を竦ませた。ごくりと唾を飲む。
「あれだね、松ちゃんは意気地なしなんだね」
「……」
そうかもしれないしそうでないかもしれない。僕には妻も子供もいるし、離婚する気もないのにいい加減なことはできなかった。これを意気地がないと一刀両断するというのであればもう仕方ない。
「ま、いいや、色恋に首を突っ込んでもアレだしね。まあ、人生は一度きりなんだから一片の悔いのないようにしたまえ」
「……」
室長、どこかで聞いたようなセリフです。
喉まで出かかった言葉を飲み下し、にへらっと頼りない笑顔でごまかす。東山室長は宣言通り僕と七海のことに興味を失い、きょろきょろとあたりを見回した。
「てっちゃん(有田のこと)は?」
「あ、それならマイケルソフトのほうかと」
僕は会場内の一際大きなブースを指差した。
あんてな出版のブースからでもわかる派手なデザインのロゴがピカピカと光っている。ドーム状の建物をそっくり運んだようなブースはすでにゲストで一杯になっていた。
「マイケルかぁ、あそこの常務とは大学の同期なんだよな」
やや嫌そうに東山室長が息をつく。うーむと首を振り、僕に向き直った。
「しょうがない。代わってあげるから松ちゃんがてっちゃんを呼んできてよ」
「はい?」
つい頓狂に返してしまう。
「室長が行けば済む話じゃないですか」
「だからさぁ、あそこには同期の常務がいるんだよ」
「いやいや、そんなのいるかどうかわからないじゃないですか」
「いたらどうするの? いたら困っちゃうよ?」
「……」
あ、これは駄目だ。
こうなった東山室長は頑として譲らなくなる。まだ付き合いは短いけどそのくらいは判別できるようになっていた。
「……わかりました。すぐ戻りますからそれまでお願いします」
「OK、OK」
東山室長がうんうんとうなずいた。
僕はカウンターの横をくぐってブースの外に出る。入れ替わりに東山室長がカウンターの奥に入った。七海の横に並んでさらに機嫌を良くした東山室長がひらひらと手を振って僕に行くよう促す。七海は何とも言えぬ表情で苦笑していた。
「それじゃ、行ってきます」
「先輩、早く帰ってきてくださいね」
「お土産もよろしく」
東山室長の軽口は無視して僕はマイケルソフトへと向かった。
「空」
マイケルソフトに続く導線の途中で僕は呼び止められる。
ちよりの声だった。動画編集ソフトの開発メーカーのブースの前に立ち、こちらを手招きしている。
彼女のすぐ傍には色鮮やかなデモ画面を映し出した大型モニターがあり、、その隣で水色のメイド服姿のコンパニオンが愛想笑いを振りまいていた。
やけに丈の短いメイド服である。白いニーソックスがちょいエロかった。
そのニーソックスをちよりが手で示す。
「ほらほら、これ見て! 空ってこういうの好きでしょ?」
「……」
ちよりの言動に目眩を覚える。彼女が誰にも見えないこと、その声が誰にも聞かれないことをこれほど良かったと思えたことはない。
僕が返事をせずにいるとちよりが声を台にした。
「七海さんにこんなの履かれたら我慢できなくなっちゃうよね」
「……」
本当に誰にも聞かれなくて良かった。
下手をすれば大恥をかいていたであろう場面に僕は冷や汗をかく。文句の一つも言ってやりたいがまわりに人目があるので堪えた。
僕の表情にちよりがケタケタと笑い始める。小悪魔のように悪戯っぽさ全開で可愛らしい顔をくしゃりと歪めていた。ひょっとしたら幽霊から悪魔に変わりつつあるのかもしれない。
「……!」
と、突然ちよりが笑うのをやめた。
上機嫌から不機嫌へとスイッチを切り替えたみたいに表情を変える。一点に注がれた視線を僕は目で追った。
ダークブラウンのスーツに身を包んだ男がこちらへと歩いてくる。彼は両手に沢山のペットボトルで膨らんだレジ袋を持っていた。僕に気づいたのだろう、にこにこと笑みを浮かべて小さく会釈してくる。
「どうもどうも、お疲れ様ですどうも」
稲垣だった。
「ふわぁ」
シルバーのスタッフジャンパーを身につけた僕はあんぺあ出版のブースに設けられた物販のコーナーでカウンターに少し身を預けながら欠伸をした。間の抜けた声が宙を舞い、クスクスと僕を嘲るように霧散する。
隣に立つ七海が不満たっぷりにこちらを見つめ、やがて呆れたふうに口を開いた。
「先輩、たっぷり眠ったんじゃないんですか?」
「もちろん眠ったとも」
嘘をついた。
昨夜はちよりの相手をしていてほとんど眠っていない。ベッドの中にいたのはいたのだけれど、眠らせてはもらえずにいた。
誓って言うが淫らなことは一切していない。そもそもちよりはベッドの外だった。彼女は寝ている僕を見下ろすようにベッドに腰かけていたのだ。
ちよりは稲垣を避けて他のブースを見て回っていたらしい。
マイケルソフトはもちろんパインナップル社やフジツー、サムサム電子などの大手企業、そして下町ミサイルソフトやしろくろパンダ社といった新規参入メーカーのブースが会場内に設置されていた。
確か325もの企業がブースを並べていたはずだからとても全ては回り切れていないだろう。
特設会場ではアイドルによるパフォーマンス、マイケルソフトやソフトバンキングのトップを交えたトークショー、ネットゲームの大会などが予定されていた。一部の催しは入念なリハーサルが行われ緊急時を想定したロールプレイも徹底されている。
エキスポの規模は僕の理解よりも遙かに大きい。セキュリティにも十分すぎるくらいの金と人材が投入されているはずだった。
専門用語なんてろくにわかっていないちよりの説明と感想を昨夜は延々と聞かされていた。これちょい彼女の呪いなんじゃないかって終わりのほうでは思ったくらいだ。
もう一度欠伸をした。
視界の端でシステム開発室の東山室長がやたら横幅の広い男性客と話し込んでいる。
東山室長は身長一九〇センチとかなり背が高い。肉づきはいいほうで彼の好きな世紀末の格闘家を連想させた。面長で浅黒い顔には気高そうな太くて長い眉、切れ長の目、鷲鼻、薄い唇が計算したかのように配置されている。ウルフカットの黒髪から覗ける小さな耳がちょっと被さってくる髪を疎ましげにしているように見えた。
スタッフジャンパーではなくダークスーツを着ているのは彼がこのブースのメンバーではないからだ。商談ついでにここに寄り、たまたま知り合いの担当者と会った、という感じだった。
「よぉ、松ちゃん」
話し合いを終えた東山室長が緒方部長ばりのフレンドリーさで挨拶してきた。極めてご機嫌な声である。商談がうまくいったのだろうか。
「お疲れ様です、室長」
僕が会釈すると七海も倣った。
「東山室長、お疲れ様です♪」
「お疲れ、ななっち」
軽薄そうに応じ、東山室長がにこりとする。
「昨夜は松ちゃんとお楽しみだったのかな?」
「それが酷いんですよぉ」
七海が僕をジト目で睨んだ。静かな圧をかけながら言葉のハンマーを振り下ろす。
「いざというときに000なんですよ。最低だと思いません? 私、あんな辱めは初めてですぅ」
「……」
おいおい。
なぜ伏せ字にする?
というか七海を辱めた覚えはないぞ。
僕がホテルで七海にしたのは「早く寝たいから」と言ってさっさと部屋に戻って七海の襲撃を断固阻止したくらいだ。安眠を守ろうとして何が悪い。
ま、結局眠れなかったけど。
「……ふむ」
東山室長が一声漏らし、七海から僕へと目を移した。眼光に鋭さが宿る。僕は暗殺拳の使い手に狙われた下っ端悪党のように身を竦ませた。ごくりと唾を飲む。
「あれだね、松ちゃんは意気地なしなんだね」
「……」
そうかもしれないしそうでないかもしれない。僕には妻も子供もいるし、離婚する気もないのにいい加減なことはできなかった。これを意気地がないと一刀両断するというのであればもう仕方ない。
「ま、いいや、色恋に首を突っ込んでもアレだしね。まあ、人生は一度きりなんだから一片の悔いのないようにしたまえ」
「……」
室長、どこかで聞いたようなセリフです。
喉まで出かかった言葉を飲み下し、にへらっと頼りない笑顔でごまかす。東山室長は宣言通り僕と七海のことに興味を失い、きょろきょろとあたりを見回した。
「てっちゃん(有田のこと)は?」
「あ、それならマイケルソフトのほうかと」
僕は会場内の一際大きなブースを指差した。
あんてな出版のブースからでもわかる派手なデザインのロゴがピカピカと光っている。ドーム状の建物をそっくり運んだようなブースはすでにゲストで一杯になっていた。
「マイケルかぁ、あそこの常務とは大学の同期なんだよな」
やや嫌そうに東山室長が息をつく。うーむと首を振り、僕に向き直った。
「しょうがない。代わってあげるから松ちゃんがてっちゃんを呼んできてよ」
「はい?」
つい頓狂に返してしまう。
「室長が行けば済む話じゃないですか」
「だからさぁ、あそこには同期の常務がいるんだよ」
「いやいや、そんなのいるかどうかわからないじゃないですか」
「いたらどうするの? いたら困っちゃうよ?」
「……」
あ、これは駄目だ。
こうなった東山室長は頑として譲らなくなる。まだ付き合いは短いけどそのくらいは判別できるようになっていた。
「……わかりました。すぐ戻りますからそれまでお願いします」
「OK、OK」
東山室長がうんうんとうなずいた。
僕はカウンターの横をくぐってブースの外に出る。入れ替わりに東山室長がカウンターの奥に入った。七海の横に並んでさらに機嫌を良くした東山室長がひらひらと手を振って僕に行くよう促す。七海は何とも言えぬ表情で苦笑していた。
「それじゃ、行ってきます」
「先輩、早く帰ってきてくださいね」
「お土産もよろしく」
東山室長の軽口は無視して僕はマイケルソフトへと向かった。
「空」
マイケルソフトに続く導線の途中で僕は呼び止められる。
ちよりの声だった。動画編集ソフトの開発メーカーのブースの前に立ち、こちらを手招きしている。
彼女のすぐ傍には色鮮やかなデモ画面を映し出した大型モニターがあり、、その隣で水色のメイド服姿のコンパニオンが愛想笑いを振りまいていた。
やけに丈の短いメイド服である。白いニーソックスがちょいエロかった。
そのニーソックスをちよりが手で示す。
「ほらほら、これ見て! 空ってこういうの好きでしょ?」
「……」
ちよりの言動に目眩を覚える。彼女が誰にも見えないこと、その声が誰にも聞かれないことをこれほど良かったと思えたことはない。
僕が返事をせずにいるとちよりが声を台にした。
「七海さんにこんなの履かれたら我慢できなくなっちゃうよね」
「……」
本当に誰にも聞かれなくて良かった。
下手をすれば大恥をかいていたであろう場面に僕は冷や汗をかく。文句の一つも言ってやりたいがまわりに人目があるので堪えた。
僕の表情にちよりがケタケタと笑い始める。小悪魔のように悪戯っぽさ全開で可愛らしい顔をくしゃりと歪めていた。ひょっとしたら幽霊から悪魔に変わりつつあるのかもしれない。
「……!」
と、突然ちよりが笑うのをやめた。
上機嫌から不機嫌へとスイッチを切り替えたみたいに表情を変える。一点に注がれた視線を僕は目で追った。
ダークブラウンのスーツに身を包んだ男がこちらへと歩いてくる。彼は両手に沢山のペットボトルで膨らんだレジ袋を持っていた。僕に気づいたのだろう、にこにこと笑みを浮かべて小さく会釈してくる。
「どうもどうも、お疲れ様ですどうも」
稲垣だった。