第5話 そこに幸せはない
文字数 2,348文字
ちよりがさらに言う。
「奥さんが幸せじゃないと一緒に暮らしている空も幸せになれないよ。そんなこともわからないの?」
僕は応えない。
ちよりにとやかく言われる筋合いはなかった。言い返したいけれど千夏がいる前ではできない。そんなことをしたら千夏にまでおかしくなったと思われかねない。
僕が黙っているのをいいことにちよりが続けた。
「そりゃ、あの娘が可愛くて仕方ないのかもしれないけど、だからといって奥さんだけに負担をかけるってどうなの? 女は家庭に収まっていればいいって考えているのならそんなの時代錯誤もいいところだよ。そんなんじゃ奥さんが可哀想」
別に千夏一人に負担を押しつけているつもりはないし、家に閉じ込めているつもりもない。
タイミングが悪いと思っているのだ。
なぜ理解してくれない……って、それをちよりと議論する訳にもいかないか。
うん、今はダメだ。
千夏がまたため息をついた。
「……あなた、本当はどこか痛いんじゃない?」
向けられた疑問に僕は首を傾げる。頭痛ならすでに消えていた。けれど千夏の表情には心配の色が失望と入れ替わるように浮かんでいる。
僕は軽くうなった。
じわりじわりと苛立ちと面倒くささが交差したような感覚が芽生え、それを声に発してしまいたい衝動にかられる。こんな状況に長く身を置きたくなかった。これなら書店回りをしていたほうがずっといい。
千夏が無言で僕を見つめる。
僕は彼女の視線から避けるように窓へと顔を向けた。当然ながらカーテンで閉じられており外は見えない。
「空」
と、ちより。
批難の声が容赦なく僕に突き刺さった。
「そんな態度とったらダメだよ。ちゃんと奥さんと向き合わないと」
向き合う?
それでどうなるというのか。
僕はまだ千夏に家にいてほしい。
千夏は外で働きたい。
平行線だ。
どんなに話し合ったところで結論なんて出るはずがない。お互いに気まずくなるだけだ。
そこに「幸せ」はない。
僕が顔を背けているとちよりが嘆息した。これこの上なくあからさまに、激しく自己主張するかのような深い嘆息だ。
言葉が投げつけられた。
「奥さんと話をすることから逃げたらダメだよ。そりゃ、意見がぶつかれば傷つくかもしれない。けど、それを恐れていたらずっと心が一方通行で終わっちゃうよ。たとえ言い争うことがなくても心が通わなければそんなの幸せじゃない」
「……」
僕は目をつぶる。
拳を握った。
「空っ!」
ちよりの声に僕は「ああっ、もうっ」と裂けんで遮る。
目を開けて千夏に振り返った。
まっすぐに彼女を見つめる。
突然の視線に千夏が戸惑ったふうに目をそらそうとした。
僕は彼女の名を呼んで制する。
「千夏」
一瞬彼女の身体がぴくんと揺れた。僕は拳を握ったまま、できるだけ静かにたずねた。
「今でも外で働きたいと思っているのか?」
「えっ」
「聞いているんだよ。外で働きたいの?」
「……」
虚を突かれたように千夏が固まる。僕は時が動き出すのを待った。
少しして千夏がうなずく。
やっぱりそうか。
彼女がそれを望んでいるのはわかっていた。僕の考えなんて彼女にとって単なる束縛なだけだったのかもしれない。
こんなこと質問すべきじゃなかった。
後悔の念が沸いてくる。平行線を再確認するだけならそのままでいたほうが気持ちは楽だ。悪戯に波風を立てたくなかった。ちよりにどう思われようと、平行線であり続けようと何もない幸せというのもあるはずだ。
「幸せ」の解釈は人それぞれのはず。
違うのか?
「あなた」
千夏が小さく言う。
僕は聞き逃すまいと意識を集中した。
「あのね、私、友だちに一緒に働かないかって誘われてるの」
「……誘われてる?」
「うん」
「何の仕事?」
自分でも驚くほど落ち着いた声音だった。今働くなんて反対なのに。
千夏が自分のお腹のあたりで両手を組む。数秒迷ったふうに手を組んだり外したりしてから、彼女は返した。
「旅館の仲居」
「はい?」
全くの予想外だった。
「前にうちに来た佐原(さはら)さんって憶えてる? 彼女、温泉旅館を経営している人に嫁いだんだけど人手が足りないみたいなの。それで……」
「千恵はどうするんだ?」
話にならないと判じた。いくら何でもこれはダメだ。
「その温泉旅館ってここから通えるところじゃないんだろ? 千恵はどうするんだよ」
僕一人が家に残るならどうってことはない。
でも、千恵を放って行くのだとしたら大問題だ。そんなの千恵が可哀想だし認める訳にはいかない。
僕は口角が下がっていくのを自覚した。
「そう言うと思った。だから言いたくなかったのよ」
「言ってるじゃないか」
「あなたが言わせたんでしょ」
僕も千夏も語気が荒くなっていく。そのせいだろう、ちよりが「あーやめてやめて」と騒ぎだした。両腕をぶんぶん回して僕の注意を引こうとする。
「あたしもまさか温泉旅館でなんて思わなかった。これもっとちゃんと話し合える環境ですべき問題だよ」
「千恵は私が連れて行くから」
千夏がはっきりと告げた。
「あなたと話していてよくわかったわ。千恵を心配しているふうに言っているけど実際は子供を置いていかれたら困るってだけなのよね。だったら安心して、あなたに千恵を任せるつもりはないから。あの子は私が連れて行きます」
あ、これはまずい。
僕は内心焦った。気づかぬうちに背中に汗をかいていた。千夏がやめてほしいくらいの決意に満ちた目でこちらを見返している。
やばい。
かえって千夏のやる気を煽ってしまった。これだと本当に千恵と一緒に出て行ってしまいかねない。
ばつが悪そうにちよりがつぶやくのが聞こえた。
「あーあ、これじゃ幸せじゃなくなっちゃう」
おい。
他人事みたいに言うなよ。
僕は横目でちよりを睨んだ。
「奥さんが幸せじゃないと一緒に暮らしている空も幸せになれないよ。そんなこともわからないの?」
僕は応えない。
ちよりにとやかく言われる筋合いはなかった。言い返したいけれど千夏がいる前ではできない。そんなことをしたら千夏にまでおかしくなったと思われかねない。
僕が黙っているのをいいことにちよりが続けた。
「そりゃ、あの娘が可愛くて仕方ないのかもしれないけど、だからといって奥さんだけに負担をかけるってどうなの? 女は家庭に収まっていればいいって考えているのならそんなの時代錯誤もいいところだよ。そんなんじゃ奥さんが可哀想」
別に千夏一人に負担を押しつけているつもりはないし、家に閉じ込めているつもりもない。
タイミングが悪いと思っているのだ。
なぜ理解してくれない……って、それをちよりと議論する訳にもいかないか。
うん、今はダメだ。
千夏がまたため息をついた。
「……あなた、本当はどこか痛いんじゃない?」
向けられた疑問に僕は首を傾げる。頭痛ならすでに消えていた。けれど千夏の表情には心配の色が失望と入れ替わるように浮かんでいる。
僕は軽くうなった。
じわりじわりと苛立ちと面倒くささが交差したような感覚が芽生え、それを声に発してしまいたい衝動にかられる。こんな状況に長く身を置きたくなかった。これなら書店回りをしていたほうがずっといい。
千夏が無言で僕を見つめる。
僕は彼女の視線から避けるように窓へと顔を向けた。当然ながらカーテンで閉じられており外は見えない。
「空」
と、ちより。
批難の声が容赦なく僕に突き刺さった。
「そんな態度とったらダメだよ。ちゃんと奥さんと向き合わないと」
向き合う?
それでどうなるというのか。
僕はまだ千夏に家にいてほしい。
千夏は外で働きたい。
平行線だ。
どんなに話し合ったところで結論なんて出るはずがない。お互いに気まずくなるだけだ。
そこに「幸せ」はない。
僕が顔を背けているとちよりが嘆息した。これこの上なくあからさまに、激しく自己主張するかのような深い嘆息だ。
言葉が投げつけられた。
「奥さんと話をすることから逃げたらダメだよ。そりゃ、意見がぶつかれば傷つくかもしれない。けど、それを恐れていたらずっと心が一方通行で終わっちゃうよ。たとえ言い争うことがなくても心が通わなければそんなの幸せじゃない」
「……」
僕は目をつぶる。
拳を握った。
「空っ!」
ちよりの声に僕は「ああっ、もうっ」と裂けんで遮る。
目を開けて千夏に振り返った。
まっすぐに彼女を見つめる。
突然の視線に千夏が戸惑ったふうに目をそらそうとした。
僕は彼女の名を呼んで制する。
「千夏」
一瞬彼女の身体がぴくんと揺れた。僕は拳を握ったまま、できるだけ静かにたずねた。
「今でも外で働きたいと思っているのか?」
「えっ」
「聞いているんだよ。外で働きたいの?」
「……」
虚を突かれたように千夏が固まる。僕は時が動き出すのを待った。
少しして千夏がうなずく。
やっぱりそうか。
彼女がそれを望んでいるのはわかっていた。僕の考えなんて彼女にとって単なる束縛なだけだったのかもしれない。
こんなこと質問すべきじゃなかった。
後悔の念が沸いてくる。平行線を再確認するだけならそのままでいたほうが気持ちは楽だ。悪戯に波風を立てたくなかった。ちよりにどう思われようと、平行線であり続けようと何もない幸せというのもあるはずだ。
「幸せ」の解釈は人それぞれのはず。
違うのか?
「あなた」
千夏が小さく言う。
僕は聞き逃すまいと意識を集中した。
「あのね、私、友だちに一緒に働かないかって誘われてるの」
「……誘われてる?」
「うん」
「何の仕事?」
自分でも驚くほど落ち着いた声音だった。今働くなんて反対なのに。
千夏が自分のお腹のあたりで両手を組む。数秒迷ったふうに手を組んだり外したりしてから、彼女は返した。
「旅館の仲居」
「はい?」
全くの予想外だった。
「前にうちに来た佐原(さはら)さんって憶えてる? 彼女、温泉旅館を経営している人に嫁いだんだけど人手が足りないみたいなの。それで……」
「千恵はどうするんだ?」
話にならないと判じた。いくら何でもこれはダメだ。
「その温泉旅館ってここから通えるところじゃないんだろ? 千恵はどうするんだよ」
僕一人が家に残るならどうってことはない。
でも、千恵を放って行くのだとしたら大問題だ。そんなの千恵が可哀想だし認める訳にはいかない。
僕は口角が下がっていくのを自覚した。
「そう言うと思った。だから言いたくなかったのよ」
「言ってるじゃないか」
「あなたが言わせたんでしょ」
僕も千夏も語気が荒くなっていく。そのせいだろう、ちよりが「あーやめてやめて」と騒ぎだした。両腕をぶんぶん回して僕の注意を引こうとする。
「あたしもまさか温泉旅館でなんて思わなかった。これもっとちゃんと話し合える環境ですべき問題だよ」
「千恵は私が連れて行くから」
千夏がはっきりと告げた。
「あなたと話していてよくわかったわ。千恵を心配しているふうに言っているけど実際は子供を置いていかれたら困るってだけなのよね。だったら安心して、あなたに千恵を任せるつもりはないから。あの子は私が連れて行きます」
あ、これはまずい。
僕は内心焦った。気づかぬうちに背中に汗をかいていた。千夏がやめてほしいくらいの決意に満ちた目でこちらを見返している。
やばい。
かえって千夏のやる気を煽ってしまった。これだと本当に千恵と一緒に出て行ってしまいかねない。
ばつが悪そうにちよりがつぶやくのが聞こえた。
「あーあ、これじゃ幸せじゃなくなっちゃう」
おい。
他人事みたいに言うなよ。
僕は横目でちよりを睨んだ。