第17話

文字数 3,929文字


 多種族社会において争いは避けて通れない。そう教えてくれたのは、一年次に音楽史を担当してくれていたヤマアラシの教授だった。
 山一つを切り取ったミューボウルの敷地は当然のように広い。それぞれ違う個性を持つ一万人の学生が共同生活を送るとなればむしろそのくらいは必須とも言えるけれど、そういった仕組みこそアザミの争奪戦により拍車をかける要因になっていた。より良い成績を残せばより良い生活が手に入る。より上を求める強い意志がなければ、この大学ではあっという間に落ちこぼれになってしまう。
 しかし、もしも成績上位百名であるブライダーの中でも一位を、しかも二年連続で取り続けることができたとしたら? そんな奴はまるで富豪のような扱いを受けるに違いない。恐ろしいことに、ニーナと呼ばれる彼女の生活は実際にそうなっていた。
 およそ六百平米の広さを持つその一軒家は一万人のミューボウル生の中でも頂点に立つ者にしか所有が許されない。プール付きの庭や専用のマシンジムが本当に必要なのかとも思うが、この大学でその場所に憧れない者はほとんどいない。彼女はその広い家にたった一人、恐らく今も地下の防音室でピアノの練習を続けている。
「ねえ、本当に行くの?」
 俺たち五人が敷地内を二十分以上も歩いてようやくその家の前に辿り着いた頃、ピンクは言った。彼女は未だ心の準備ができていないようで、俺の大きな体の後ろに隠れ続けている。
 不安そうなその姿を見てやり方を変えようかとも悩んだが、ケグはピンクの言葉なんて全然気にせず、その家の背の高い真っ白な門の横にあるインターホンを鳴らす。ピンクの顔は更に見えないところへ引っ込んでしまう。
『誰?』
 インターホンのマイクから声が聞こえる。あまり俺たちを歓迎していないような声だ。ニーナとはピンク以外全員初対面。バロック祭も近くて忙しいだろうし、知り合いであるピンクの顔を見なければ彼女は表へ出てきてくれないだろう。
「ごめんね、ピンク。お願いできる?」
 俺はピンクの方に振り向いて言った。彼女は渋々俺の翼を引き戸のようにしながら、インターホンのカメラの前に少しだけ顔を出してくれる。
 ぶちっとマイクの切れる音がすると、そう時間はかからず目の前の門はひとりでに開いた。その先に続いているドライブウェイの向こう、Y字路を右に行ったところにある玄関ドアが開く。彼女は既にそこに立っていた。美しいマズル、頭の上で垂れた薄茶色の両耳。種族が違えど伝わってくるその端正な顔立ちとスタイル。ところどころに見える白い毛はピンクと同じチャームポイントの一つなのだろう。それらは全身の大部分を占める薄茶色の毛をより黄金に際立たせている。
「あら?」
 穏やかで華奢なイメージが湧いてくるその外見とは裏腹に、彼女の声は気丈に溢れていた。そして俺の後ろから少しだけ覗くピンクに目を向けながら、煽るような仕草でこちらに近付いてくる。
「あらあらあらあら?」
 それを見るや否やピンクは俺の後ろに全身を隠し、まったく動かなくなってしまった。しかしニーナはそんなことお構いなしだ。彼女は俺たちの前に立つと、腰に手を当てながら言った。
「しばらく見ないと思ったら、こんな奴らとつるんでたんだ? 初めまして、ニーナ・ウエストよ。今さら名乗る必要もないと思うけど」
 傲慢、気丈、強欲。学生間での噂を聞けばキリがないが、その喋り方や雰囲気を見て、そういう噂が流れる理由が何となくわかった気がした。しかし、彼女が世界一の音大生であることに変わりはない。下着にも見える薄手のショートスリーブに挿してある白金のアザミのバッジ。それこそ彼女がブライダー一位であることの証明だ。
「こいつら、知り合いなのか?」
 ケグは戸惑いを隠し切れず俺に訊いてくる。そういえば彼にはまだ伝えていなかった。あのニーナがここまで親しげに話し掛けてきたとなれば、確かに驚くのも無理はない。
「ニーナはね。ピンクが一年生の頃、ポップス科の同期だったんだよ」
 あの潰れかけのポップス科からブライダーが? ニーナが初めて注目を集めたのはまだ俺が入学する前の話だった。ブライダーといえば大抵は声楽科や器楽科、作曲科といった花形の学科から生まれる。学生数が少なければライブ等の成績を上げる機会も当然減ってくるわけで、彼女のポップス科での偉業はまさに前代未聞だったらしい。俺はミューボウルに入って当時二年生だったピンクとすぐ出会ったが、そのときニーナは既に器楽科へと異動してしまっていた。当時ブライダー一位だった四年生のオオカミの学生からその座を奪うと、それから彼女の話題は大学中で絶えなくなった。今日までその地位を維持し続けているというのだから、その実力は計り知れない。
 ニーナはケグを見て言う。
「あんた、見たことあるね。ミニコンサートの動画、ミューボウルオンラインで出回ってたよ」
 ミューボウルオンラインとはその名の通り、ミューボウル生にのみ使用が許されているSNSサイト。前はスチューがケグのアカウントを突き止めてくれたおかげで、彼が本棟十階の小さな講義室にいると特定できた。しかし、その利便性が今は良くない方向に働いてしまっている。仮にあの動画が他のSNSにまで拡散されて学長に関する誤解が広まってしまったとしたら、俺はもう首を斬られるだけでは済まないだろう。
「ま、まさか、外まで出回ったりしてないよな?」
 ケグも俺と同じ心配をしている。そんな彼を尻目に、ニーナは楽観的に言う。
「それはミューボウル生のネット倫理を信じるしかないかなー。ってか、あそこまできたらむしろ歌った方が事態は丸く収まったんじゃないの? せっかくピンクたちが良い演奏してくれてたのに。ねー、ピンクー?」
「リュウ、こいつを私に近付けないで」
 ピンクは俺に隠れたまま彼女を冷たく拒絶する。それに対抗し、ニーナも間髪入れずに甘えた声で言う。
「ねー私はもう怒ってないって。この白金のバッジ、あなたのおかげで手に入ったんだから。あなたの素敵なピアノ、また聴かせてよ。また一緒に連弾したいー!」
「あんたがブライダーなのは、全部あんたの実力。私みたいな足手まとい、本当はどうでもいいって思ってるんでしょ? 猫被らないで、気持ち悪い」
ニーナはそんな罵倒を一切気に留めることなく、美しく整えられた爪をいじりながら言う。
「でも気になるなぁ、私を嫌いならどうしてわざわざ来たの? てっきり器楽科に入れてくれって頼みにきたと思ったのに」
 ここに来た目的を説明する時だと思い、俺は言った。「えーと、それはね」
「それはお前がインサイドだからだ、ニーナ・ウエスト」
 直後、スチューはフリックの甲羅の上でノートパソコンを手にしながら言った。俺が何かを話そうとしていたことなんて気にも留めずに、画面に表示させているニーナの資料を見ながら彼は言う。
「なるほどな、経歴を調べてみると納得がいく。資産家の娘で、ブライダー一位の名誉もあって学費も免除。渡す依頼金はたんまりあるってこった。他人に依頼してまで優秀な奴の芽を摘もうとするなんて、相当この家から出て行きたくないみたいだな」
「あんた、何言ってんの?」
「とぼけんなよ。このカラスにブライダーの地位が奪われるのを恐れたんだろ?」
「あのね。名前も名乗らない奴の質問に答える義理、ないから」
 ニーナは埃を払うように手をぱっぱと振って、スチューを冷たく突き放す。その強気な態度に、スチューは驚いた顔で怯んでしまった。ケグはずっと彼女を睨んだままで、ピンクはいつまで経っても俺の背中から出てこない。フリックに至っては目を瞑っているし……俺たちは完全に彼女のペースに呑まれていた。
「いきなりごめんね、ニーナ。僕はリュウ。ピンクとは一年半くらい前から友達やってる。動画、観てくれたんだよね? なら推薦書の件も知ってると思う。君って優秀だから、もしかしたら少しくらい関与してるんじゃないかって思って、それで……」
 ニーナはたどたどしく言う俺を鼻で笑った。
「私が推薦書を捨てさせたって言いたいわけ? ありえない。どうして最強が雑魚を貶めなきゃいけないの?」
「ミューボウルに逃げてきたくせに!」
 ピンクは俺の翼に顔をうずめたまま、こもった声で叫んだ。しかしニーナは動じない。
「そうね。前の私なら言い返してたかもしれないけど、今は望んだら何でも手に入っちゃうんだもん。お金に、家に、技術だって最高のコーチのおかげで超効率的に学べる」
「コーチはみんな同じはずだろ?」
 この大学の講師や教授陣は数が決まっている。世界一の大学とはいえ、指導力で言えばその中で大差はないはずなのだが。
「何言ってんの? 私のコーチが一般人と同じなわけないじゃない」
 彼女は呆れたようにそう言うと、俺たちが先ほど押したインターホンを数回連打した。しばしの静寂がその場を包む。
「誰を呼んだんだ?」
 ケグが言うと、ニーナは得意気に言う。
「ピンクのよしみで、特別に紹介したげる」
 その直後、先ほどニーナが出てきた家の入口のドアが開いた。――そこを潜り抜けてきたその巨体は、ドラゴンの俺でも息を呑むほど鍛え上げられている。雄々しさを共になびかせたそのたてがみ。そして音楽人なら今や知らない者はいないその顔。その驚きはケグの表情が示していた。「おい、冗談だろ」
 近付いてくるその黒い影に惹きつけられるようにケグは言う。彼の知名度は時代の進んだ今でも未だ衰えていない。
 彼が俺たちの前に辿り着いたとき、ニーナは自慢げに言い放った。
「ブラックミールスのリーダー兼私のコーチ。音楽界の黒い彗星、アーサー・レオ・アレンよ!」
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