第34話

文字数 3,524文字

 二人で小屋を出た後、街がまだ静まり返っている内に俺たちはその図書館へと辿り着く。中へは難なく侵入できた。背の高いフェンスを飛び越え、俺の爪で正面口のカギをピッキングする。この街が都会でなく、図書館が警備会社を雇っていなかったことも幸いだった。暗い廊下を素早く駆け、数多く立っている本棚の中に唯一あった旧型パソコンの机の前に立ち、獣人用の椅子を退けてその電源を点ける。ホーム画面が出てから、俺はすぐにマウスを操作してウェブページを開く。
「こんな夜中にわざわざ調べものか?」
 ケグは俺の隣で、机に立ちながら言う。
「いいから、見て」
 俺はいくつかのページを経由して辿り着いた一本の動画を、彼に流して見せた。薄茶色の犬の女の子が、ミューボウルの講師に多額のお金を渡しているそれ。
「ニーナの暴露動画?」
 彼は言う。過去にネットで拡散され、ニーナのバロック祭の出演を取り消してしまったその動画。彼女は今の俺には想像もできない、いかにも悪そうな顔をしてそこに映っている。
 俺は言う。
「彼女はこの事件を否認してたし、俺やピンクも当然そう思ってた。この動画は多分編集で上手く作られただけなんだろうって。でもほら、見てよここ」
 俺は彼女の上半身がもっとも大きく映った場面で動画を止め、彼女の軽装から見える胸元をぐるぐるとマウスポインターで囲う。
「……そいつの胸がどうかしたか?」
「よく見てよ、赤くなってるでしょ?」
 俺がそう言うと、ケグは画面に顔を近づけて目を凝らす。それは画面越しでも、誰かに言われなければ気付けないほどの小さな特徴。俺が知る限りでの、彼女のチャームポイントの一つ。
「彼女の胸の毛は、ほんの一部分だけが赤く錆びてる。肉眼じゃ水に濡れてようやくわかるくらいだけど」
 俺が言うと、彼は俺に向かって眉をひそめる。
「どうしてそんなこと知ってる?」
 あのプールサイドでの出来事を思い出しながら、俺は動揺を悟られないように言う。
「別に。ただ、知る機会があったってだけ。俺が言いたいこと、わかるでしょ?」
 彼に問いかけるが、その顔はイマイチぴんと来ていないようすだ。
「こんな細かい違い、編集じゃ再現のしようがないってこと!」
 俺は痺れを切らして言う。ケグはその要点がようやく理解できたようすだった。
「つまり、本人だって言いたいのか?」
「考えてみて。学長はインサイドで、ユニコーンにしか使えない魔法を使う。それなら、誰かを操るような魔法だって使えてもおかしくないんじゃないか?」
「馬鹿言え。そんな魔法があるなら、動画を撮るなんて回りくどいことする必要がない」
 ケグは俺の推測に懐疑的だ。しかし、俺はあのとき読んだ種族図鑑のことを思い出してしまう。母に読んでもらった、唯一容姿が描かれていなかったその種族。
「どうしても気になることがあるんだ。学長じゃないにしても、俺らが知りもしないような魔法を使う種族が、この世界にはいるのかもしれない」
 今思えば、神隠しの洞窟で出会った学長には別人のような違和感があった。彼だけではない。この動画に映っているニーナも、ライブでプロジェクターに映ったアーサーだってそうだ。トップアーティストの、しかもニーナのコーチである彼がどうしてケグの暴露なんかしたのか。俺はケグに言う。
「なあ、教えてくれ。あの動画でアーサーが語ってたこと、どこまでが真実なんだ?」
 彼はまたつらそうな顔をする。心が痛んだが、恐らくそれを知らなければ前に進むことはできない。
 彼は言う。
「全部真実だよ。俺はミニィクっていう、唯一無二の親友を潰しちまったんだ」
「でも、そうしたくてしたわけじゃないでしょ?」
「ああ。あいつがミュージカルから降りたとき、俺が少しでも繋ぎになれば良いと思った。それがあいつにとって重荷だったって、気付いてやれなかった俺が馬鹿だった」
「君は凄いシンガーだよ。俺こそ、君の背負ってたものに気付けなかった。本当にごめん」
「謝んなって。全部俺が選んだことなんだから。……ミニィクは今、通院を繰り返してるらしくてな。少しでも負担を軽くしてやりたかった。そのためにインサイドを頼るなんて、本当、馬鹿なことしちまったよ」
「俺たちが全部解決すればいい。俺たちならきっとできるよ」
 俺の言葉で彼は微笑む。その顔を見ると俺も安心できた。
 彼はまた、神妙な面持ちになって言う。
「それにしても、どうしてアーサーがあんな動画を……」
 それは俺もずっと疑問に思っていることだ。あれほどの男が本当にインサイドなら、その情報は世界中に大事件として知れ渡る。アーティスト生命も保ってはいられなくなるだろう。彼の動画が手元にあればいいのだが、ピアニーナチャンネルのバロック祭を映した配信アーカイブは既に消えてしまっている。きっとニーナがケグに配慮してくれたのだろう。
「ニーナの映像をもっと詳しく調べよう。スチューに連絡を取る」
 俺は言って、ミューボウルオンラインの名前を検索欄に入力し、ページを開く。ログイン画面で要求されたアカウントIDは本名と誕生日を並べているだけの簡素なもので、間違えるはずはない。しかし、パスワードの空白欄をクリックしたところで、俺の手は止まった。
「どうした?」ケグは俺に問いかける。
「……パスワード、覚えてない」
「嘘だろ? ここに来てそんな情けないことあるかよ?」
 ケグは呆れたように言う。俺はむきになって、つい声が大きくなる。
「しょうがないだろ、いつもはボタン一つなんだ。くそ、文明の利器めっ!」
 ケグは俺の前に割って入り、俺の手からキーボードとマウスを奪った。
「貸してみろ」
 彼は羽を一つ一つ指のように器用に動かし、俺の入力したIDを消してから自身のそれを素早く打ち込む。画面は彼のアカウント画面に飛んだ。
「君、スチューのID持ってたっけ?」
「いや? 喧嘩して以来、まともに話せてすらない。でも、これ見てみろよ」
 彼に見せられたとあるトークグループ。そこには九十人ほどのメンバーが参加していて、彼もその一員のようだった。
「ミューボウル生、鳥類限定のグループ。どこの木が休みやすいだとか、今日の学食の卵はどこが生産地だとか、そういう情報を共有してる。多分この中に……ほら、あった」
 ケグはメンバー欄の中からスチューのアカウントをクリックし、彼とのトーク画面へと飛ぶ。
「卵の生産地がどうして重要なの?」
 俺の質問を無視し、ケグはキーボードに両翼を添える。
「送ってみるぞ」
 彼は素早くメッセージを打ち込む。
『今、リュウと一緒にいる』
 そのテキストに対する既読の印は、十秒も経たない内についた。その画面の中心に受話器のマークが現れる。
「電話、かけてきてる」
 俺は言う。ケグは何回かそのマークをクリックするが、画面に変化はない。
「このパソコン、古すぎて繋がらないっぽいな。文字でやり取りするしかない」
 彼はまたメッセージを打ち込む。
『電話には出れない。俺たちは平気。そっちはどうなってる?』
 そこからのスチューの返信は、少し間があった。
『ヤバいことになってる』
 そうしてその後に続いて送られてきた数々の画像、動画。俺たちは衝撃を隠せなかった。
「何だこりゃ!?」
 一万人いる学生の中の、およそ一割程度だろうか。ミューボウル生が暴れ出している。一部の学生が種族を問わず敷地内の各地で物を破壊し、他学生に暴力を振るっている。その様は暴動と言うに相応しいかもしれない。ミューボウル生同士が真っ向から向き合っているその映像を見る限り、中では既に対抗勢力ができあがっているようだ。
俺は凶暴になってしまった学生のようすに既視感を覚えた。これは、まるであのときのスプライト・リブだ。神隠しの洞窟へと消えてしまった彼は突如別人のように変わり、暴走して山の中を駆けていった。暴走学生のようすに世界一の音大生の姿は一切見当たらない。獣人種が牙を剥くその姿は、野生に戻ってしまったかのようにも見える。
 この緊急事態にバージン学長は一体何をしているのか。彼が仕組んだのではないかとも思考が過ったが、どうやら違う。信じられない話だけれど、スチューの情報によれば彼は既に学長を解任されている。そのポジションにはまた新たな獣人種が就き、今やその学長がミューボウルを支配している。
 俺たちがいなくなった後のたった数時間で、どうしてここまでの変化が起こり得るのか。
 スチューはテキスト越しに言う。
『早く帰ってきてくれ。みんな二人を心配してる』
その焦りはメッセージ越しでもはっきりと伝わってくる。
 俺たちは顔を見合わせる。その疑問は二人揃って変わらない。
 今、ミューボウルに何が起きている?
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