第19話

文字数 4,434文字


 バロック祭はミューボウル生にとって最も特別なイベントだ。その一夜でアザミの花を手にさえできれば、彼らの人生は大きく変わり果ててしまうのだから。
 全行程はたったの十四時間。十月二十六日の午前八時、大学敷地の中心にある巨大な広場の特設ステージにて、そのライブは始まる。ノンストップで行われるそのライブは、全学生が参加自由。特徴的なのは、教授や学長、何より多くの観客の目があるという点。ステージ上で下手をすれば、その学生の評判や成績は大きく下がってしまう。しかし当然、成績を上げてブライダーに上り詰める一世一代のチャンスとも取れる。それにも関わらず、失敗を恐れてステージに立つことを望まない学生は多くいる。世界一の音大生ですらそういった気持ちにさせてしまうのだから、この祭りの影響力は計り知れない。
 日頃の練習が何より重要になってくる。俺たちはケグを引き入れた翌朝から、ひたすら基地にこもった。バロック祭は教授への媚びをどれほど怠っても、その程度の穴は本番の数分で埋めてしまえる。学生の中には講義へ出ずにこういったライブイベントで稼いだ成績のみで卒業していく者もいるくらいなのだから、戦い方は何だっていい。
――その戦い方を、俺たちは間違えてしまったのだろうか?
 ケグを入れた五人で練習を始めてから、俺たちの演奏は完全に崩れ出していた。
 基地の中には色々な物がある。ソファ、机、床にベタ置きの二十四インチテレビ、小型の冷蔵庫、ボロボロのカーペット等、練習の際にはそれらをすべて部屋の端に寄せなければならない。でなければフリックとその体を支える大型ドラムセットを床に置けない。彼を基点として、円を書くように俺たちはそれぞれの配置につく。顔を突き合わせながら、音だけでなく互いの些細な動作すら感じ取れるよう繰り返し合奏する。今日はケグが俺とスチューの間につき、初めてボーカルを入れながらブラックミールスのエブリデイ・トゥ・シングを練習できている。
しかし、音が合わない。今まで俺のギターで乗せていたメロディラインがただ声に変わっただけなのに、どういうわけか演奏が噛み合わなくなっている。今まで合っていたはずのフリックとピンクのベースリズムも、スチューの装飾的なコードも、加えて俺のサブメロディまで。どうしてこんなことになってしまったのだろう?
「えーっと。ちょっといい?」
 俺の正面でベースギターを首から下げているピンクが、演奏を止めて言った。その視線は俺とケグの間、どっちつかずの方向に向いている。
「リュウを疑うわけじゃないんだけどさ。ちょっと、ケグの歌声……合わせにくい? かも。そりゃあずっとクラシックの世界にいたわけだし、いきなりバンドで合わせろってのも酷な話かもしれないけど……」
 その言葉に秘めた感情を、俺は何となく察した。彼女は焦っている。本番まで時間が迫る中、今まで当たり前にやっていたことができなくなっているのだから当然のことだ。
 ケグは背丈を合わせるために使っている長椅子の上で、気まずそうに翼で腰辺りを掻いていた。
「メロディの歌い方なんて忘れちまったよ。悪いとは思ってるけどさ」
 彼は言う。俺の知る限り、彼は実力を出し切れていない。あの日聴いた彼の歌声と今のそれは何もかもが違っている。合わせにくい、というのは恐らく彼自身も思っていることだろう。それは彼の表情や歌い方からも察することができる。
 俺は言う。
「ケグ、君の歌いたいように歌っていいんだ。君の歌声についていけないなら、それは俺たちの責任なんだから」
「歌いたいようにって、どうやって?」
「どうやってって……感情の赴くままに? 何ていうか今の君、俺の記憶にある君とはまったく違うんだよ」
「いつの俺を見たのか知らないが、俺の実力なんてこんなもんだ。これ以上合いそうにないなら、他の奴を探すしかないな」
 ピンクは彼の言葉に怒りを示す。
「ちょっと! そんな簡単に諦めないでよ!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ? 俺だって一生懸命やってる」
 その投げやりな態度に怒っているのは彼女だけではない。スチューはヒレで彼を指し、睨みを利かせながら言う。
「お前が来るまでは、俺たちのセッションは上手くいってたんだ。言っとくが、俺は初めからお前を信用してない。俺たちのこと滅茶苦茶にしてやろうって魂胆じゃないのか? 本当はインサイドと裏で繋がってんだろ」
「だから、悪いとは思ってるって! けどアーサーがあそこまで言ってくれたのに、わざわざ下手に歌うわけないだろ」
「どうだかな。そのアーサーの推薦書を捨てたのはどこのどいつだ?」
「俺だって色々あんだよ!」
「金か? お前にとっちゃ他人の将来より金が大事なのか? 噂通りの奴らだな、カラスってのは。下らない光物が大好きで、自分のことしか考えてない!」
 俺はそのやり取りに無理矢理割って入る。
「スチュー、それ以上は……」
 しかし俺が二人を静止するより先に、ケグはぼそりと言った。
「下らないはどっちだよ。飛べないくせに」
 その発言はまずい。少なくともこの社会では、種族の変えられない要素を侮辱することはタブーとなっている。
「確か泳ぎも駄目なんだったな。良かったな、可愛いあんよがあって。翼が羨ましいだろ? 指しゃぶりながら地べたでぺちぺち鳴らしとけっての。ああごめん、そういえばしゃぶる指もなかったな!」
 ケグは意気揚々と言い放った。スチューの顔は、みるみる内に赤くなっていく。
「てめぇ、この野郎!」
 スチューはケグに殴りかかった。まずい、間に合わない。俺が反応したときには、スチューのヒレを丸めた拳は既にケグへと届きかけていた。
 しかし、それが衝突することはない。こうなることを予期していたのか、喧嘩を傍観しているだけだと思っていたフリックは既にスチューの背後に回り込んでいて、太く固い両前脚でスチューを軽々と持ち上げていた。彼はそのまま座り込み、自身の股の間にスチューを完全に固定する。危なかった。フリックにお礼を言う間もなく、スチューは叫ぶ。
「絶対ぇ友達にならねぇ! ミューボウルオンラインのアカウントも、絶対ぇ教えてやんねー!」
「知りたくもねぇよ、低俗種」
 ケグは自身の翼で耳を塞ぎ、横を向いてスチューを見ないようにしている。どうしてこうなってしまったのだろう。音楽さえあれば俺たちはつながれると思っていたが、現実はそこまで甘くないらしい。
 俺は二人の喧嘩であたふたしている、ピンクに向かって言う。
「俺たちだけで悩んでても埒が明かない。この際使えるものは全部使おう」
ピンクは俺の意図を察したようで、恐る恐る言う。
「まさか……ニーナに頼めっていうの?」
 俺はうなずく。実力者に演奏を見てもらって、どこが悪いのかをちゃんと指摘してもらう。これ以上シンプルかつ良い方法はないだろう。
「無理無理無理! あんなに啖呵切っといてダサすぎだって! それにあいつ、一応バロック祭のトリなんだよ? こんな時期に他人の演奏見る余裕なんてないよ!」
「お願い。頼むだけでもやってみてほしい」
「えー……何でそんなマジな目付きなの……」
 今思い付く方法といったらこれくらいしかない。ニーナは気丈だったけれど、お互いに切磋琢磨することだってできるかもしれない。音楽を愛しているという点では俺たちと共通しているのだから。
「お前ら、知らねぇのか?」
 スチューは言う。暴れ疲れたのか、彼はフリックの腕の中で息を切らしていた。俺たちはその言葉の意味がわからなかった。
 彼はフリックの腕を振り払う。もうケグを殴る意志がないのを察したのか、フリック自身もすぐに彼の体を放した。
 スチューは備え付けのカウンター机の椅子にぴょんと飛び乗り、そこにあったノートパソコンを開いて素早く画面を操作する。
「惑わせたくなくて話題にも出さなかったんだけどよ。あいつ、今すごいことになってるぜ」
 俺たち全員の方向にその画面を向け、自身の体を退ける。そうして映し出されるその映像。――まったく予想外だったその配信映像に、俺たちは釘付けになった。
 真っ先に目に入ったそのタイトル「ミューボウル音大生に賄賂疑惑? 広がる不信の波紋」。行われていた記者会見で、ニーナはマイクの多く置かれた白テーブルに足を置き、叫んでいた。
『そんなこと私がするわけないでしょ!? あんたら一度でも私の演奏聴いたことあるわけ!? 警察呼んで警察ー! 誰かこの嫉妬厨どもを追い出してー!』
 その様は質疑応答と呼ぶにはあまりに騒がしい。記者たちも彼女の態度に四苦八苦しているようだったが、会見の映像と共に流れている動画に映っているのは紛れもない彼女だ。器楽科の教授と怪しい取引をしている彼女。お金を教授に渡す彼女はいやらしく笑っている。
 そうして響くアナウンサーの声。『今後、ニーナ・ウエスト氏の音楽活動は制限されます。当大学には以前浮上した学長の不正疑惑を含めた調査が行われる見通しです。……』
 その言葉が意味するもの。およそ三週間後に迫ったバロック祭までに、この制限が解除されるとも到底思えない。
「ニーナがバロック祭に出ない……」
 ブライダー一位である彼女が、まさかあんなことを?
 ピンクの心理は、まさに俺と同じらしかった。
「ニーナはこんなことしない」
 彼女は今までにない不安を表情に宿しながら言う。
「あいつはプライドの塊で、それだけでのし上がってきたような奴なの。ズルしてまで自分に追いつこうとするような奴を一番馬鹿にして見下してた。それが賄賂だなんて……」
「そうだよな。俺でも信じられない」
 俺たちの中では彼女が一番ニーナを知っている。しかし、例えそうでなくとも今回の彼女の行動は信じ難い。初めて顔を合わせたときの気丈さ、そして配信上のニーナを見たときも、そんな不正を行う人物だなんて到底想像できない。
「もし無実だとしたら、相当高度な編集が為されてるな。多分俺でも再現できない」
 スチューは言う。俺は少し考えてから言葉を返す。
「仮にこれがインサイドの仕業だとしたら……奴らは純粋な実力者を貶めたいのかも」
「疑うなら最適な奴がいるぜ。奴らに協力した張本人がな」
 スチューはケグを見ないながらも、その気を煽るように言う。ケグもまた何か言い返そうとしたが、その前に俺は口を挟んだ。
「もうやめろって。俺たちは仲間だし大人なんだから、下らないことで争うなよ。スチュー、ちょっと調べてほしいことがある」
 俺が言うと、スチューはケグに得意気な顔を送った。ケグはかなりイラついているようすだ。そんな彼に構う素振りもせず、スチューは素早くノートパソコンを操作する。
「何が知りたい?」
「多分、練習ばかりってわけにもいかないんだと思う。まずは捨てられた推薦書の学生を当たろう。もしかしたら、インサイドについても何かわかるかもしれない」
 俺がそう言うと、スチューはすぐにヒレを動かした。
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