第29話

文字数 2,647文字

 ニーナは舞台袖から急いで観客の中へと混ざり、俺たちの見える位置で自身のスマホのカメラをステージへと向けた。恐らく配信は既に始まっている。このライブで最高の演奏ができれば、事件解決へ大きな一歩を踏み出せる。
 楽器のセッティングは仲間がほとんど済ませてくれている。ステージに上がったとき、俺のやることは既にみんなの中心に立って前を向くことだけだった。
 俺は仲間たちに視線を送る。みんな覚悟はできている。フリックは唯一無表情だけれど、心はより安心できた。
 そうして観客席を見る。最初に目に入ったのは、ある狐の獣人種の客が隣の同種に耳打ちするようすだ。俺たちの燃えた基地に関して、噂は既に出回っている。あの日食堂であそこまで騒いだとなればその広がり方も通常の比でない。
 俺は人生で初めて、俺たちを見る観客たちの目が怖いと感じた。仲間たちは俺の背中を守ってくれているはずなのに、一体どうしたというのだろう。
 ペンダントに触ろうと胸に手を伸ばしたが、直前で踏みとどまった。俺もいつかは自立しなければならない。あの約束をすぐに破るわけにもいかない。気を取り直して、俺は尻尾と後ろ脚で立ち上がり楽器を構えた。俺のすぐ隣で、ケグがマイクを構えている。後ろを振り向けば他の仲間が俺たちを見据えている。俺は足でカウントを取り、腕を振り上げる。何も心配はいらない。
この演奏さえ乗り切れば、きっとすべて上手くいくのだから。

 ……この演奏さえ、乗り切れば?

 俺の弦を弾く手は直前で止まった。そして、同時に悟る。
 何をやっているんだ、俺は。
 仲間たちの視線は、突如静止した俺へと集まる。
「リュウ?」
ピンクはいち早く俺に語りかける。俺はそれに応えることができない。
 いつからだろう。俺のギターが手段に変わってしまったのは。
 ただ弾くだけで楽しかったはずだった。あの基地にみんなを集めて初めてセッションをしたとき、俺はこの上ない幸せを感じた。この大学と、音楽を愛している仲間たちさえいれば叶わない夢はない。本気でそう思って、世界一になりたいと思った。俺はいつだってそういう勇気を仲間から与えられてきた。
 音楽を知ったときだってそうだった。もしもあの日、シルビアがあの坂に座っていなかったら。そのとき彼女がラジオを持っていなかったら。そういった偶然の産物は何度も俺を救ってきた。そうして俺は彼女と踊って、音楽を愛していると通じ合った。あのときの感情を、俺は忘れてしまったのか?
 そんなはずはない。彼女たちがくれた熱は、今もずっと俺の中に残り続けている。
 いつかは自立しなければいけないとわかっている。しかし、俺一人では突破できない壁は確かにある。だから、今回だけ。
 俺はシルビアと踊ったときの、あの熱を思い出す。壊れた街灯は今や本物のスポットライトに置き換わっているけれど、あのときの空気感は唯一無二だった。夜の中に二人、彼女の薄黄色の鱗は光に溶けて、ロックと共に渦巻いていき――。
 観客たちは何も始めない俺たちを見てどよめき出しているが、気にしない。俺たちは俺たちの演奏をすればいい。俺は足でカウントを取り、腕を振り上げる。奏でる旋律は、曲の決まりきった冒頭なんかじゃない。
 俺は目を瞑り、思うがままに弦を弾いた。仲間たちの顔は容易に想像できる。練習とはまったく違う音楽が本番のステージを包んでいるのだから、戸惑わないはずがない。しかし、唯一だ。俺は背後から唯一、この無茶苦茶な行動に対応できる輝きの視線を感じ取っていた。
「来い、フリック。……来い」
 俺はほんの一瞬振り向き、彼を見やった。予想通りの目だ。無ではない、驚きと期待に満ちた目。彼と出会った日のことを思い出す。二限終わりの人気の多い講義室で、彼は俺が不意に叩いた机のリズムに乗ってくれた。いつしか周りには観客が集まり、俺たちの席はライブステージへと変わっていった。彼をあの基地に誘ったきっかけはそれだ。あの日から俺が抱く彼への信用は生半可なものではなくなった。
 いつだって無茶に応えてくれた。俺は知っている。ケグを入れて演奏が崩れ出したとき、彼は顔こそ無表情だったけれど、バンドを一番に支えようとしてくれていた。その崩れすらも演出のように聴こえてしまう魅力が、彼の打ち出すグルーヴにはあった。
ジャズプレイヤーに言葉はいらない。彼らは音で語り合う。フリックはまさにその言葉の体現者だ。
 俺たちはきっと、初めから遠慮する必要なんてなかった。彼なら俺たちの揺らぎをすべて受け止めてくれる。その揺らぎは結晶になって、俺たちだけのエブリデイ・トゥ・シングを形作ってくれる。
 ステージがしばらく俺のソロに包まれ、観客がようやく空気の流れを掴み盛り上がり出したとき。背後から、彼の深いバスドラムの音が聴こえた。思わず笑いが込み上げてくる。やはりあのときの講義室にいたフリックは、まだ彼の中に生きている。
「おい、どういうつもりだ?」
 アドリブで紡がれていく演奏の中、ケグは俺の隣で言う。俺は感情を包み隠さず彼に言った。
「好きにやってくれ。俺たちならお前を受け止めてやれる。後のことなんて、考えなくていい」
 そのときケグが俺へと向けた視線は、心地良かった。当然驚きは混じっているけれど、まるで見たことのないものを見ているかのような。
 俺はギターを振り上げ、観客を煽る。フリックは独特のリズムを打ち出し、そのアドリブへ的確について来てくれる。会場のボルテージは上がり出している。それに連れ、ケグの顔もどんどんと決意めいたものへと変わっていっている。
 やがて、ピンクとスチューも演奏の波に乗り出した。やはり俺の思った通りだ。俺は振り向き、二人に視線を送る。二人はこの状況に覚悟を決めたようすで、俺の顔を見ずに各自の楽器へと意識を集中している。ニーナの指導を受けたあの時間は確かに活きている。あの地下室で曲の基礎的なアンサンブルを徹底的に奏でたおかげで、自由が利いている。フリックの支えもあるのだから最早心配はない。あとはケグがこの流れに乗るのを待つだけだ。彼が俺たちの音を掴み、その個性をふんだんに発揮してくれるのを。
 その心配すら、もう必要ないようだった。
 ケグは既に目を瞑っている。音楽へと溶け込み、この空間にある熱の一部になろうとしてくれている。……いや、一部なんてものではない。彼の内側から生まれる熱は、この場にあるすべての心を燃やしてしまうかのような激しさを秘めていて――
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