第25話

文字数 3,738文字


――彼女の家のダイニングで。俺たちは絶景を目にしていた。
 絢爛な机を囲む俺たちの前に並べられた料理の数々は、どれも物語の中でしか見たことのないような代物だった。建築物のように皿の上で佇む貝、ソースで美しい線を描くシュリンプ、見たことのないおしゃれな葉っぱが添えられた巨大なローストビーフ、値段が想像も付かない高級ワインに、フルーツとチョコ、クリームとハーブの合わさった芸術作品のようなケーキ。彼女の家に着いて間もなく、俺たちは周りに絵画や暖炉の見えるダイニングに案内され、それらを振る舞われた。その光景が信じ難く、俺は思わず彼女に訊く。
「本当に、毎日こんなの食べてるの?」
 彼女は上座に座り、料理に目を輝かせる俺たちを優しい顔で見つめている。
「そう。私だけの特権。ブライダー一位、ニーナ様だけの専属シェフ」
ニーナの後ろにあるキッチンの中に立つキートンと紹介された爬虫類のシェフが、俺たちに向かってお辞儀をする。彼はニーナの身の回りの世話をほとんど請け負っているらしく、この埃一つない部屋と豪華な食事を見ても、その腕は相当なものだと容易に感じられる。
ニーナが促すより先にスチューはナイフとフォークを手に持ち、既に食事に手をつけていた。
「学食なんて食ってたのが馬鹿みたいだぜ。いやまあ、俺はあそこのカレーも好きだけど。でもこれ、美味すぎる!」
 彼のようすを見るフリックの目は珍しく輝いていた。ニーナはまた優しい声で言う。
「気に入ってくれて良かった。毎日一人で食べててもつまんないんだもん。みんな、遠慮せずに食べ始めて良いからね」
 その言葉を皮切りに、様子を伺っていたケグとフリックも同時に料理を口に運び始めた。彼女は自身のそれには手を付けず俺たちを見守っているだけだ。ピンクはそんな彼女に不信の目を向ける。
「どういうつもり?」
「あら。困ってる人を助けるのって、当然のことだと思ってたけど」
 彼女はピンクの言葉を軽くいなすと、今度は俺たち全員に向かって言った。
「みんな災難だったよね。落ち着くまではずっとここにいていいから」
「っしゃー! ニーナ様最高ー!」
 スチューは叫び、ヒレに持っていたナイフとフォークを高く上げる。対照的に、ピンクは煮え切らない表情で料理をつまみ始めた。どちらの気持ちもわかるような気がしたが、個人的な問題として今はあのつらい出来事を忘れたかった。フォークを握るように手に取り、まず目の前にあった貝の料理から手を付ける。
 時間はあっという間に過ぎ、外は暗闇へと変わって静まり返る。食後に自由時間となった後、俺は一人広い庭に出てプールサイドへと座り、夜風に当たった。他の仲間は浴室や寝室を案内された後、ことを済ませて早々に眠ってしまった。このざわつくばかりの胸を思うと、俺はどうしても眠れる気がしない。気持ちを落ち着かせようと深呼吸をしても、鼻には秋の自然とプールの心地の良い匂いを感じるのに、ざわめきは治まらない。
 やはり、俺は一人では何もできない。昔からそうだった。何か困っても、大抵のことは母さんが手を差し伸べて助けてくれた。外の世界にひとりでいてつらかったとき、シルビアが俺を救いに来てくれた。今だってそうだ。あの仲間たちに何度助けられてきたことか。このペンダントも例外ではない。母さんは今でもずっと俺の心を救い続けてくれている。
「良いでしょ、プール」
 背後から声がする。振り向くと、ニーナは家の光が差し込むガラス張りの扉から、既に俺の方に向かって歩いて来ていた。
「でもね、毎日泳いでると飽きるんだ。誰かと一緒に過ごせてたら、また違った気持ちだったのかも」
 彼女は俺の隣に立ち、しゃがみ込む。上は胸元の開いたブイネックの白シャツ一枚、下はほとんど下着のままで靴下すら履いていない。そんな無防備な状態で、彼女は無邪気に言った。
「それ、どうやって座ってるの? 股関節痛くない?」
 俺の座り方は犬の自然種に近い、いわば狛犬座り。彼女は両手をプールサイドに付きしゃがみながら股を広げ、俺の座り方の真似しようとしている。俺はそのようすから目を逸らしながら言う。
「俺、ドラゴンだし。確かに獣人種にはつらいかも」
 彼女はぷるぷると震えながらしばらくその体勢を保っていたが、やがて弾けるように大の字で寝転がった。
「無理!」
 シャツが捲れ、白と薄茶色の毛に包まれた彼女のへそが晒される。俺はまたそこから目を逸らす。
彼女は勢いよく起き上がり、俺の隣に寄ってその足をすねまでプールにつける。彼女の足が交互に揺れると共に、水面が揺れる。そこに映っていた二人と月の姿が崩れる。静かな世界に響く水の音は、今や俺たちの周りを支配している。
光の中では黄金にすら見えた彼女の毛は、暗い中ではむしろ黒のようにも見える。俺が元々想像していた気丈なニーナ・ウエストの姿は、その優しい顔にもう見当たらない。
「ニーナ、何ていうかすごく…………変わった? 会ったの二回目だし、気のせいかもしれないけど」
「そう見える?」
 ニーナは吸い込まれそうなほどまっすぐな目で俺を見つめてくる。俺はまた彼女から目を逸らしてしまう。
彼女は足を揺らし、水面に映る俺たちを何度も崩しながら言う。
「そうね。肩の荷が下りたのかも。バロック祭で最高の演奏しなきゃって、毎日練習ばかりだった。今はもう一週間もピアノ触ってない。でもね、気持ちは人生で一番穏やかだよ。あなたたちがここに来てくれて、すごく嬉しいって思ってる。みんなひどい目に会ったのに……私って嫌な奴かな?」
――信じられるだろうか? こんな彼女が、大学内で不正を行っていたなんて。
「君の、あの動画……」
 気持ちが先行して、俺はそれを口に出してしまう。まずいと思ったが、彼女も俺の言いたいことがすぐに思い当たったようだった。
「やっぱり信じられない? でもね、自分と両親にも誓って言えるよ。あれは私じゃない。私が上に行くなら、お金を使うよりその場で一曲弾いた方が絶対早いもん。どうやったのかはわからないけど、たぶん私を嫌いな人が編集でどうにかしたんじゃないかな。それにしたってすごい技術だけど」
 それを彼女の口から聞けて安心する自分が、俺の中には確かにいた。
「ピンクも君のことを信じてたよ。俺もあの動画は信じられないって思う」
「そう? なんか、嬉しいかも」
 彼女がそう言ってから、沈黙が流れた。彼女に言うべきことがわからない。招いてくれたことへの感謝だとか、今の君は俺の目にどんな風に映ってるだとか、この場で言うにはどれも適さないような気がして、俺は結局何気ない話を振った。
「ピンクからずっと聞かされてた。君がいなくなって、ポップス科は無くなる寸前だって」
「あんなとこ、滅びちゃえばいいのよ。じゃなきゃずっとピンクが浮かばれない」
「君はピンクをどう思ってるの?」
「嫌いね。でも好きなところもある。よくわかんない」
 ピンクからニーナについて数々の文句は聞いてきたけれど、その確執が生まれたきっかけについては俺でも知らない。ピンクに訊きたくても訊けないでいたことを、彼女は語ってくれる。
「あの子は遠くから引っ越してきて、中学から私の通ってたピアノ教室に入ってきたの。悔しいけど、当時は私なんかより全然上手かったよ。最高のプロになると思った。彼女みたいにカッコよく弾けたらどんなに幸せだろうって思って、だから同じ大学を目指したのに……」
「彼女はポップス科を選んだ」
 ニーナは頷く。彼女の声には怒りが表れ始めている。
「ピンクは器楽科に行って、世界一のピアニストを目指すべきなのに……訊いてみたら『ピアノだけじゃつまんない』って言うんだもん、信じられる? 何度も器楽科への編入を誘った。でも彼女はギターとかボーカルとか他の楽器の練習ばかりし始めて、馬鹿みたいにピアノだけ練習してるのは私だけになって……だから、追い抜いてやった。成績もトップにして、誰にも文句を言わせずにポップス科を出て行ってやったの。それでもピンクは何も言い返してこなかった。そういうところが嫌い。自分の可能性を捨ててまでやりたいことをやるなんて、人生において必要?」
 ピンクは気まぐれでマイペースなところがある。それが彼女の個性であり長所とも言えるけれど、そういった性分がニーナとは合わなかったのかもしれない。
「じゃあ、好きなところはどこ?」
 俺がニーナに訊くと、彼女は萎んだように言う。
「そういうところよ。そういう常識に捉われない姿勢に私は憧れてた。あいつは、私がプロになるのが怖くてこの大学に逃げてきたって思ってるみたいだけど、違う。私はあいつから無い部分を学びたかった。敵わないところなんて、まだまだたくさんあったのに」
「なんか、喧嘩中の姉妹を見てるみたい」
「茶化さないでよ。真剣なんだから」
「ある意味君とは似てるかも。俺もピンクとはたくさん喧嘩してきた。でもその度に仲直りしてきてるし、親友の君にできないはずがないよ」
「本当? ……ちょっと勇気出たかも」
 彼女は俺の横で微笑む。俺はどうして、また目を逸らしてしまうのだろう。
「そうね。似てるって意味では、あなたも結構無理してたんじゃない?」
「…………」
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