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文字数 3,738文字
泥の中から浮かび上がるかのような気だるさを覚えながら、意識が覚醒する。
ゆっくりと瞼をあげると、目の前には見慣れた容貌がこちらを覗き込んでいた。不思議な色合いの双眸と目が合うと、明らかに安堵した様子を見せる。
「大丈夫か?」
今まで聞いたことがないような優しい声をかけてきた。
彼の背中には白い天井があり、自分がベッドに寝かされているのがわかった。わずかに薬品のにおいがするこの部屋には何度かお世話になったことがあるので、覚えがある。
私、なんでメディカルルームに……?
そう疑問を感じたところで記憶が戻ってきて、意識を失う前に体調不良だったことを思い出した。
「お前、倒れたんだぞ」
「……倒れた?」
おうむ返しの声は、自分でもわかるくらいにかすれていた。
倒れる前に感じていた吐き気と頭痛は消えたが、倦怠感が全身にまとわりついている。腕を上げるのすら億劫だ。
上半身を起こそうとしたのだが、身体はベッドにぬい止められているかのように動いてくれなかった。
そっか。私、倒れたんだ……。
体調不良で倒れるのは初めてのことだ。今まで、こんなことなかったのに。確かに最近は無理をしていたかもしれない。
「まだ顔色が悪いな。無理していたんだろ。しばらくはゆっくりしたほうがいい」
珍しく優しくしてくれる。目の前で倒れたから、気を遣っているのだろう。
「ごめん、もう大丈夫だから……」
「大丈夫じゃないだろ。いいから寝てろ」
起き上がろうとしたのを止められ、シドはベッドから離れていった。
同じ部屋に医師がいたらしく、彼が「目を覚ました」と報告しているのが聞こえた。
「わかりました。授業が始まっていますけど、教室に戻りますか?」
「いえ。少し話をさせてもらえないですか?」
「なら、私は席を外しましょう。人の話を聞くのは趣味ではありませんので」
椅子の軋む音が聞こえる。どうやら立ち上がったようだ。足音が遠ざかり、ドアが開かれ、常駐している医師の気配が消える。
再びシドが姿を現し、近くに椅子を置いて座った。
「あの医師の話では、睡眠不足らしい。栄養も足りていないと言っていた。お前のことだから、睡眠も食事もそっちのけで就職活動をしていたんじゃないのか?」
「……」
まさにそのとおりで、なにも反論できない。
沈黙していると、シドは「はぁ」と大きくため息をついた。
「だから、俺の会社で雇ってやるって言ってるだろ? もう泣いてすがらなくてもいい。お前がただうなずくだけで、内定が決まるんだ。悪い話じゃない」
シドの話は魅力的だとは思う。けれど、やりたいことがあるリズはうなずくことができなかった。
首を横に振ると、シドがむっとした表情をした。
がばっと立ち上がり、ベッドに手をついて顔を近づけてくる。
「なんで、断るんだ! そんなに俺が嫌いなのか!」
「……違う。そうじゃない」
「じゃあ、どうしてそんなに頑なに断る!?」
「私には……やりたいことがあるの」
「やりたいこと? それはなんだ?」
リズの言葉に少しだけ冷静さを取り戻したのか、シドが静かに訊ねてきた。
「――あんたには関係ない」
きっぱりと言い切ると、シドがにらみつけてきた。整った顔でにらまれると、えもいわれぬ迫力があるが、リズは慣れているために怖いとは感じない。
「シドは私が嫌いなんでしょ? 私のことを嫌ってる人には、そんなことまで教えたくない」
「違う!」
シドは慌てた様子で叫んだ。
「俺はお前のことが――――」
なにかを言いかけたところで、がらり、とドアが開かれた。
シドがハッと我に返ったように振り返る。リズも少しだけ頭を上げて見てみると、医師の先生だった。
とっくに定年を迎えているのだが、腕の良さから再雇用されているという噂を聞く。
少し寂しくなった頭を撫でながら、こちらに向かって歩いてきた。
「病人に向かって叫ばない。声が廊下まで届いてましたよ。彼女に必要なのは安静なのだから、うるさくするのであれば出て行ってください」
口調は淡々としているのに有無を言わせぬ迫力に満ちた声音で、言われたシドはぐっと言葉を呑み込んでリズに視線を向けた。
「動けるようになったら、授業を受けずに帰って休め」
「私も彼の言葉に賛成しますよ。担任の先生には事情を話しておきますから、もう帰った方がいい。体力が回復するまでは、ここで休んでおきなさい」
「……はい」
シドに反論しようとしたのだが、医師の先生にも言われてしまうと大人しくうなずくことしかできなくなる。
「さぁ、君は授業に戻りなさい」
そう言われ、シドはちらりとなにか言いたげにリズを見たあと、結局なにも言わずにメディカルルームを出て行った。
「君も、体調が悪いなら痴話喧嘩なんてするんじゃないよ。いいね?」
「ち、痴話喧嘩じゃありません」
「そうかい? 彼は君を抱えて、ここに駆け込んできたんだよ。ものすごく血相を変えてね。てっきり特別に親しい仲なのかと思ってたけど、違うのかい?」
特別に親しい仲って、もしかして付き合ってると思われたのだろうか?
「――違います。親しくなんてありません」
医師の言葉の意味を理解した瞬間、半ば脊髄反射のように否定した。
医師は頭をぽりぽりと掻き、「そうかい」と深く追求することなくもう一度休むように言ってカーテンを閉ざした。
静かな空間に独りきりになり、リズは先ほどの言葉を反芻する。
血相を変えて駆け込んできた……?
てっきり嫌味を言われるかと思ってたのに優しい言葉をかけてくるから、なんとなくそんな姿を想像することができた。
そりゃ、目の前で倒れられたらびっくりもするだろう。リズだって、シドが目の前で倒れたらなんとかしてメディカルルームへ連れて行こうとしたかもしれない。
普段は口を開けば嫌味しか言わないし、こっちを小馬鹿にしたような表情しかしないけど、優しい一面もあるんだなぁ……。
ちょっとだけ見直したけど、まだまだ好きになれそうにはない。
意地悪で嫌味な一面と、こちらを気遣う優しい一面。どちらが本物のシドなのだろう。
どっちともって可能性もあるけど。
そう思いながら目を閉じると、また泥に沈むように眠った。
――お父さん!
そう呼ぶと、自分とどこか似たような面差しが振り返る。
おいで、と両手を広げられ、その大きな胸に飛び込むと抱き上げられた。
視界が一気に高くなり、反射的にお父さんの頭に手を回す。
きゃっきゃ、と楽しく笑うと、お父さんは嬉しそうに目を細めた。
楽しいかい、リズ。
――うん。すごく楽しい!
お父さんは仕事が忙しくて、あまりまとまった休みを取ることができない人だった。たまに数日間の休みが取れたら、絶対に家族を旅行に連れてってくれた。
周りからは子煩悩な父親で知られ、妻を愛し、子供を愛した。
その父親が病に倒れたのは、リズが六歳のころだった。治療法が確立されていない難病に侵され、成功したとしても回復するとは限らない手術には多額の費用がかかると言われた。
父親はしなくていいと言ったが、母と高等学校を卒業したばかりの姉は迷うことなく手術することを選んだ。
結果、手術は成功したものの回復の兆しを見せることなく亡くなり、残ったのは多額の借金だけ。
借金を返すために思い出があふれた家を売り、母と姉は必死になって働いた。
そんな二人を見て育ったリズは、小学校の検査で自分に魔力があることを知ると、迷うことなく魔学者になる道を選んだ。
魔学者は社会的地位が高く、給与が一般人と比べて破格であること。
それに加え、魔学者になれば医療の研究をすることができる。医療研究分野へ就職し、父親の命を奪った病気を研究して治療法を確立させ、同じ病で亡くなる人を一人でも減らすことができればいいと思った。
その道へ進むために必要なのは、魔力保持者育成学校を卒業することだ。どうせなら、国内で一番の名門とされている学校を卒業する方が就職には有利だと考えた。
だから、迷うことなく国内で一番の名門であるクロウリー魔力保持者育成学校を受験し、高い倍率の中で合格を勝ち取り、入学してからも勉学に励んで優秀な成績を修めた。
五年近くの年月をすべて魔学者になるために捧げた。それも医療研究分野の魔学者になるためにだ。
リズ。
幼いころに聞いた父親の声が脳裡にこだまする。
優しい人だった気がする。
もう記憶は薄れてしまって、写真で顔は思い出せても、声が思い出せない。
優しく笑う人だったらしい。
ここで妥協すれば、がんばった五年間が無駄になる。だから、研究分野のないマクファーレングループには就職できない。
希望するのは、医療研究分野がある会社。
父親の命を奪った難病を研究できる会社。
お母さん、お姉ちゃん。
もうちょっと待ってて。
魔学者になったらたくさん稼いで借金を返して、そしてあの不治の病を治せる病気にしてみせるから。
だから、もうちょっと待ってて――……
ゆっくりと瞼をあげると、目の前には見慣れた容貌がこちらを覗き込んでいた。不思議な色合いの双眸と目が合うと、明らかに安堵した様子を見せる。
「大丈夫か?」
今まで聞いたことがないような優しい声をかけてきた。
彼の背中には白い天井があり、自分がベッドに寝かされているのがわかった。わずかに薬品のにおいがするこの部屋には何度かお世話になったことがあるので、覚えがある。
私、なんでメディカルルームに……?
そう疑問を感じたところで記憶が戻ってきて、意識を失う前に体調不良だったことを思い出した。
「お前、倒れたんだぞ」
「……倒れた?」
おうむ返しの声は、自分でもわかるくらいにかすれていた。
倒れる前に感じていた吐き気と頭痛は消えたが、倦怠感が全身にまとわりついている。腕を上げるのすら億劫だ。
上半身を起こそうとしたのだが、身体はベッドにぬい止められているかのように動いてくれなかった。
そっか。私、倒れたんだ……。
体調不良で倒れるのは初めてのことだ。今まで、こんなことなかったのに。確かに最近は無理をしていたかもしれない。
「まだ顔色が悪いな。無理していたんだろ。しばらくはゆっくりしたほうがいい」
珍しく優しくしてくれる。目の前で倒れたから、気を遣っているのだろう。
「ごめん、もう大丈夫だから……」
「大丈夫じゃないだろ。いいから寝てろ」
起き上がろうとしたのを止められ、シドはベッドから離れていった。
同じ部屋に医師がいたらしく、彼が「目を覚ました」と報告しているのが聞こえた。
「わかりました。授業が始まっていますけど、教室に戻りますか?」
「いえ。少し話をさせてもらえないですか?」
「なら、私は席を外しましょう。人の話を聞くのは趣味ではありませんので」
椅子の軋む音が聞こえる。どうやら立ち上がったようだ。足音が遠ざかり、ドアが開かれ、常駐している医師の気配が消える。
再びシドが姿を現し、近くに椅子を置いて座った。
「あの医師の話では、睡眠不足らしい。栄養も足りていないと言っていた。お前のことだから、睡眠も食事もそっちのけで就職活動をしていたんじゃないのか?」
「……」
まさにそのとおりで、なにも反論できない。
沈黙していると、シドは「はぁ」と大きくため息をついた。
「だから、俺の会社で雇ってやるって言ってるだろ? もう泣いてすがらなくてもいい。お前がただうなずくだけで、内定が決まるんだ。悪い話じゃない」
シドの話は魅力的だとは思う。けれど、やりたいことがあるリズはうなずくことができなかった。
首を横に振ると、シドがむっとした表情をした。
がばっと立ち上がり、ベッドに手をついて顔を近づけてくる。
「なんで、断るんだ! そんなに俺が嫌いなのか!」
「……違う。そうじゃない」
「じゃあ、どうしてそんなに頑なに断る!?」
「私には……やりたいことがあるの」
「やりたいこと? それはなんだ?」
リズの言葉に少しだけ冷静さを取り戻したのか、シドが静かに訊ねてきた。
「――あんたには関係ない」
きっぱりと言い切ると、シドがにらみつけてきた。整った顔でにらまれると、えもいわれぬ迫力があるが、リズは慣れているために怖いとは感じない。
「シドは私が嫌いなんでしょ? 私のことを嫌ってる人には、そんなことまで教えたくない」
「違う!」
シドは慌てた様子で叫んだ。
「俺はお前のことが――――」
なにかを言いかけたところで、がらり、とドアが開かれた。
シドがハッと我に返ったように振り返る。リズも少しだけ頭を上げて見てみると、医師の先生だった。
とっくに定年を迎えているのだが、腕の良さから再雇用されているという噂を聞く。
少し寂しくなった頭を撫でながら、こちらに向かって歩いてきた。
「病人に向かって叫ばない。声が廊下まで届いてましたよ。彼女に必要なのは安静なのだから、うるさくするのであれば出て行ってください」
口調は淡々としているのに有無を言わせぬ迫力に満ちた声音で、言われたシドはぐっと言葉を呑み込んでリズに視線を向けた。
「動けるようになったら、授業を受けずに帰って休め」
「私も彼の言葉に賛成しますよ。担任の先生には事情を話しておきますから、もう帰った方がいい。体力が回復するまでは、ここで休んでおきなさい」
「……はい」
シドに反論しようとしたのだが、医師の先生にも言われてしまうと大人しくうなずくことしかできなくなる。
「さぁ、君は授業に戻りなさい」
そう言われ、シドはちらりとなにか言いたげにリズを見たあと、結局なにも言わずにメディカルルームを出て行った。
「君も、体調が悪いなら痴話喧嘩なんてするんじゃないよ。いいね?」
「ち、痴話喧嘩じゃありません」
「そうかい? 彼は君を抱えて、ここに駆け込んできたんだよ。ものすごく血相を変えてね。てっきり特別に親しい仲なのかと思ってたけど、違うのかい?」
特別に親しい仲って、もしかして付き合ってると思われたのだろうか?
「――違います。親しくなんてありません」
医師の言葉の意味を理解した瞬間、半ば脊髄反射のように否定した。
医師は頭をぽりぽりと掻き、「そうかい」と深く追求することなくもう一度休むように言ってカーテンを閉ざした。
静かな空間に独りきりになり、リズは先ほどの言葉を反芻する。
血相を変えて駆け込んできた……?
てっきり嫌味を言われるかと思ってたのに優しい言葉をかけてくるから、なんとなくそんな姿を想像することができた。
そりゃ、目の前で倒れられたらびっくりもするだろう。リズだって、シドが目の前で倒れたらなんとかしてメディカルルームへ連れて行こうとしたかもしれない。
普段は口を開けば嫌味しか言わないし、こっちを小馬鹿にしたような表情しかしないけど、優しい一面もあるんだなぁ……。
ちょっとだけ見直したけど、まだまだ好きになれそうにはない。
意地悪で嫌味な一面と、こちらを気遣う優しい一面。どちらが本物のシドなのだろう。
どっちともって可能性もあるけど。
そう思いながら目を閉じると、また泥に沈むように眠った。
――お父さん!
そう呼ぶと、自分とどこか似たような面差しが振り返る。
おいで、と両手を広げられ、その大きな胸に飛び込むと抱き上げられた。
視界が一気に高くなり、反射的にお父さんの頭に手を回す。
きゃっきゃ、と楽しく笑うと、お父さんは嬉しそうに目を細めた。
楽しいかい、リズ。
――うん。すごく楽しい!
お父さんは仕事が忙しくて、あまりまとまった休みを取ることができない人だった。たまに数日間の休みが取れたら、絶対に家族を旅行に連れてってくれた。
周りからは子煩悩な父親で知られ、妻を愛し、子供を愛した。
その父親が病に倒れたのは、リズが六歳のころだった。治療法が確立されていない難病に侵され、成功したとしても回復するとは限らない手術には多額の費用がかかると言われた。
父親はしなくていいと言ったが、母と高等学校を卒業したばかりの姉は迷うことなく手術することを選んだ。
結果、手術は成功したものの回復の兆しを見せることなく亡くなり、残ったのは多額の借金だけ。
借金を返すために思い出があふれた家を売り、母と姉は必死になって働いた。
そんな二人を見て育ったリズは、小学校の検査で自分に魔力があることを知ると、迷うことなく魔学者になる道を選んだ。
魔学者は社会的地位が高く、給与が一般人と比べて破格であること。
それに加え、魔学者になれば医療の研究をすることができる。医療研究分野へ就職し、父親の命を奪った病気を研究して治療法を確立させ、同じ病で亡くなる人を一人でも減らすことができればいいと思った。
その道へ進むために必要なのは、魔力保持者育成学校を卒業することだ。どうせなら、国内で一番の名門とされている学校を卒業する方が就職には有利だと考えた。
だから、迷うことなく国内で一番の名門であるクロウリー魔力保持者育成学校を受験し、高い倍率の中で合格を勝ち取り、入学してからも勉学に励んで優秀な成績を修めた。
五年近くの年月をすべて魔学者になるために捧げた。それも医療研究分野の魔学者になるためにだ。
リズ。
幼いころに聞いた父親の声が脳裡にこだまする。
優しい人だった気がする。
もう記憶は薄れてしまって、写真で顔は思い出せても、声が思い出せない。
優しく笑う人だったらしい。
ここで妥協すれば、がんばった五年間が無駄になる。だから、研究分野のないマクファーレングループには就職できない。
希望するのは、医療研究分野がある会社。
父親の命を奪った難病を研究できる会社。
お母さん、お姉ちゃん。
もうちょっと待ってて。
魔学者になったらたくさん稼いで借金を返して、そしてあの不治の病を治せる病気にしてみせるから。
だから、もうちょっと待ってて――……