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文字数 4,788文字
……寒い。
凍えた指先に自分の息を吹きかけながら歩くリズは、不夜城である街まで来ていた。
ここにはシドと一緒に買い物に来た。メインストリートの一等地にある高級ブランド店で、好きなのを買ってやると言われて一生懸命断った記憶が甦ってくる。
その店の前にさしかかり、自然と足を止める。リズでも知っているような世界展開しているブランド名が掲げられ、店の中は煌々とした明かりが灯されていた。
けれど、そのネオンはリズの心を明るく照らしてはくれない。
暗く沈んだリズの目には、明るい街並みの光もくすんで見えた。
「はー」
すっかり冷えきった指先に、再び自分の吐息をかけながら歩く。
冬に突入した夜にも関わらず、コートも羽織らずに歩いているリズの姿は周囲から浮いており、すれ違う人たちに奇異の視線を向けられた。
身体中が冷えきり、指先なんてもう感覚がなくなってしまっている。
どこかのお店に入って暖を取ることも考えたのだが、財布を持っていないので入るのをためらってしまう。
バイト先に行くことも同じく考えたが、電車に乗るための電子カードすら持っていないため、早々に諦めた。歩いて行くには遠すぎる。
ただ、行くあてもなく黙々と歩き続けていると、頭が少し冷静になってきて、心の中に後悔が芽生えてきた。
あのとき、シドは『俺の話を聞いてくれ』と言っていた。けれど、リズは自分の一方的な感情で部屋を飛び出してしまった。
なにか、理由があったのかな……?
ずっとリズを傷付けるために演技をしていたのだとしたら、大した役者だ。将来は名優になれるかもしれない。
けれど、そんな雰囲気は微塵も感じなかったし、シドはそんなに器用そうにも見えない。
帰ったほうがいいのかな?
そう思って、反射的に自分が歩いてきた道を振り返る。
あんなことを言って出てきてしまった以上、戻りづらい気持ちがないわけではない。
でも、シドになにか言い分があるのであれば、それをきちんと聞いてからのほうがよかったのかもしれない。
服のポケットから携帯を取り出して、時刻を確認する。
「八時……」
二時間半くらい歩き続けている。
シドは追いかけてこない。こんなに人がたくさんいる街中から、リズ一人を見つけるのは至難の業だろう。それに、出て行くと言っても行き先は告げていないのだから、シドは街にいることすら知らないはずだ。
歩き出し、シドと一緒に通った道をとぼとぼと歩く。
あのときは、シドの優しさをまだ疑っていた。けど、一緒に過ごしているうちに少しずつ「いいやつだな」と思っていったのだ。
学校だけで会っているときには知らなかった優しさを知り、もっとシドのことを知りたい、仲良くなりたいと思った。
『俺も……お前と仲良くなりたいとずっと思ってた』
あの言葉は、嘘を言っているような響きじゃなかった。だからこそ、信じたのだ。
シドも同じ気持ちでいてくれているのだと思って、とても嬉しかったのに……。
一度は引っ込んだはずの涙が再びあふれてきそうになって、慌てて目をこする。人前で泣くのは、あまりにも恥ずかしい。
帰るべきなのか、帰らないほうがいいのか。
もしかして、シドは帰ってくるのではと、あの部屋で待っているだろうか。
「……」
あの――一人では広すぎる部屋で。
彼はなにを伝えたかったのだろう。改めて、「お前のことが、ずっと嫌いだった」と言うつもりだったんだろうか。
今考えれば、そんな風には見えなかったけれど。ほかに、なにか伝えたいことがあったのかもしれない。
「……戻ろう」
もう一度、シドと話をしてみよう。彼の話を聞いてみよう。
あのときのあの言葉を――信じたい。
仲良くなりたいと思っていたと言った、あの言葉を。
踵を返し、来た道を戻ろうとしたリズは、車のクラクションを聞いて反射的に道路の方へ目を向けた。
リズが歩いているメインストリートには片道二車線の道路が走っており、夜でも途切れることなく多くの車が走る。
車のクラクションを聞いて目を向けてしまうのは条件反射だ。
足を止めたリズの横に車が横付けされた。どうやら、あのクラクションはリズに対してのものだったらしい。
ガー、と助手席側のウインドウが下がり、運転席側から身を乗り出すように顔をのぞかせたのはエリックだった。
「……エリックさん?」
こんなところで会うとは思わず、驚きが隠せない。びっくりしてなにも言えずに突っ立っていると、「偶然だね」と言われた。
「そ、そうですね……」
こんな偶然が本当にありえるんだろうか、という疑問が脳裡をよぎり、はっきりと答えることができなかった。
にっこりと笑うエリックは、「もう一度会えないかなって思ってたところだったんだ」と言って、車に乗ってくるように勧めてくる。
リズは戸惑いで動けない。
そんなリズを見たエリックは、なにかを思い出したような表情をして、助手席にあったビジネス鞄の中をあさり始めた。
「そうそう。会えたら渡そうと思ってたものがあったんだ」
そう言って、一枚の紙を手渡してくる。
「?」
受け取り、文面に目を通す。
内容は、一次面接に合格し、最終面接に進んだという文章が書かれていた。
通ったんだ……。
嬉しいことなのに。夢に一歩近づいたのに。
……なんでこんなに、嬉しくないんだろう?
脳裡にシドの影がちらつく。
表情が曇ったままのリズを見て、エリックが「嬉しくないの?」と不思議そうに訊ねてくる。予想と違った反応だったようで、エリックは残念そうに息を吐いた。
「リズちゃんの喜ぶ顔が見たくて、直接渡したいなって思ってたんだけど、なんだか嬉しくなさそうだね」
「いえっ! ……そんなことないです。嬉しいです……」
最初は無理やり笑ったけれど、どんどん表情は暗くなり、声は沈んでいく。
「自分がどんな表情してるかわかる? すごく悲しくてたまらなくて、泣いてしまいたいって顔してるよ」
無意識に、右手で自分の冷えきった頬に触れる。
「……そんな顔してますか?」
「少なくとも、僕にはそんな風に見える」
ブレイスフォードの一次面接に受かった嬉しさよりも、シドの裏切りに対する悲しみのほうが自分の中で大きいことに衝撃を受ける。
いつの間に、彼はそんな存在になってしまっていたのだろうか。
「それにしても、寒くない? どうしてそんな格好なの?」
「あの……、これは……」
エリックが怪訝そうな顔で言うのは当たり前だ。この寒さでコートを着ていないのは、周囲を見る限りリズくらいだ。
うまい言葉が見つからずに迷っていると、助手席のドアが開けられた。置かれていたビジネス鞄はいつの間にか後部座席へ移動している。
「寒いでしょ? 乗って」
「え、でも……」
「シドと喧嘩でもした? 一応、幼馴染みだからあいつのことはよく知ってるつもりだし、シドのことで悩みがあるなら相談に乗れるかもしれない」
寒いのは事実だし、相談に乗ってもらえるのなら助かる。幼馴染みなら、リズが知らない彼のことだって知っているだろうから、いいアドバイスがもらえるかもしれない。
「ほら。そのままじゃ、風邪引いちゃうよ。暖かいところで話をしよう」
「……わかりました」
知らない人ではないし、ブレイスフォードで重要なポストに就いているみたいだから怪しい人でもない。大丈夫だろう。
そう判断して助手席に乗ると、シートベルトをするように言われて、言われたとおりにした。
途端に、車が急発進する。
「……」
少し乗っただけで、エリックの乱暴な運転に徐々に不安が募り始めた。
俯いていた顔を上げて運転席のエリックを見ると、街の灯りに照らされた彼の表情になにやら仄暗いものを感じてしまい、車に乗ったことを後悔してしまう。
「あの、エリックさん。私、やっぱり――――」
降ります、と言おうとしたところで、携帯の着信音が響く。思わず、びくりと肩を震わせてしまった。
聞き慣れた音楽に、すぐに鳴っているのが自分の携帯であることに気づく。
ポケットから取り出して画面を見ると、そこにはシドの名前が表示されており、出ようか出ないか迷ってしまう。
「シドから? 出てみたら?」
運転しながらエリックが言い、リズは意を決して通話ボタンを押す。
耳に当てて、「……もしもし」と言うと、『降りろ!』とシドが叫ぶのが聞こえた。
『今すぐ、その車から降りろ!』
どうして車に乗っているのを知っているのだろう。もしかして、どこからか見ていたのだろうか。
……追いかけてきてくれていた?
そう思った瞬間、嬉しさを感じた。先ほどの面接の通知を見てもなにも思わなかったのに、シドが追いかけてきていたかもしれないと思っただけで、こんなにも嬉しいなんて。涙が出てきて、思わず拭う。
『……隣りにいるのはエリックか?』
声がワントーン下がる。警戒しているような、怒っているような、そんな声音に不安がよりいっそう強くなり胸がざわつく。
「うん」
小さく答えると、『早く降りろ』と言ってきた。
『なにがなんでも、その車を降りろ。あいつは危険だ。お前の身にもしものことがあれば――――』
シドの声が途中で途切れた。エリックに携帯を盗られたからだ。
「か、返してください!」
慌てて身を乗り出して手を伸ばすと、肩を力強く突き飛ばされ、ドアに背中がぶつかる。痛みを感じて、一瞬だけ息が止まる。
通話口の向こうでシドは異常を感じ取ったらしく、何度もリズの名前を呼んでいるのが聞こえた。
「シド、元気?」
そのまま、エリックはシドと話し始めてしまった。シドが電話の向こうで怒鳴っているのが聞こえるが、なんと言っているかはわからない。
「今回も見つけちゃったな、お前の大事なもの。いつもみたいに僕に譲ってくれないかな? そりゃもう大切にするよ?」
シドがなにかを言っているが、エリックは一方的に話を進める。
「可愛い子だね。すごく一生懸命で好感が持てるよ。でも、不運だ。お前のせいで採用試験に落ち続けたんだから」
「……」
何故、それをこの人が知っているのだろう?
そんな疑問が表情に出てしまったのか、リズの顔を見てエリックがにやりと笑う。
「その情報はね、僕が君のためを思って学校に教えてあげたんだよ」
すぐにわかった。進路指導担当の先生に電話をしたのは、この人だ。
「喧嘩しちゃったんでしょ? だったら、もういらないよね? 僕がもらっても構わないよね?」
ぞくり、と背筋が震えた。嫌な予感がする。
「この子、ちょうだい」
ぴ、とまだシドがなにかを言っているのにエリックは一方的に通話を切った。
そのまま、リズの携帯を後部座席に投げてしまう。
「あ……っ!」
それを視線で追って後ろを振り返り、抗議しようとエリックのほうへ顔を向けた瞬間、突然、口をハンカチらしき布で塞がれた。
「!」
驚いて目を見開いた瞬間、薬品のような異臭を感じ、頭がぐらぐらし始める。
途端に、猛烈な眠気が襲ってきた。
身体中から力が抜け、指先一本すら動かせない。
視界が歪み、目を開けていることすら困難になる。
まっすぐに座っていることができなくなり、ドアのほうへ寄りかかった。
シド……。
助けを求めるように名前を呼ぼうとしても、口は思うように動かず、小さな吐息がもれるだけだった。
視界の端で、エリックが暗い笑みを浮かべてこちらを見ている。
「あいつに気に入られたのが、君の最大の不運だ」
意識を失う直前、そんな声が聞こえた気がした。
凍えた指先に自分の息を吹きかけながら歩くリズは、不夜城である街まで来ていた。
ここにはシドと一緒に買い物に来た。メインストリートの一等地にある高級ブランド店で、好きなのを買ってやると言われて一生懸命断った記憶が甦ってくる。
その店の前にさしかかり、自然と足を止める。リズでも知っているような世界展開しているブランド名が掲げられ、店の中は煌々とした明かりが灯されていた。
けれど、そのネオンはリズの心を明るく照らしてはくれない。
暗く沈んだリズの目には、明るい街並みの光もくすんで見えた。
「はー」
すっかり冷えきった指先に、再び自分の吐息をかけながら歩く。
冬に突入した夜にも関わらず、コートも羽織らずに歩いているリズの姿は周囲から浮いており、すれ違う人たちに奇異の視線を向けられた。
身体中が冷えきり、指先なんてもう感覚がなくなってしまっている。
どこかのお店に入って暖を取ることも考えたのだが、財布を持っていないので入るのをためらってしまう。
バイト先に行くことも同じく考えたが、電車に乗るための電子カードすら持っていないため、早々に諦めた。歩いて行くには遠すぎる。
ただ、行くあてもなく黙々と歩き続けていると、頭が少し冷静になってきて、心の中に後悔が芽生えてきた。
あのとき、シドは『俺の話を聞いてくれ』と言っていた。けれど、リズは自分の一方的な感情で部屋を飛び出してしまった。
なにか、理由があったのかな……?
ずっとリズを傷付けるために演技をしていたのだとしたら、大した役者だ。将来は名優になれるかもしれない。
けれど、そんな雰囲気は微塵も感じなかったし、シドはそんなに器用そうにも見えない。
帰ったほうがいいのかな?
そう思って、反射的に自分が歩いてきた道を振り返る。
あんなことを言って出てきてしまった以上、戻りづらい気持ちがないわけではない。
でも、シドになにか言い分があるのであれば、それをきちんと聞いてからのほうがよかったのかもしれない。
服のポケットから携帯を取り出して、時刻を確認する。
「八時……」
二時間半くらい歩き続けている。
シドは追いかけてこない。こんなに人がたくさんいる街中から、リズ一人を見つけるのは至難の業だろう。それに、出て行くと言っても行き先は告げていないのだから、シドは街にいることすら知らないはずだ。
歩き出し、シドと一緒に通った道をとぼとぼと歩く。
あのときは、シドの優しさをまだ疑っていた。けど、一緒に過ごしているうちに少しずつ「いいやつだな」と思っていったのだ。
学校だけで会っているときには知らなかった優しさを知り、もっとシドのことを知りたい、仲良くなりたいと思った。
『俺も……お前と仲良くなりたいとずっと思ってた』
あの言葉は、嘘を言っているような響きじゃなかった。だからこそ、信じたのだ。
シドも同じ気持ちでいてくれているのだと思って、とても嬉しかったのに……。
一度は引っ込んだはずの涙が再びあふれてきそうになって、慌てて目をこする。人前で泣くのは、あまりにも恥ずかしい。
帰るべきなのか、帰らないほうがいいのか。
もしかして、シドは帰ってくるのではと、あの部屋で待っているだろうか。
「……」
あの――一人では広すぎる部屋で。
彼はなにを伝えたかったのだろう。改めて、「お前のことが、ずっと嫌いだった」と言うつもりだったんだろうか。
今考えれば、そんな風には見えなかったけれど。ほかに、なにか伝えたいことがあったのかもしれない。
「……戻ろう」
もう一度、シドと話をしてみよう。彼の話を聞いてみよう。
あのときのあの言葉を――信じたい。
仲良くなりたいと思っていたと言った、あの言葉を。
踵を返し、来た道を戻ろうとしたリズは、車のクラクションを聞いて反射的に道路の方へ目を向けた。
リズが歩いているメインストリートには片道二車線の道路が走っており、夜でも途切れることなく多くの車が走る。
車のクラクションを聞いて目を向けてしまうのは条件反射だ。
足を止めたリズの横に車が横付けされた。どうやら、あのクラクションはリズに対してのものだったらしい。
ガー、と助手席側のウインドウが下がり、運転席側から身を乗り出すように顔をのぞかせたのはエリックだった。
「……エリックさん?」
こんなところで会うとは思わず、驚きが隠せない。びっくりしてなにも言えずに突っ立っていると、「偶然だね」と言われた。
「そ、そうですね……」
こんな偶然が本当にありえるんだろうか、という疑問が脳裡をよぎり、はっきりと答えることができなかった。
にっこりと笑うエリックは、「もう一度会えないかなって思ってたところだったんだ」と言って、車に乗ってくるように勧めてくる。
リズは戸惑いで動けない。
そんなリズを見たエリックは、なにかを思い出したような表情をして、助手席にあったビジネス鞄の中をあさり始めた。
「そうそう。会えたら渡そうと思ってたものがあったんだ」
そう言って、一枚の紙を手渡してくる。
「?」
受け取り、文面に目を通す。
内容は、一次面接に合格し、最終面接に進んだという文章が書かれていた。
通ったんだ……。
嬉しいことなのに。夢に一歩近づいたのに。
……なんでこんなに、嬉しくないんだろう?
脳裡にシドの影がちらつく。
表情が曇ったままのリズを見て、エリックが「嬉しくないの?」と不思議そうに訊ねてくる。予想と違った反応だったようで、エリックは残念そうに息を吐いた。
「リズちゃんの喜ぶ顔が見たくて、直接渡したいなって思ってたんだけど、なんだか嬉しくなさそうだね」
「いえっ! ……そんなことないです。嬉しいです……」
最初は無理やり笑ったけれど、どんどん表情は暗くなり、声は沈んでいく。
「自分がどんな表情してるかわかる? すごく悲しくてたまらなくて、泣いてしまいたいって顔してるよ」
無意識に、右手で自分の冷えきった頬に触れる。
「……そんな顔してますか?」
「少なくとも、僕にはそんな風に見える」
ブレイスフォードの一次面接に受かった嬉しさよりも、シドの裏切りに対する悲しみのほうが自分の中で大きいことに衝撃を受ける。
いつの間に、彼はそんな存在になってしまっていたのだろうか。
「それにしても、寒くない? どうしてそんな格好なの?」
「あの……、これは……」
エリックが怪訝そうな顔で言うのは当たり前だ。この寒さでコートを着ていないのは、周囲を見る限りリズくらいだ。
うまい言葉が見つからずに迷っていると、助手席のドアが開けられた。置かれていたビジネス鞄はいつの間にか後部座席へ移動している。
「寒いでしょ? 乗って」
「え、でも……」
「シドと喧嘩でもした? 一応、幼馴染みだからあいつのことはよく知ってるつもりだし、シドのことで悩みがあるなら相談に乗れるかもしれない」
寒いのは事実だし、相談に乗ってもらえるのなら助かる。幼馴染みなら、リズが知らない彼のことだって知っているだろうから、いいアドバイスがもらえるかもしれない。
「ほら。そのままじゃ、風邪引いちゃうよ。暖かいところで話をしよう」
「……わかりました」
知らない人ではないし、ブレイスフォードで重要なポストに就いているみたいだから怪しい人でもない。大丈夫だろう。
そう判断して助手席に乗ると、シートベルトをするように言われて、言われたとおりにした。
途端に、車が急発進する。
「……」
少し乗っただけで、エリックの乱暴な運転に徐々に不安が募り始めた。
俯いていた顔を上げて運転席のエリックを見ると、街の灯りに照らされた彼の表情になにやら仄暗いものを感じてしまい、車に乗ったことを後悔してしまう。
「あの、エリックさん。私、やっぱり――――」
降ります、と言おうとしたところで、携帯の着信音が響く。思わず、びくりと肩を震わせてしまった。
聞き慣れた音楽に、すぐに鳴っているのが自分の携帯であることに気づく。
ポケットから取り出して画面を見ると、そこにはシドの名前が表示されており、出ようか出ないか迷ってしまう。
「シドから? 出てみたら?」
運転しながらエリックが言い、リズは意を決して通話ボタンを押す。
耳に当てて、「……もしもし」と言うと、『降りろ!』とシドが叫ぶのが聞こえた。
『今すぐ、その車から降りろ!』
どうして車に乗っているのを知っているのだろう。もしかして、どこからか見ていたのだろうか。
……追いかけてきてくれていた?
そう思った瞬間、嬉しさを感じた。先ほどの面接の通知を見てもなにも思わなかったのに、シドが追いかけてきていたかもしれないと思っただけで、こんなにも嬉しいなんて。涙が出てきて、思わず拭う。
『……隣りにいるのはエリックか?』
声がワントーン下がる。警戒しているような、怒っているような、そんな声音に不安がよりいっそう強くなり胸がざわつく。
「うん」
小さく答えると、『早く降りろ』と言ってきた。
『なにがなんでも、その車を降りろ。あいつは危険だ。お前の身にもしものことがあれば――――』
シドの声が途中で途切れた。エリックに携帯を盗られたからだ。
「か、返してください!」
慌てて身を乗り出して手を伸ばすと、肩を力強く突き飛ばされ、ドアに背中がぶつかる。痛みを感じて、一瞬だけ息が止まる。
通話口の向こうでシドは異常を感じ取ったらしく、何度もリズの名前を呼んでいるのが聞こえた。
「シド、元気?」
そのまま、エリックはシドと話し始めてしまった。シドが電話の向こうで怒鳴っているのが聞こえるが、なんと言っているかはわからない。
「今回も見つけちゃったな、お前の大事なもの。いつもみたいに僕に譲ってくれないかな? そりゃもう大切にするよ?」
シドがなにかを言っているが、エリックは一方的に話を進める。
「可愛い子だね。すごく一生懸命で好感が持てるよ。でも、不運だ。お前のせいで採用試験に落ち続けたんだから」
「……」
何故、それをこの人が知っているのだろう?
そんな疑問が表情に出てしまったのか、リズの顔を見てエリックがにやりと笑う。
「その情報はね、僕が君のためを思って学校に教えてあげたんだよ」
すぐにわかった。進路指導担当の先生に電話をしたのは、この人だ。
「喧嘩しちゃったんでしょ? だったら、もういらないよね? 僕がもらっても構わないよね?」
ぞくり、と背筋が震えた。嫌な予感がする。
「この子、ちょうだい」
ぴ、とまだシドがなにかを言っているのにエリックは一方的に通話を切った。
そのまま、リズの携帯を後部座席に投げてしまう。
「あ……っ!」
それを視線で追って後ろを振り返り、抗議しようとエリックのほうへ顔を向けた瞬間、突然、口をハンカチらしき布で塞がれた。
「!」
驚いて目を見開いた瞬間、薬品のような異臭を感じ、頭がぐらぐらし始める。
途端に、猛烈な眠気が襲ってきた。
身体中から力が抜け、指先一本すら動かせない。
視界が歪み、目を開けていることすら困難になる。
まっすぐに座っていることができなくなり、ドアのほうへ寄りかかった。
シド……。
助けを求めるように名前を呼ぼうとしても、口は思うように動かず、小さな吐息がもれるだけだった。
視界の端で、エリックが暗い笑みを浮かべてこちらを見ている。
「あいつに気に入られたのが、君の最大の不運だ」
意識を失う直前、そんな声が聞こえた気がした。