文字数 9,421文字

 着替えている間に完璧に目が覚めたらしく、自室から出てきたシドは朝食のときに見たときよりしゃきっとしていた。いつもどおりの彼だ。
 先ほどは寝起きだったからなにも言ってこなかっただけで、目が覚めた今はなにか言ってくるかもしれないと身構えたりもしたのだが、結局、シドが嫌味を言うことなく街に着いた。
「……」
「どうした?」
「別に……」
 無意識に隣りを歩くシドを見上げてしまっていたらしい。視線に気づいた彼が訝しげな目を向けてくるが、何気なさを装って前を見る。
 高級住宅街を歩いているときは人通りが少なくてあんまり気にならなかったのだが、街に着いてメインストリートを歩いていると、なんだか周囲から見られているような気がして辺りを見回してみる。
 主に女性たちがこちらを見ていた。
 視線の先を追ってみると、その先には隣りを歩くシドがいた。
「……」
 見慣れているので忘れがちになるのだが、そういえば彼は人目を引く容姿をしている。
 男性の平均身長を超える長身で、すらっとしているモデル体型。その身体を包む服はセンスがよく、顔もかなり整っている。
 シドが大企業の御曹司だと知らない人ですら、容姿に引かれて視線を向けてくるのだ。
 リズは女性の目が集まってきていて居心地が悪いのだが、シドは慣れているのか気にしていない様子。これだけ見られているのだから、気づいてはいるだろうに。
 こんなやつと並んで歩いていいのだろうか……。
 そんな疑問が頭の中をよぎったとき、シドは「ここに入るぞ」と言って先に店に入ってしまった。
「え、ちょっと――――」
 止める間もなかった。
 ここはメインストリートの一等地だ。この通りに並ぶ店は、高級ブランド店が多い。
 はっきり言って、リズが持っているお金では服を一着買うのすら難しい値段の店が並んでいるはずなのだが。
 そんなところに迷うことなく入られても困る。
 止めようとしたが、シドのほうが一歩早かった。目の前で閉まった自動ドアの上にある看板を見上げると、悲鳴をあげそうになった。
 世界展開しているセレブ御用達の有名店で、リズでも知っているようなブランド名が掲げられていた。
 ……やばい。これは、本格的にやばい。
 あいつ、なんつー店に入ってくれちゃってんの。
 急いで連れ戻そうとして自動ドアをくぐると、店員が待ち構えていたのか「お待ちしておりました」と笑顔で迎えられてしまった。
「いや、私はシドを――――」
「マクファーレン様なら、あちらでお待ちでございます」
 店内の一角に連れてこられる。そこには高級感あふれるソファに座るシドの姿があり、もう一人の女性の店員がお茶を差し出しているところだった。
 奥の方から責任者とおぼしき初老の男性が姿を現し、「ご来店ありがとうございます、マクファーレン様」と挨拶されている。
 え……、もしかして顔を覚えられてんの?
 それくらい常連なの?
 ……恐ろしい。自分はここでどんな服を買わされてしまうのか。
「こちらにお座りください」
「あの……」
 戸惑いでどうすればいいか立ち竦んでいると、シドの向かいにあるソファを勧められて座る。当たり前だが店員を無視することもできない。
 シドはふんぞり返って椅子に座り、初老の男性に向かってなにかを言っている。
 リズは高級そうなカップでお茶を出されてしまい、「お、おかまいなく」と言うと、店員はにこりと笑った。
「マクファーレン様のお連れ様ですから、丁重におもてなしいたします」
「……」
 改めて、シドがマクファーレングループの御曹司であることを思い知らされる。
 なんかもう怖い。
 早く出たい。
 落ち着かない。
 そのうち、数人の店員が何着かの服を持ってきた。
 それが男性ものだったので、なんだ、自分のを買うのかと安心していたら、次は数十着の女性ものの服がやってきた。
「え……」
 目の前に続々と置かれていく服を見つめて言葉を失っていると、シドから「好きなのを選べ。買ってやる」と偉そうに言われる。
 おそるおそる値札へ手を伸ばして値段を見ると、自分が普段買っている服と桁が違う。
 ゼロの数が異様に多い。いや、多すぎる。
 ぱっと手を離して服から距離を取る。もし少しでも汚して弁償しろとか言われたら、無理だ。一着でバイト代一ヶ月分が軽く飛ぶ。
「むりむりむりむり!」
「なんでだ? 買ってやるって言ってるんだぞ」
 シドは心底不思議そうだ。
「自分のものは自分で買うから。居候させてもらってるのに、そこまでしてもらうつもりなんてないし」
「……」
「あんな部屋に住まわせてもらってるのに家事だけで家賃免除してもらって、そのうえ食費まで出してもらってるのに、洋服代まで出してもらうとか申し訳ないって言うか……」
 とにかく、と言葉を切る。
「こんな高級な服は、私には似合わないから。触るのすらためらっちゃうような服を買ってもらうわけにはいかないの。庶民には庶民にふさわしい値段の服があるんだから」
「……俺が買ってやるって言ってるんだぞ? ありがたく買ってもらったらいいだろ」
「あんたのお金じゃなくて、親が稼いだお金でしょ? 私なんかに使ったら、親御さん怒るって」
「……」
 じっとシドが見つめてきて、その目を力をこめて見つめ返していると、やがて彼は大きく息を吐く。
 手を振ると、近くで一部始終を見ていた店員が頭を下げ、服をもとの場所へ戻していく。
 せっかく持ってきてもらったのに悪いことをしたと思いながら、「あんたはここで買い物をすればいいわ。私はいつもの店に行ってくるから」と言って出口へ向かう。
「待て。俺も行く」
 シドも立ち上がり、後ろからついてくる。
「マクファーレン様。またのお越しをお待ちしております」
 なにも買わなかったのに丁寧に頭を下げられると、なんだか申し訳ない気がする。
 早足で店を出ると、やっと落ち着いた。
 はぁ、と大きく息をつく。
「こっち」
 歩き出すと、シドはなにも言わずについてきた。
 一等地の大通りから外れると、シドは眉を寄せた。彼はこんな場所には来たことないのだろう。その証拠に、物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回している。
 しばらく歩くと、やっと庶民である自分が馴染むような光景が広がってきて、リズはほっとした。やっぱり、こっちのほうが性に合っている。
 よく利用するお店が見えてきて、リズは隣りを歩くシドを見上げた。
「自分の買い物があるならしてくれば? 私はあのお店で服を買うから」
 近づく店を指差して言うと、シドはその先を追った。
 見た目はこじんまりとした店構えだが奥行きがあるため中は意外と広く、一般庶民にとってリーズナブルな価格の服が置いてある。女性客に支持を受け、国内に複数の店舗を出店しているほどの人気があり、中にはこの店の服しか着ないというコアなファンもいたりする。
 シドはこんなお店知らないんだろうなぁ、と思いながら彼の言葉を待っていると、「……荷物持ちだからついていく」と言う。
「そう? 女性向けの店だから、一緒に行ってもつまんないと思うけど」
「構わない」
「じゃあ、私が服を選んでいる間、店内にある椅子に座ってるといいよ」
 店に着き、自動ドアをくぐる。女性向けの店であるため、店内は明るくて可愛い雰囲気にまとめられていた。
 その中に入ったシドは完璧に浮いている気がしないでもないが、あえて気にしないようにして服を選び始める。
 近くにあったシドの気配が離れたため、どこかの椅子に座って待っているだろうと思い、そのまま服選びに集中する。
 ちょうど入荷があったばかりなのか、種類が豊富で選びがいがある。しかし、リズの服選びの基準はなによりも値段だ。
 好みな色合いや形の服を見つけると自分の身体に当ててみて、いいな、と思ったら価格を見る。予算が限られているため、一着にかけられる金額が決まっているのでそれをオーバーするようだったら、残念ながらそっと戻す。
 それを何度か繰り返し、予算内の気に入った服を数着ほど見つけて試着室に入って、実際に着てみる。
 試着室の鏡に映る自分の姿を見て、問題がなさそうな服を残し、似合わなかったものを戻していく。
 いつもどおりの普通の買い物をして、レジへ向かおうとしたときになにかを忘れているような気がした。なんだっけ、と考えていると「おい」と声をかけられた。
「……あ」
 すっかり忘れていた。
 振り返ると眉を寄せて厳しい顔をしたシドがいて、ずっとほったらかしにしていたから怒っているのかと思ったら、その手には女性ものの服が握られていた。
「……」
 どうやら、待っている間に見ていたらしい。
 それをすっとリズのほうへ差し出してくる。思わず受け取り、きょとんとした顔で見ると、シドは目をそらして「これを着てみろ」と言う。
「これを?」
 受け取った服に視線を落としてから、もう一度シドを見上げる。
 シドは恥ずかしさからなのかイライラしたような顔をして、「早くしろ」と言った。
 まさか服を選んでくるとは思わず、驚きでなにも言えない。
 ……こいつ、こんなやつだったっけ?
 今まで嫌われているんだとばかり思っていたのだが、本当はそうじゃないのか?
 今日は嫌味の一つも言わないし、なんだか調子が狂う。
 シドのセンスがいいのはもうわかっていることだし、着てみても損はないだろう。
 そう考え、リズは「じゃあ、これ持ってて」と自分が選んだ服をシドに押し付けて、近くにあった試着室に入る。
 着てみると、やはりシドのセンスは良かった。今まで着ていた服とは少し雰囲気が違って、大人っぽく見えるのは気のせいだろうか。シドの服を見るかぎり、落ち着いた色が好きなんだろうなぁ、とは思っていたが、着てみろと言われた服もやはり落ち着いた色だった。
 試着室のカーテンを開けると、シドは近くで待っていたらしくすぐに近づいてきた。
「着てみたけど」
 彼はリズを頭の上からつま先まで見つめ、「そういう格好も似合うな」と言ってうなずいた。
「このまま着ていけ」
「え……? これいくら?」
 服のタグのところに下がっていた値段を見ると、予算を軽くオーバーしていた。普段なら背伸びすれば買えるが、物入りの今だとこの価格は厳しい。
「いや……、これ無理。買えない」
「俺が選んだから、俺が買う」
「でも――――」
 リズが断ろうと顔を上げると、シドは近くの店員に「このまま着ていくから」と言ってタグを取らせてしまった。
「……」
 タグを取られてしまうと、もう返品はきかないから買うしかなくなる。
 シドはその間に、キラキラしたいつものカードを店員に渡して会計をすませてしまう。
「ちょっと待って。買ってもらうわけには――――」
「服が一着でも多いに越したことはないだろ。それに、この値段だから遠慮するな」
 先ほどは恐ろしい値段のブランド店だったから買ってもらうわけにはいかないと断ったが、この店の価格であればそれほど遠慮の気持ちがわき起こってこない。
 それにシドの言うとおり、今のところ服が一着でも多いに越したことはない。
「けど、家賃に食費に服までっていうのは、さすがに……」
「じゃあ、今日の夕食はカレーにしろ。それでチャラにしてやる」
「カレー……」
 シドの好物の一つであると認識しているカレーを作るだけでいいのか。ちらり、と彼を見ると顔に絶対に譲らないと書いてあるし、タグも取ってるから返品できないし、ここは折れるしかないだろう。
 せっかく、今日は口喧嘩もせずに平和に過ごせているんだし、ここで意地を張って喧嘩してしまうのも嫌だ。
「わかった」
 そう答えると、シドは満足したようにうなずいている。
「とりあえず、これは自分で買うから」
 シドに持たせていた服を受け取り、レジへと持って行く。
 会計をすませて差し出された紙袋を受け取ろうとすると、後ろにいたシドにさっと横取りをするように奪われてしまう。
 驚いていると、「今日の俺は荷物持ちだ」と言われて、そうだったと思い出す。
 こんなに積極的に荷物持ちをしてくれるとは思わなかった。
「……ありがと」
 シドに対して素直にお礼を言うのはなんだか気恥ずかしいが、ここは言っておかなければならないだろう。
 小さな謝礼の言葉はしっかりと聞こえたらしく、少し目を見開いて驚いた表情を見せた後、頭に手を置かれて下を向かされる。
「ちょっと。なにすんの?」
「こっち見るな」
「はぁ?」
 ようやく手が離れて顔を上げると、シドはすでに背を向けて歩き出していたので、慌てて後を追う。
 耳がほんのりと赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
 ……よくわかんない。
 ずっと嫌なやつだと思っていたのだが、そんなことないのだと薄々だか気づき始めたリズは、シドのことが余計にわからなくなってくる。
 嫌味を言ってきたり、こっちを馬鹿にしてきたかと思えば、ずぶ濡れの姿を見て「寒いだろ」とコートをかけてくれたり。
 嫌なやつなのか、優しいやつなのか。
 どっちが、本当のシドなのだろう?



 その後、必要なものを買いそろえたリズは、文句一つ言わずに荷物持ちをするシドとどう別れようか考えていた。
 目的の店は近づいてきているのだが、シドはリズから離れようとしない。
 意を決して、「あのさ」と声をかける。
「終わったら携帯で呼ぶから、そこらへんをぶらぶらしててくれる?」
「俺は荷物持ちでついてきているだけだから、気にせずに買い物をすればいい」
「いや……、これから行くところは、たぶんシドにはものすごく居心地が悪いと思う」
「気にしなくていい」
 目的地に着いてしまい、自動ドアが開いた瞬間、かぁっとシドの顔が赤く染まった。
 思わず、あきれのため息が出る。
「だから言ったじゃん」
「お、終わったら電話しろ……っ」
 荷物を持って慌てて逃げていくシドの姿はなんだか滑稽で、思わず笑みがこぼれてしまう。
 遠ざかる後ろ姿を見ながら笑っている自分に気づいたリズは、いけない、と表情を引き締めた。
 なんで、私があいつのことで笑わなきゃいけないのよ。
 シドのことだから近くで待っててくれるだろうけど、そんなに長い時間待たせるわけにもいかないから、早く終わらせてしまおう。
 自動ドアをくぐると、入店を知らせるアラームが鳴る。
 そこは女性向けのアンダーウェア専門店で、シドは絶対に恥ずかしいだろうし居心地が悪いだろうから店に着く前に別れようとしたのだが、彼は頑としてついてこようとしたのでいい経験になっただろう。
 でも、あんなに真っ赤になるなんて面白かったなぁ……。
 学校ではいつもすました顔をしているか、勝ち誇った笑みを浮かべている顔しか見ていないので、あんな反応をされると逆に面白い。
 一緒にいる時間が多いと、いつもと違う一面が見えてくるので楽しくなってくる。
 嫌味に応戦しないで私のほうから歩み寄っていたら、こういう一面をもっと早く見ることができたのかな。
 そんなことを考えながら買い物をして店を出ると、はっと我に返った。
 なんで私、あいつのことばっか考えてんの?
 愕然とした。今までの関係からいって、この自分がシドのことばかり考え、しかも笑ってしまうなどありえない。
 自分の中で明らかにシドに対する印象が変わってしまったことを自覚せざるをえなかった。
 携帯を取り出し、アドレスを呼び出す。まさか、シドと携帯の電話番号とメールアドレスを交換する日が来るなんて夢にも思わなかった。
 電話をかけるとワンコールで出た。
 早っ!
 まるで電話が来るのをずっと待っていたかのような早さだ。
『もしもし?』
 若干、声がうわずっている気がする。
「終わったから」
『じゃあ、近くの銅像前にいるから来てくれ』
「わかった」
 ここらへんは土地勘があるから、近くの銅像と言われてすぐにわかった。
 通話を切って言われた場所に向かって歩いていると、「あれ?」と声が聞こえた。
 しかし、それが自分に向けられたものではないと思ったリズは、そのまま歩き続ける。
「もしかして、リズ?」
 先ほど聞こえた声が自分の名前を呼んできたので、知り合いかな、と振り返ると、そこには二年前に学校を卒業していった先輩の姿があった。
「え……、ギル先輩?」
 まさかこんなところで会うとは思わなかった。
 ギルフォードは、成績優秀、品行方正で、先生たちや同級生、後輩たちにも人気が高く、リズも色々とお世話になったのだ。勉強を教えてもらったこともある。
「久しぶり。元気だった?」
 端正な顔は卒業していったときとあまり変わらないように見えたが、少しだけ大人っぽくなっているように感じた。
「お久しぶりです、ギル先輩。元気ですよ。先輩もお元気ですか?」
「このとおり元気だよ。まさか、こんなところで会うとは思わなかったな」
 ギルフォードはスーツを着てビジネス鞄を持っているので、仕事での外回りかと思われた。
 よく見てみると、後ろの方に連れらしき青年の姿がある。ギルフォードと同い年か、少し上ぐらいに見えた。
「お仕事中ですか、先輩」
「そうそう。ちょっと研究所で問題が起こって、その処理が終わって会社に帰るとこ」
「お忙しそうですね」
「忙しいけど、やりがいはあるよ。がんばったら、がんばった分だけ稼げるからな」
 ギルフォードはリズの家ほどではないけれど、実家があまり裕福ではなく、リズと同じく魔学者となって出世してたくさん稼いで家を助けるんだと常日頃から言っていた。
 リズは入学当時から貧乏人と言われてある意味有名だったので、ギルフォードのほうから声をかけられ、意気投合し、仲良くなったのだ。
「そうそう。あいつは元気か?」
「あいつ……?」
「よくお前に絡んできてたやつ。シド=マクファーレンだっけ?」
 その名前に、後ろにいたギルフォードの連れがわずかな反応を見せた。こちらのことなんて興味なさそうだったのに、シドの名前が出た途端にリズに対して興味を持ったかのような視線を向けてくる。
 リズはその目を不思議に思いながらも、ギルフォードとの会話を続ける。
「元気ですよ。色々あって、今はシドの部屋に居候中なんです」
「……は?」
 さすがにギルフォードは驚いたらしく、口を半開きにして言葉を失っている。その顔がなんだか面白くて、リズは思わず吹き出してしまった。
「なんで、そんなことになってんだ?」
「だから、色々とあったんですよ」
 リズは手短に、内定が決まらないこと、火事で寮が全焼してシドの部屋に居候することになった一連の出来事を話す。
 話し終えると、ギルフォードはやっと全容を理解して、「本当に大変だったな」と言って頭を撫でてくる。
 子供扱いされているような気がしないでもないが、彼は昔から頭を撫でてくるので抵抗する気も起こらない。
「お前、成績は優秀だっただろ?」
「まぁ。一年生のときは首席だったんですけど、二年生のときからこの前の卒業試験まではずっと次席です。最後くらいは、シドを負かしてやりたかったんですけどできませんでした」
「そんなお前が内定もらえないなんて、不思議でたまらん」
 心底そう思っているのが表情でわかった。リズもそれには同意する。
「だったら、俺が働いてる会社に推薦してやるよ」
「え……。先輩ってどこで働いてるんですか?」
 考えてみれば、ギルフォードは地方都市の研究所に就職したはずだ。こんな場所で会うはずがない。
「半年前に引き抜かれて転職したんだよ。今は、ブレイスフォードで第五研究所の副所長をしてる」
「ぶ、ブレイスフォード……」
 マクファーレングループと並ぶ大企業で、研究分野で大きくなった会社だ。
 就職するには内部の人間から推薦を受ける必要があり、リズの夢にもっとも近い会社なのだがエントリーできずにいる。
「それ、ほんとですか!?」
 こんな幸運が転がり込んでくるとは思わなかった。思わずギルフォードのスーツの袖を掴み、「推薦ください!」と迫る。
 ギルフォードはリズの肩に手を置き、ぽんぽんと叩く。
「落ち着け、リズ。お前は医療研究分野志望だろ? だったら、うちの会社が一番いいかもしれないしな。今度推薦状を学校に送るから」
「ありがとうございます、先輩!」
「まぁ、俺がするのは推薦状を書くことだけだ。そこから先はお前のがんばり次第だな」
「はい!」
「んじゃ、携帯番号とメールアドレスを交換しよう。なにかあったら連絡するよ」
 交換し終えると、ずっと黙ってリズを見ていた連れの青年が「時間だ」と短くつぶやいたので、ギルフォードは腕時計を見た。
「ああ、もうこんな時間か。じゃあ、俺はもう帰るから。推薦状は三日以内に学校に送っとく」
「はい。待ってます」
「じゃあな」
「お元気で」
「お前もな」
 ギルフォードと連れを見送っていると、再びなにかを忘れている気がして、はっとシドのことを思い出す。
「やっば!」
 慌てて待ち合わせ場所へ向かおうと身体を反転させると、「おい」と聞き慣れた低い声が聞こえた。
 思わず、顔が引きつる。
 すぐ後ろに立っていたと思われる人物を見上げると、やっぱり予想したとおりシドだった。
 表情を見ただけでわかる。ものすごく不機嫌だ。
「遅い。なにしてたんだ?」
 どうやら、遅かったことに対して機嫌が悪くなっているらしい。
「ちょっと知り合いに会って、話してたの」
「ふぅん」
 ここに来たのはついさっきのようで、相手がギルフォードであることは知らないようだ。
「買い物は終わったんだろ? 帰るぞ」
「うん。今日はカレーだったね」
「ああ」
 カレーだったら、ちまたでよく言われている隠し味を入れるのもいいかもしれないし、東洋風に米を炊くのもいいかもしれない。
 先ほどの店で買ったものをシドに持たせるのは嫌なのでそのまま自分で持ち、居候している部屋に向かって歩き出す。
 帰りもやはりシドは女性の視線を集めており、しかも荷物を持たせているリズには殺意に似た視線が向けられて、大変に居心地が悪い。
 しかし、気分は少しだけ高揚していた。
 まさか、ギルフォードがブレイスフォードで働いているとは思わなかった。しかも、推薦してくれるなんて。
 がんばらなきゃ。
 やっと夢への第一歩を踏み出すことができたのだ。ここでチャンスを掴まなくては、就職できずに田舎に帰ることになってしまう。
 それだけは、絶対に嫌だ。
 借金はまだある。新卒じゃないと就職なんて難しいし、就職経験がない人間を中途採用で雇ってくれる会社はないわけではないが圧倒的に数が少ない上に、あったとしても競争率が高い。
 絶対に、新卒で就職しなければならないのだ。
 決意に燃えていると、その横顔をシドがなにか言いたげな顔で見ていることには気づかなかった。
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