文字数 6,217文字

 ゆっくり目を開けると、見知らぬ天井が視界に飛び込んできた。
「ここは……」
 自分が置かれている状況がわからずに小さくつぶやくと、「目、覚めた?」と言う声が聞こえてきた。
 その声を聞いた瞬間に、意識を失う前に起こった出来事を思い出し、慌てて身体を起こそうとするが腕が自由にならないことに気づく。
 両手を見ると、結束バンドで拘束されている。なんとか身体を起こして声がした方を見ると、そこには携帯をいじっているエリックの姿があった。視線はずっと携帯の画面に向けられていて、リズを一切見ない。
 しばらくして、携帯をいじるのをやめ、彼がこちらを見た。
「強くない薬を使ったから、あまり残ってないと思うけど。どう? ふらふらする?」
「……いえ」
 にこにこと笑っているが、この状況ではその笑顔が怖くてたまらない。
 エリックは近づいてきて、リズが寝ていたベッドの縁に座った。ぎし、とスプリングが軋む。
 部屋はどこかのホテルの一室なのか、品のいい調度品が置かれ、生活感をあまり感じない。掃除も細部まで行き届いている印象があり、ホテルだとしたら高級な部類に入るところかもしれない。
 伸ばされた手に恐ろしいものを感じて、リズは逃げるように後ずさる。
 それを見て、エリックは手を引っ込めて肩をすくめた。
「あの……、私、帰ります。これ、切ってください」
 拘束されている手を見せると、エリックは「だ~め」と笑顔で拒否した。
「君をシドの元へ返すわけにはいかないんだよ。僕は、シドのものが欲しくなっちゃう人間だから」
「……」
 世の中には他人のものが欲しくなる人がいるのは知っている。しかし、リズはシドのものになった覚えはない。
 なので、はっきりと答える。
「なにか勘違いしてませんか? 私はシドのものじゃありませんから」
「シドに気に入られた時点で、僕から見たらシドのものだよ」
「違います」
 いくら否定しても、エリックは聞き入れてくれない。
 とにかく逃げなくては、とエリックが座っている反対側へ行こうと背中を向けると、ぐいっと肩に手を置かれて後ろへ力強く引かれた。
 両手が拘束されているせいでバランスが取れずに、リズはベッドに背中から倒れた。
 エリックが馬乗りになってきて、顔の両側に手を置かれ、逃げ場を失う。
 抵抗するタイミングを失い、リズは自分を見下ろすエリックの冷たい双眸を見つめることしかできない。
「あの……」
 意を決して口を開くと、髪の毛をさらりと触られる。逃げたいのに逃げられない。あせりだけが心の中に募っていく。
「目障りなんだよね」
「え……?」
 エリックが言っている言葉の意味がわからず、きょとんと見返す。
 そんなリズを見て、相手はクスクスと笑う。
「僕はね、シドが目障りなんだ。ずっと前から」
 シドの様子を見ていて、仲が良くないことはなんとなく察していた。しかし、それはシドの一方的な感情だと思っていた。けれど、今のではっきりした。エリックもシドのことをよく思っていないらしい。
「高い魔力を持って生まれただけで、周りからちやほやされて。魔力が低い僕は、常にあいつと比べられていたんだ」
 シドとエリックが比べられていた?
 二人はそれほど近しい関係だったのだろうか。
「あぁ、そういえば言ってなかったね。僕の名前は、エリック=ブレイスフォード。ブレイスフォードグループの人間だよ」
「……」
 納得できた。
 まだ二十代なのに、研究所の所長をしている理由が。
 ブレイスフォードの人間なら、その若さで重要なポストが与えられていても不思議ではない。
「跡を継ぐのは兄さんだから、僕は研究所の所長ぐらいしかやらせてもらえない。長男として生まれれば、僕の将来は約束されたも同然だったのに、遅く生まれただけでブレイスフォードの頂点に立つことができないんだ」
 ということは、エリックの上には兄がいるのだろう。
「僕は遅く生まれた子供だから、兄さんたちとは一回り以上も歳が離れていてね。それに加え、シドと歳が近いせいで昔から比べられていたんだ」
 エリックの指先が、リズの頬の輪郭を撫でる。その感触におぞましさを感じて、背筋が震えた。
「だから、僕はシドが嫌いなんだ。あいつ、ずっと澄ました顔しててね。周りの賞賛に興味がなさそうで。僕はこんなにも比べられて蔑まされているのに、あいつは僕なんかにはまったく興味なさそうでムカつくったらないよ」
 だから、とエリックが口端をつり上げる。
「あるとき、ちょっとした出来心であいつが大事にしているものを奪ったら、一瞬だけ悲しそうな顔をしたんだ。でも、すぐに澄ました表情に戻る。腹立たしいったらないよ。あの顔を悲しみと怒りで歪めることができたら心底楽しいかもしれないと思って、何度もあいつの大事なものを奪ってやったんだ」
「……それと私が、どう関係してるんですか?」
「意外と頭悪いんだね。それとも、認めたくないだけなのかな? 言ったじゃないか。君はシドのお気に入りなんだよ。つまり、大事なものってこと。シドの大事なものなら、僕が奪うのは当然のことだからね」
 シドはこのことを知っていたから、エリックに近づかないように言っていたのだろうか。
「そのうち、あいつは大事なものを隠すようになった。いつも見つけるのに苦労するんだ。まさか、学校でいつも喧嘩している子だとは思わなかった。喧嘩ばかりしているって報告を受けていたから、よほど気が合わないんだろうなって思っていたから、シドのお気に入りだなんて気づかなかったよ。考えてみれば、あのシドが嫌いだと思っている人間と毎日のように口喧嘩するわけないよね。僕もまだまだだな」
 それがギルフォードの発言で変わったのだ、とエリックは言う。
「シドは嫌いな人間を自分の領域に入れることを極端に嫌う。一緒に住んでいるって聞いて、自分の耳を疑ったよ。で、君のことを調べさせてもらったわけ。すると、いつも喧嘩しているのは僕の目をごまかそうとしているんじゃないかって思って君に近づいたら、シドは案の定大きく反応するし、これはもう確定的だね。間違いなく、君はシドのお気に入りだ」
「……別に、私はシドに気に入られるようなことをしたわけじゃないし――――」
 だからなにかの間違いだ、と言おうとすると、シドはリズの目の前で人差し指を振った。
「間違いなんかじゃないよ」
 エリックはリズの言葉を遮り、「知ってるだろ?」と問いかけてくる。
「今まで開発一筋だったマクファーレンが研究分野に進出したのを。就活してるんだったら、ニュースぐらい見てるよね?」
 そのニュースなら、この前見た覚えがある。求人が回ってきたら、エントリーしてみようなどと思っていた。
 リズは返事をしなかったが、表情だけで知っているのだと判断したらしいエリックは言葉を続ける。
「前々から、マクファーレン内では研究分野進出の話があったんだが、誰に責任者を任せるかで揉めていた。開発に強くても、研究には知識が弱い者たちが多かったんだ。その中で、最近になってシドが責任者になると名乗りを上げた。彼はマクファーレンの後継者だし、魔法使いの資格も持っている。上層部は何度か会議を開き、そして新しく作る研究所の責任者にシドを据えることを決定した」
「……」
 そんな話、初耳だ。
 彼は、そんなこと一言も口にしなかった。
 あいつが研究所の責任者になる。聞いたことがない話に、なんて言っていいかわからない。
「もうわかるだろ? シドがいきなり研究所の責任者になると言い出した理由が」
 それで、エリックが言わんとしていることがわかった。

「君のためなんだよ、リズ=アーネル。――すべては君のため」

「……」
 ――『じゃあ、お前はマクファーレンに医療研究分野があれば志望するんだな?』
 ――『まぁ、あったらね』
 そんな会話をした記憶が甦る。何故マクファーレンを志望しないのかと問われ、夢の話をした。そして、この会話をしたのだ。
「シドは好き嫌いがはっきりしている。嫌いな人間、もしくは興味のない人間のために動くことは絶対にない」
 それは、リズも知っている。シドの世界は一握りの好きな人間と、その他大勢の嫌いな人間、もしくは興味のない人間で構成されている。
「シドが君のために新しく作る研究所の責任者になる。ほら、これでも君はシドに好かれているのは間違いだと言うのか?」
「……」
 本当にエリックの言うとおりなら、間違いだとはっきり言い切れない。
 ずっと、シドには嫌われていると思っていた。だから、嫌味を言うのだと思っていた。毎日飽きずに嫌味を言ってくる暇なやつだと思っていた。
「どうしても、君にマクファーレンに来てほしかった。君を傍に置きたかった。そんなシドの気持ちが、今ならわかるだろう?」
 シドに嫌われているわけじゃない。
 いや、今の話を総合するとむしろ――――
「シドは……私のことが、好き?」
 リズが出した答えに、エリックは満足したようでクスクスと笑う。
「正解。シドは君のことが好きなんだよ。好きで好きで大好きで、僕の目をごまかすために毎日喧嘩して、火事で住む場所を失った君に部屋を提供して、そして君が自分の傍から離れないようにマクファーレンに研究所を作り、そこの責任者になる。ブレイスフォードに来たら、僕に見つかってしまうのは時間の問題だと思ったんだろうね。だから、寝る間も惜しんで手続きやら雑務やらをこなしていたんだよ」
 まぁ、少し遅かったけどね。
 そう言って、エリックはリズを見下ろしたまま笑った。その笑顔は薄気味悪い。
 シドがよく言っていた『俺の会社で雇ってやろうか?』は、ずっと冗談だと思っていたのだが本気だったのか。もしも、リズが「お願いします」と言えば、本当にマクファーレンに就職させるつもりだったのだろうか。
 それは、シドに直接聞いてみないとわからない。
 彼に好意を寄せられているなんて、そんなこと考えたことなかった。ここ数日、一緒に過ごしただけで嫌われていないことはよくわかったけれど。
 ご飯は美味しいと言って残さず食べてくれるし、買い物にもついてきて荷物を持ってくれたし、仲良くなりたいと言ってくれた。
 確かに、これは好き嫌いがはっきりしているシドのことを考えれば、好意を寄せられていると思っても不思議ではない。
 学校で嫌味ばかり言ってきたのは、目の前にいるエリックをごまかすため。
 今までシドの大事なものを奪ってきたエリックは、もちろん、シドが好意を寄せる相手も奪おうとするだろう。
 ……だとしたら、シドが嫌味ばかり言ってきたのは、エリックに奪われないようにするため?
 そこまでして奪われたくないのだとしたら、それだけ大事なものだということだ。
「あいつがそこまでするんだ。君を奪うことができれば、あいつの顔は今まで以上に歪む。そしたら、僕のこの腹立たしい気持ちも、少しはすっきりするかもしれない」
 エリックの瞳に危険な光がにじむ。
 逃げられないリズは、それを見ていることしかできなかった。
 体格差もあるし、男と女の力の差もある。逃げられるか逃げられないかで言えば、リズが逃げられる可能性は限りなく低い。
 それに、気を失っている間にエリックが逃走を防ぐ手段を講じている可能性だってあるのだ。
「君のことは、調べがついてるんだ。家が借金を抱えていて、貧乏なんだってね? お金、欲しいでしょ? 僕がお金をあげるから、僕のところへおいでよ。うんと可愛がってあげるからさ」
 エリックは足元に手を伸ばして、アタッシュケースを引き寄せて無造作に開け、中にあった紙の束をリズに向かって放り投げる。
 ばさり、と長方形の複数の紙がリズの目の前を舞う。
「……」
 それは、お札だった。
 リズが一ヶ月間、一生懸命働いて手に入れる金額を余裕で超えるような額を、エリックはただの紙切れのようにまき散らす。
「僕のところに来れば、この金は君のものだ。それに、ブレイスフォードの内定がもらえるように口利きしてあげる」
 エリックは再び札束を掴み、リズに見せつけるように差し出した。
「ほら、お金――欲しいでしょ?」
 お金は欲しい。それは否定しない。
 あればあるほど生活が潤うし、借金は減っていくし、母親と姉を楽させてあげられる。
 たくさんのお金に囲まれる自分を夢想したこともある。
 だから、お金は好きだ。
 でも、今見ているお金には嫌悪感しか覚えなかった。
 誰かを裏切って手に入れたお金では、誰も幸せになれないし、なにより、そこまでしてくれるシドを、お金なんかで裏切りたくなかった。
 お前と仲良くなりたいとずっと思ってた、と赤くなりながら言ったシドの顔が脳裡をよぎると、リズの心の中で怒りがわき上がってくる。
 借金をしているから、お金につられると思われたのだろうか。
 自分はそんなに見くびられているのだろうか。
 お金なんかで心を動かし、簡単にシドを裏切ると思われているのだろうか。
 ――甘く見るな。
 気づくと、口を開いていた。
「かわいそうな人」
 まっすぐにエリックをにらみつける。
 目を逸らしたら負け。
 そう思って、リズはエリックから目を離さない。
「人の心が、お金で買えると思ってるの? 借金をしてるからって、お金で動くような人間だと思われるなんて――見くびらないでほしいわ。そんなだから、シドに敵わないのよ。あいつの大事なものを奪って傷付けて悲しませて優越感に浸りたいんでしょうけど、そんなんじゃ無理ね。あなたは一生、シドには敵わない」
「お前――ッ!」
 リズの言葉に、エリックの表情が変わった。
 怒りで顔を真っ赤にし、掴んでいたお札と持っていたアタッシュケースを放り投げ、リズの首を両手で掴んだ。
 そのまま強い力を込められる。
「……ぁっ」
 首を絞められ、リズは苦しさにうめく。
 両手を拘束されているため、満足な抵抗もできない。両足を動かしてエリックを蹴り飛ばそうとするのだが、うまくいかない。
 エリックの目は本気だった。本気で、リズを殺そうとしている。怒りで我を忘れており、リズは確実に彼の地雷を踏んだらしい。でも、この結果に後悔はない。
「僕がかわいそうだと! この僕が! お前みたいな人間に慈悲を与えてやろうっていうこの僕がかわいそうだと! ふざけるな!」
「――――ッッ」
 声が出ない。
 呼吸ができない苦しさに涙が出てきて、視界がにじむ。
 意識に霞がかかってきて、頭の中がぼんやりとしてくる。
 息がしたい。
 ……助けて、シド……。
 もう一度、会いたい。会って、ひどい誤解をしたことを謝りたい。嫌われているから圧力をかけて不採用にさせたんだと思っていたけど、そうじゃないのがわかったから。今なら、シドが許してくれたら仲直りができるかもしれない。
 身体中から力が抜ける。もう、抵抗する気力も残されていなかった。
 意識が遠ざかる直前、身体の上にあった重みが消え、喉を絞めていた力が消える。しかし、酸欠で朦朧とするリズは、そのまま意識を手放した。
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