文字数 4,154文字

 ――ズっ! リズ! 起きろ! 頼むから、目を開けてくれ! リズ!
 悲愴な響きの声が、遠くから聞こえる。
 誰かが名前を呼んでいる。起きなきゃいけないのに、身体が鉛みたいに重くて思うとおりに動いてくれない。
 大丈夫だから、そんな声を出さないで。
 そう言いたいのに。
 身体を揺すぶられる感覚がして、少しだけ意識が浮上する。
 瞼が震え、ゆっくりと目を開く。
 最初は焦点が合わずにぼやけていた視界が徐々にはっきりとしてきて、目の前にシドの顔が見えた。
 今にも泣きそうな顔だったのが、リズと目が合った瞬間に、ほっとしたような安堵の表情になる。
「よかった、リズ」
 力強く抱き締められた。
 シドが助けにきてくれたのだ。それがなによりも嬉しくて、もう大丈夫だと安心する。
 もう一度会えてよかった。
 謝罪の言葉を言いたいのに、開いた口からもれたのは吐息だけだった。
「もう少し待っててくれ」
 そう言って、シドはリズの両手の拘束を解いて身体をベッドに横たえると、床に座り込んでこちらを見ているエリックを見下ろした。
「俺は、こいつに手を出せば、今度こそ、お前を潰す、と言ったはずだ」
 一言ずつ、はっきりと告げる。
 その声音には、リズに向けられた優しい響きは欠片も残っておらず、ただただ激しい憤りを含んでいた。
「望みどおり、潰してやるよ」
 シドは着ているコートのポケットから数枚の折りたたまれた紙を取り出し、エリックに向かって投げた。
「お前が研究結果のデータを改ざんしていることには調べがついてる。俺は、この証拠をお前の父親に送った」
 その言葉に、エリックの顔がわかりやすいくらいに青ざめた。
「周囲に認められようと、成果を急ぎすぎたな。研究はそんな簡単に結果が出る分野じゃない。知らないはずはないだろ?」
 そう言いながら、シドはベッドに横たわるリズの身体を抱える。そんなに鍛えているようには見えないのに、リズを横抱きにしたシドの足取りはしっかりしていた。
 彼は腕の中でぐったりとするリズを抱えたまま、外へ続くドアへと向かう。
 部屋を出る直前、シドは足を止めた。
「今すぐに粛正が来るぞ。お前の父親は、不正や犯罪に厳しいことで有名だからな。覚悟しておけ」
 シドが部屋を出ても、エリックはその場に呆然と座り込んでいた。



 意識が少しずつはっきりしてきたリズは、自分がお姫さまだっこされているのに気づき、自分で歩くと言ったものの身体に力が入らず、妥協案としてシドにおんぶされることになった。
 シドが着ていたコートを着せられ、ネオンが光り輝く街の中を歩く。夜中なのに人通りはそれなりにあり、リズとシドは完全に人目を引いていた。
 二人はずっと無言だったのだが、しばらくしてからシドが「すまなかった」と謝ってくる。
「あいつが昔から俺と比べられていることに腹を立てていることは知っていた。俺を疎ましく思っていることも。だから、なにを奪われても黙ってた。それが、あいつの怒りを増幅させることもわかってた。ただ抵抗してあいつの思いどおりになるのも嫌だった」
 高い魔力を持って生まれたシドと、低い魔力を持って生まれたエリック。その差は、どうやっても埋められない。生まれ持った魔力は、どうすることもできないのだから。
「でも……、お前だけは奪われたくなかった」
 エリックとの会話で行き当たった答えを思い出す。
 シドは、自分のことが好きなのかもしれない。
 少し信じることができないけれど、シドの口から直接聞けば信じられるかもしれない。
 彼は少しだけ間を置き、はっきりと告げた。

「――好きだ。お前のことが」

 シドの背中に全身を預けながら、リズは大きく息を吐いた。
 嫌われていなかった事実が、これほどまでに嬉しい。
 ひどい誤解をしても嫌わないでくれたことに、心の底から安堵した。
 そして、こんなまっすぐな想いにまったく気づかなかった自分の鈍さに笑いがこみ上げてくる。
「だから……傍にいてほしい」
 シドが自分のことを好きだなんて、考えたこともなかった。
 毎日毎日、会えば嫌味ばかり言ってくる相手が自分に好意を寄せているなんて、誰も気づくはずがない。
 身体全部で感じるシドの体温が心地よい。安心できる。
 長らく忘れていた温もりだ。
 シドの優しい一面を知ってから、学校で冷たくされてショックだった理由がやっとわかった。
 ……そっか。私はいつの間にかシドのこと――――
 すとん、と腑に落ちた。
 どうして、今まで知らなかったシドの一面を知っていく中で、もっと仲良くなりたいと思ったのか。
 でも、この気持ちはまだ言わない。
 エリックの目をごまかすためとはいえ、今まで意地悪された分、こちらもちょっとだけ意地悪してやろう。
 そんないたずら心が芽生えてくる。これは、負けず嫌いの悪い部分だ。
「シド。私、ブレイスフォードの最終面接に残ったよ」
「……そうか」
 シドの返事に間があった。もしかしたら、心の中で落ちてほしいと思っていたのかもしれない。
「でもね、辞退しようと思う」
「……」
「マクファーレンが新しく作る研究所の採用試験を受けようと思うの」
「お前が望むなら、俺が推薦状を書いてもいい」
「――いらない」
 シドの言葉に、リズは即答した。
「自分の力で受かってみせるから。そのときに、告白の返事を聞かせてあげる。それまで、そわそわしながら待ってたらいいよ」
「お前……」
 シドはなにかを言いかけたが、結局はなにも言わなかった。リズの仕返しに気づいたのかもしれない。
 リズは彼の背中に全身を預け、小さく訊ねる。
「シドは、なんで私のこと好きになったの?」
「……一年生の最初の試験で、俺は首席になる自信があった。でも、実際に首席なのはお前だった」
 そう。リズは一年生のときはすべての試験で首席だった。
「お前の隣りでその結果を見ていたことを、お前は知らないだろ?」
「……」
 初耳だ。
 あのときはまだティナとも出会っていないから一人でいることが多かったし、周りは一般庶民の貧乏人とリズを蔑む人ばかりだった。
「首席なのに、お前はそれが当然とばかりに澄ました表情で見ていた。それが悔しくて、俺は必死に勉強して試験に臨み、やはりお前に首席を奪われ、俺はずっと次席だった」
「……シドが次席?」
 覚えてない。
 シドの名前が自分の隣りにあったことなんて、リズはまったく覚えていなかった。
 リズのつぶやきを聞いて、シドは「やっぱり」と苦笑いを浮かべる。
「お前は俺なんて目に入っちゃいかなかったんだな。お前の目に俺を映したかった。俺を認識してほしかった。その地位を狙っている存在がいることを知ってほしかった。そのうち、気づいたらお前を目で追うようになっていた」
 一年生最後の試験の結果は、やはりリズが首席だった。
 そのころになると、シドは無意識にリズを目で追うようになっていた。気になって仕方がない。視界の隅に入ると、見えなくなるまで目で追ってしまう。
 その場にいた数少ない友人たちから、「まるで恋してるみたいだ」と言われて自分の耳を疑った。
 恋……?
 この自分が……?
 他人――特に女性に対してまったく興味を持たなかった自分が、リズ=アーネルに対して恋心を抱いているというのか。
 にわかには信じられなかったが、それを心のどこかで納得している自分がいた。
 ある日、シドは先生に頼まれて温室に花を摘みにきていた。授業で使うらしい。魔法科の代表でもあったシドがそんなことを頼まれるのはよくあることだった。
 温室の中で花を探しているとき、ベンチに誰かが座っているのに気づいた。
 視線を向けると、そこにはリズの姿があった。
 そのときの衝撃を、シドは今でも鮮明に覚えていると言う。
「燐光草が淡く輝く中、温室の色とりどりの花に囲まれて本を読んでいるお前の姿を見て、恥ずかしながら胸がときめいたんだよ。引きつけられているかのように、目を離すことができなかった。そして、俺は納得したんだ。友達の言うとおり、俺はリズに恋をしているんだと」
 リズの目に映りたい。存在を認識してほしい。
 今まで以上に強くそう思って寝る間も惜しんで必死に勉強して、シドは二年生のときにリズから首席の座を奪った。
 貼り出された試験結果に驚いているリズを見て、やっと存在を認識してもらえたのだと思った。
 しかし、そのころにはエリックの目が自分の周囲に向けられていることを知っていた。
 だから簡単に声をかけることはできなかった。
 でも、言葉を交わしたい。あの瞳に自分を映したい。
 そんな想いを止めることができなくて、声をかけた。エリックの目をごまかすために嫌味を言うと、リズが言い返してくる。自分の存在がリズに認識されたことを、心の中で歓喜した。
 言葉を交わせるだけでいい。リズの目に自分が映っているだけでいい。
 ずっとそう思っていた。
「お前が就活を始めたときには、もうお前を手放せないほど俺の気持ちは強くなっていた。だから、お前が面接を受けた会社に圧力をかけて不採用にさせていたんだ。俺以外の男にリズの心が奪われるのが怖くて、俺の傍にずっと置いとけばいつか振り向いてくれるかもしれないと思った」
「ばかだね……」
 リズがささやくように言うと、シドは「確かにな」と笑った。
「誰かをこんなに好きになったのは初めてなんだ。だから、どうすればいいかわからなかった。お前がいなくなるのが怖かった。……俺の告白の返事を、どんな内容でも受け入れるつもりだ。ただ、これだけは信じてほしい」
 前を向いているシドの表情はわからない。
 今、どんな顔をしているのだろう。
 シドの顔を、これほど見たいと思ったことはない。

「――俺は、本気でお前のことが好きだ」

「うん」
 知ってる。
 知ってるよ。
 声の響きから、全身から、あふれるほどの想いを感じるよ。
 だから、答えは出ているんだけどちょっとだけ意地悪するね。
 そわそわしながら、待ってたらいいよ。
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