文字数 6,649文字

 鼻歌を歌いながら、カレー鍋を混ぜていると「ご機嫌だな」と言う声が聞こえてきた。
 視線を向けると、リビングのカウチソファの背もたれに寄りかかってこちらを不機嫌顔で見ているシドと目が合った。思えば、帰り道のときからずっと機嫌が悪い気がする。
「ま、嬉しいことがあったからね」
「なにがあったんだ?」
 シドには関係ないけれど、別に言っても問題はないだろう。
「さっきシドとの待ち合わせ場所に向かう途中で、ギルフォード先輩と会ったの」
「ギルフォード?」
「……あんた、ホントに他人に興味がないのね」
 聞き覚えがないかのようにつぶやいたシドを、半目でにらみつける。ここまでくると、もうあきれるしかない。視線をカレー鍋に戻し、かき混ぜ続ける。
「あんたも会ったことあるでしょ? 二年前に卒業した私が仲良くしてた先輩」
「あぁ……、あいつか」
「先輩をあいつって言わないで」
 そう言うと、シドはちょっとむっとした表情をした。
 あれだけお世話になったギルフォードを、あいつ呼ばわりされるのはあんまり印象がよくない。
 けれど、シドは思い出したようだ。「それで?」と続きを促してくる。
「先輩は今、ブレイスフォードで働いてるらしくて、内定が決まってないって言ったら推薦状書いてくれるって言ってくれたの」
「……」
 シドは大きく目を見開いて言葉を失っているようだ。
 どうだ。あんたはこの会社にエントリーできるとは思ってなかったでしょ。
 彼の驚いている顔がとても愉快で、思わず笑みがこぼれる。さらに機嫌がよくなる。受かるか受からないかはわからないが、それ以前にエントリーすらできないと思っていたからこそ、この幸運に感謝せざるをえない。
「絶対に受かってみせるから。もうあんたに馬鹿にされたくないしね」
「……」
 口を閉ざしたシドは、なにかを考えているかのような表情をしている。
「?」
 なにか言ってくるかと思ったのだが、特になにも言ってこない。
 なのでほったらかしにすることにして、鍋で炊いた東洋の米を皿に盛りつけてカレーをかける。適当な大きさに切ったバゲットを別の皿に載せて食卓テーブルに置く。
 ランチョンマットを敷き、その上にうまい具合に配置する。シドの分と自分の分を置いて、飲み物を注いだガラスコップとスプーンも置く。
「できたよ」
 なにも言わないからこちらのことなんて気にしていないのかと思ったが、声は聞こえているらしく、黙って立ち上がり、いつもの席に座った。
「いただきます」
「……いただきます」
 リズが言うとつられるようにシドも言って、食べ始める。
 テレビを見ながら食べていると、視線を感じた。目を向けるとシドがなにか言いたげな顔でこちらを見ているので、「どうしたの?」と声をかけると、彼は眉を寄せた。
「……もしかしておいしくなかった?」
 自分ではうまくできた方だと思ったのだが、シドの味覚には合わなかっただろうか。
 不安になってそう訊ねると、シドは「そうじゃない」と言って視線を落とした。
 なんだが様子がいつもと違うように見えるのは気のせいだろうか。
 もう一口食べてみるが、やはり味に問題はなさそうに思えた。カレーにしろと自分で言ったので嫌いではないと思うのだが、使ったルーがあんまり好きじゃなかったのかな? それとも、隠し味が変だったとか?
 不安のせいでマイナス方向に考えていると、シドはスプーンを持っていた手をテーブルに置き、視線を下に向けたまま「お前は……」と口を開く。
「……なんでお前は、マクファーレンが嫌なんだ?」
「?」
 質問の意味がわからなくて首を傾げる。少ししてから、マクファーレンに就職を希望しない理由を聞かれているのだとわかり、「別に嫌じゃないよ」と答える。
「マクファーレンじゃ、私の夢が叶わないだけ。ホントにそれだけなの」
「夢?」
「そう。その夢にこの五年間を捧げたから、ここで諦めたくないだけ」
「それは――――」
 シドがなにかを言いかけた瞬間、リズの携帯が鳴った。この音はアラームだ。一緒にバイブ設定もしていたので、テーブルの上でガタガタと動いている。
 はっとして壁にかけられている時計を見ると、バイトの時間が迫っていた。寮よりも遠くなってしまったので、移動時間を長めに取らないと遅刻してしまうのだ。
「やっば。ごめん。バイト行かなきゃ。食べ終わったら食器は炊事場に置いといて。帰ってきてから洗うから」
「……ああ」
 急いで残りを食べて、自分の食器を炊事場に持っていってから部屋に戻り、バイト用の鞄を引っ掴んで玄関へ向かう。
「おい」
 靴を履いているところで声をかけられ、振り返るとシドが仁王立ちしていた。
「なに?」
「その……、帰ってきたらさっきの話の続きを聞かせろ」
 さっきの話?
 あぁ、マクファーレンを志望しない話か。
「別にいいけど、遅くなるかもしれないよ?」
「構わない」
「そう。じゃあ、いってきます」
「……行ってこい」
 靴を履き終わって振り返ると、シドはずっとこちらを見ていた。
 今まで出かけるときにティナ以外に見送りなどされたことがなかったから、なんだか気恥ずかしい。
 まさかシドにこんな風にお見送りされる日が来るとは思わなかった。
 扉を閉めると、自動的に鍵のかかる音が響く。
 目の前のエレベーターに乗り、リズはバイト先へと向かった。



「お疲れさまでーす」
「お、来た来た」
 スタッフルームに挨拶をしながら入ると、携帯をいじっていたルカがこちらを見て手招きしてくる。リズと同じシフトのはずだから、時間まで待機しているのだろう。
 近づくと、携帯を机の上に置き、頬杖を突く。
「お前、住んでるとこが火事になったんだって?」
 彼は昨日休みだったので、今日になって周りから色々と聞いたのだろう。
 特に隠していることでもないので、「そうです」とうなずく。
「住むところは大丈夫なのか?」
 昨日もみんながそれを心配していた。ルカもやはり同じことが気になるのだろう。
「知り合いが部屋が余ってるからって居候させてくれることになって、そこでお世話になってます」
「部屋が余る知り合いって誰だよ。やっぱ、クロウリーの生徒だから金持ちなのか?」
「まぁ、金持ちですね。大企業の御曹司ですから」
「お、御曹司……。まさか、その知り合いって男か!?」
 かなり驚かれたが、無理もないかなと思う。リズだって、シドが居候させてくれるなんてまったく考えていなかったから。
「そうですけど……」
「もしかして、いつも飯を食いにくるあいつか?」
 リズの知り合いの男性で一番に思いつくのがシドだったのだろう。間違いではないのでこくりとうなずくと、ルカは頭を抱えた。
「そんな……。リズが狼の巣で暮らすなんて……!」
「おおかみ?」
 ルカはがばっと顔を上げ、リズの両肩を掴んだ。ちょっと強く掴まれているのだが、痛みは感じなかった。それよりも、ルカの慌てぶりに驚かされる。
「先輩?」
「あいつになにかされてないか?」
「なにか……?」
 されてるというより、やらされてる?
「まぁ、やらされてはいますよね。それが居候の条件でしたし」
「やらされてる? リズ、それはよくない。よくないぞ」
「ダメですか?」
 居候の条件で家事をすることが、どうしていけないことなのだろうか。
「住む場所のために自分を犠牲にするな」
「いえ、特に苦痛ではないですよ。寮でも時々やっていたことですし」
「お前……、寮でもそんなことやってたのか?」
「はい。寮母さんが『助かるわ~』って喜んでくれたので」
「……」
 そこで、ルカがきょとんとした顔をする。
 なにかを考えるかのように視線が動き、うかがうようにリズを見る。
「居候の条件って、なんだ?」
「家事をしろって言われたんです。居候させてもらえる条件は、家事の一切を引き受けることだったので」
 答えた途端に、ルカが天を仰いだ。
「なんだ……。狼なのは見た目だけか」
「? ルカ先輩、さっきからなにを言ってるんですか……?」
「気にするな。普段の様子からガツガツの肉食系かと思っていたが、結構奥手なんだな。考えてみれば、子供っぽいところもあるみたいだし。心配の必要はないか」
 ルカの言っていることがさっぱりわからない。
 詳しい説明を求めようとすると、「ほら、時間だぞ」と言われて時計を見る。バイト開始時間が間近に迫っていた。慌ててロッカーに近づいてエプロンを手にする。ハンディ型のオーダーエントリーシステムの電池残量を確認して、ポケットに入れる。
 ルカは同じシフトなので、これから一緒に仕事だ。
 フロアへ出ようとするリズの肩をぽんと叩き、「変なことをされたら、すぐに俺に言えよ。あいつを警察に突き出してやるからな」と言われる。
 なんの心配をされているのかがよくわからず、「はぁ」と気の抜けた返事しかできなかった。



「リズがいるのに、あの子が来ない!」「体調が悪いんじゃないか?」「お見舞いに行ってあげなよ」など、口々に言いまくるスタッフたちに別れを告げ、リズは一人で家路を急いでいた。
 厨房担当の寡黙なスタッフは、シドがやってこないことを気にしていたらしく、帰り際に「家を知ってるなら、持ってってやれ」と箱に入れた売れ残りのケーキを渡してきた。
 家を知っているどころか、一緒に住んでいるんですけど……。
 そう思ったが口には出さず、「……わかりました」と受け取った。
 そのケーキを手にして、「ただいま」と帰ると、「おかえり」と返事があった。
「……」
 なんだか、むずがゆい。
 頭を横に振ってそのむずがゆさを吹き飛ばし、リビングへ向かうとシドはソファに座ってテレビを見ていた。国内でも人気のあるコメディアンたちがどっきりを仕掛けられるという番組で、そんなのを見るなんて少し意外だ。
 そこで、はた、と思う。
 なんか……、シドに関して意外に思うことばっかだな……。
 勝手に色々とイメージしてしまっていたが、シドはことごとくそれらを崩してくる。
 今まで見ていたシドは、もしかして本当の彼ではなかったのか。そんな思いすら芽生えてくるほどだ。
「みんな、シドが来ないって大騒ぎしてたよ。で、ケーキもらってきた」
 ケーキが入っている箱を食卓テーブルに置きながら言うと、シドは顔だけ振り返ってくる。リズの言葉の意味がわからない、といった表情だ。
「俺が行かないこととケーキとのつながりがわからないんだが……」
「シドが来ないのは体調が悪くて寝込んでいるからじゃないか。だったら、見舞いに行けって言われて、ケーキをもらったわけ」
「……」
「食べる? ――そういえば、シドって甘いもの好きだっけ?」
「……嫌いではない」
 シドがソファから立ち上がったのを見て、箱を開ける。中にカットケーキが四つ入っていた。
「なににする?」
 いつもの席に座ったシドの前に箱を差し出すと、中を見た彼は迷うことなく大きないちごが乗ったショートケーキを選んだ。
「……」
 やっぱり、嗜好が子供っぽい気がする。
 そんなことを思ったものの口には出さず、リズはモンブランを手に取った。
「じゃ、私はこれで」
 残ったケーキが入っている箱のふたを閉じ、冷蔵庫へ入れる。テーブルに戻る途中で、食器棚の引き出しからフォークを二本取り、片方をシドへ手渡す。
「はい」
「ああ」
 それを受け取ったシドは、セロファンをはがしてショートケーキを食べ始める。
 リズが半分くらい食べたとき、もう食べ終わっていたシドが口を開く。
「さっきの話の続きをしてもいいか?」
「さっき……?」
 一瞬、なんのことだろう、と思って首を傾げる。
 少ししてから、バイトに行く前の話だと思い当たる。確か、続きはバイトから帰ってきた後って言っていた。
「別にいいけど」
「……お前は、なんでマクファーレンにエントリーしないんだ?」
「それはさっきも言ったけど、そこじゃ私の夢が叶わないから」
「ブレイスフォードだったら叶うのか?」
「そうね」
 もう一口、モンブランを食べる。
 シドは深刻そうな表情をして、視線をさまよわせている。
「前に聞いたときは『あんたには関係ない』と言われたが、お前の夢ってなんだ? ブレイスフォードに入って、なにがしたいんだ?」
「……」
 食べていた栗をごくりと飲み込む。
 そんなこと言ったっけ? と記憶を思い返す。
 あぁ、あのときか……。
 体調不良で倒れたときにメディカルルームでシドにそんなことを言った気がする。
 あのときは気持ち悪さで気が滅入っているところでシドに怒鳴られて、誰が教えるもんか、と意地になってああ言ってしまったが、別にシドに言っても困るようなことではない。
 ずっと嫌味ばかり言うやつと思っていたが、昨日から一緒に過ごすようになってそんなやつじゃないとわかったし、言っても問題ないだろう。
「十年前に、お父さんが死んだの」
 その言葉に、シドの肩がびくりと震えた。視線が向けられ、目が合う。
 こちらをうかがうような目に、思わず苦笑が漏れる。父親のことを話すと、ほとんどの人は気まずそうな顔をするのだ。シドが同じ反応をしたので、少しおかしくて笑ってしまった。
「治療法が確立されていない難病だったの。手術は成功したけど、結局回復することなく亡くなった。その手術はかなり難しいもので保険もきかないからとても高額で、残ったのは莫大な金額の借金。お母さんとお姉ちゃんは、必死になって働いて、借金を返しながら私を育ててくれた」
 文句一つ、恨み言一つ言わず、必死に働いて借金を返す二人の背中を、リズはずっと見て育った。
 姉は大学への進学が決まっていたが、入学金や授業料が払えずに辞退し、就職した。
「幸い、私には魔力があったから、迷うことなく魔学者になる道を選んだの。魔学者は社会的地位が高くて、給与が一般で働くよりも恵まれている。だから、魔学者になって出世してたくさん稼いで、早く二人を楽させたいと思ったの」
「……だったら、マクファーレンでも――――」
「ダメ」
 リズは首を横に振った。
「マクファーレンを志望しないのは、もう一つ理由があるの」
「それが、夢か?」
「そう。私の夢。お父さんの命を奪った病気の研究。私はそれがしたい。お父さんと同じ病で亡くなる人を一人でも減らしたい。治療法を確立し、手術の難易度を下げ、誰でも治療を受けられるようにしたい。これが、私の夢」
 それで、やっとシドはリズがマクファーレンにエントリーしない理由がわかったようだ。
「マクファーレンには医療研究をする会社がない……」
「開発のマクファーレン。研究のブレイスフォード。だから、私はブレイスフォードにエントリーするわけ。マクファーレンにも医療研究分野があれば、あんたの誘いを冗談だとわかっててもすがりついて頼むところだけどね」
「……別に冗談のつもりじゃ……」
「え?」
 シドがもごもごとなにか言っているが、聞こえなかった。聞き返すと、「なんでもない」とそっぽを向かれる。
「じゃあ、お前はマクファーレンに医療研究分野があれば志望するんだな?」
「まぁ、あったらね。夢を叶えるためだったら、あんたの嫌味にだって耐えてみせるわよ」
 そう言うと、シドは席を立った。
「どうしたの?」
「ちょっと出かけてくる。今日はもう帰らないと思うから、さっさと寝ろ」
「こんな時間に?」
 時計を見ると、すでに夜の十一時を過ぎている。
「明日には帰る。今日はもう出歩くな」
「わかった……」
 シドはそのまま玄関に向かい、ドアを開け閉めする音が聞こえ、オートロックの音が意外と大きく響く。
「……」
 一人になった途端、部屋がとても広くなったかのような感覚に襲われる。
 残っていたモンブランを食べるが、美味しいはずなのに味を感じなくなってしまった。
「一人でこの部屋は広すぎるよ……」
 思わずつぶやく。
 こんなに広い部屋に、彼はずっと一人で暮らしていたのだろうか。
 ずっとたくさんの人がわいわいと暮らしていた場所にいたリズは、寂しさを覚えずにはいられなかった。
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