文字数 5,188文字

 とりあえず、濡れた服を着替えなければならないのだが、寮は全焼して立ち入り禁止になったために、このままシドの部屋へ行くことになった。
「……」
 王都でも指折りの高級住宅街にそびえ立つタワーマンションを見上げたリズは、予想以上の光景に呆然としていた。
 まさか、ここ……?
 首の痛みを感じて見上げるのをやめてシドを見ると、彼は迷うことなくその中に入っていく。やはり、ここで間違いないらしい。マジか。
 慌てて追いかけると、シドはカードキーでオートロックを開け、エントランスにいるコンシェルジュの挨拶に答え、エレベーターに乗った。
 エレベーターの階数のボタンが、半端なく多い。こんなに多いのを見るのは初めてだ。
 なにもかもが初めての体験で驚きで言葉を失っていると、シドは慣れた手つきで目的階数のボタンを押した。
 ……最上階かよ。
 確か、タワーマンションって上の階に行くほどに家賃が高くなるんじゃなかったっけ?
 自分とは縁遠いと思っていてあまり関心を持ってこなかった分野の知識を思い出しながら、エレベーターが着くのを待つ。
 何気なく振り返ると電子掲示板があって、そこにはエレベーターの魔力バッテリー交換時期とメンテナンスのお知らせが表示してあった。
 長く感じたエレベーターが最上階へ着くと、そこには扉が一つだけしかない。
「……もしかして、最上階って一部屋しかないの?」
「そうだ」
 いくらなんでも、一人で暮らすには贅沢すぎるでしょ。
 お金持ちの考えはよくわからない。一人なのに広すぎる部屋に住むとか、贅沢すぎて庶民のリズには理解ができない。部屋を余らせる方がよっぽどもったいない気がするのに。まぁ、今回はそれがありがたいわけなのだけれども。
 カードキーと暗証番号でドアを開けると、中は予想どおりかなり広かった。リビングだけで、リズが暮らしていた寮の部屋が二つは余裕で入りそうだ。
 リビングの入り口に立って部屋を見回していると、男の一人暮らしとは思えないくらいにきちんと整理整頓されていた。
 調度品はシドの趣味なのか黒が中心で、そんなにたくさん置かれているわけではないのに殺風景ではないし、使用人がしっかりと掃除してくれているのか埃が落ちている様子すらない。
「ちょっと待ってろ」
 リズをリビングに待たせ、シドが一つの部屋に入っていく。
 そこの壁には、片手では足りないほどのドアがあり、部屋数の多さがうかがえる。さすが一フロアすべてを使っているだけある。
 これは、シドの言ったとおり家賃の半分すら払える気がしない……。
 本当にこんな部屋に居候させてもらっていいのだろうか。シドの親御さんが文句言ってきたりとかしないかな。後で追い出されることになったらどうしよう……。
 想像以上の部屋におののいて嫌な方向に色々と考えていると、シドが戻ってきて「これを使え」と服を差し出してきた。
「あそこがバスルームだから。とりあえず、身体を温めろ」
「いいよ。服だけ貸してもらえれば」
「馬鹿言うな」
 少しだけ怒ったような表情をしたシドは、リズの手を握った。
「こんなに冷えてるじゃねぇか。シャワーでもいいから、身体を温めた方がいい。前みたいに目の前で倒れられたら目覚めが悪い」
 シドとの付き合いはそれなりに長いつもりなのだが、こんなに労るような言葉をかけられることは今までなかった。
 彼の前で倒れた一件から、彼が少しだけこちらを気遣うような優しさを見せるようになったのは気のせいだろうか。
 まぁ、目の前で人が倒れると誰だってショックを受けるよね。
 リズだって、シドが目の前で倒れると少なからず衝撃を受け、その後、気を遣うようになるかもしれない。
 シドはそのままリズの手を引き、バスルームへと連れて行った。
「いいから、入れ」
 そのまま脱衣所に押し込められ、背後でばたんとドアが閉められる。
「……」
 ここまでされたら入らないわけにもいかない。身体が冷えているのは事実だし、これ以上冷やせば風邪を引くのは確実だ。
「甘えるか」
 つぶやいて、手に持った服を洗面台の隣りにあるカゴに置いた。



 ほかほかと温まった身体に、シドの服は大きかった。しかし、リズが着ても違和感がないようなものを選んでくれたのがよくわかるセンスだ。
 洗面台の鏡に映った少しぶかぶかの服を着た自分の姿を見て、改めてシドが同い年の男の子であることを実感した。
 普段はあまり性別を気にせずに接しているが、こういうのを見てしまうとやっぱり男の子なんだなぁと思ってしまう。
 シドを異性だと認識してしまうと、なんだか彼の服を着ていることが猛烈に恥ずかしいことのように思えてくる。
 なんか、恥ずかしく思うことばっかりだな。
 赤くなった自分の顔を鏡で見て、ぱちんと両頬を叩く。
「これは仕方のないことなんだから。落ち着け、落ち着け。恥ずかしいことなんて、なにもない」
 何度か自分に言い聞かせて心を落ち着かせ、深呼吸を三回ほどしてから脱衣所のドアを開ける。もう顔が赤くないのは確認済みだ。
 部屋の主はリビングの高級革の黒いカウチソファに座って、何故かつけてもいないテレビを凝視していた。
「シャワー、ありがとう」
 そう声をかけると、ばっと勢いよく振り返ってきたシドはリズの姿を目に留め、全身を眺めてから背中を向けた。
「馬子にも衣装だな」
「……それ、どういう意味よ」
 シドの服装には日頃からセンスを感じていたが、女の子であるリズが着ても違和感がないような服まで持っているとは思わなかった。
 少し前に流行ったようなボーイッシュな格好と言えなくもない。今まで、こういう格好はしたことないから、似合っているのかはわからないけれど。
 きっと高い服なんだろうなぁ……。汚したらどうしよう……。
「前から思ってたんだが、お前は自分の服装に頓着がなさすぎる。素地はいいんだから、少しでも服装に気を遣え」
「……」
 これは、遠回しに『可愛いんだから、お洒落しろ』と言われているんだろうか。
 返答に困っていると、自分の発言に気づいたシドが少し赤くなってごまかすように咳払いし、「とにかく」と言ってきた。
「お前は今日からここに住め。家事の一切は任せる。もう執事に使用人をよこさなくていいって電話したからな。お前がしてくれなきゃ、数日で荒れ放題になるぞ。それが嫌なら、お前がしろ」
 どんな脅し方だ。少しは自分でも努力しろよ。
「……わかった」
「生活に必要なものは、明日、街へ買いに行く。今日はその服で我慢しろ。あと、先生に連絡したら、あの寮に住んでいる生徒だけ午後の授業は免除だそうだ」
「じゃあ、あんたは学校に戻らなきゃならないんじゃないの?」
「だから、俺はこれから学校へ戻る。お前は、この部屋で好きにくつろいでいるといい」
 こくり、とうなずくと、あさっての方向を見ていたシドは言葉を続けた。
「明日の買い物は荷物が多くなりそうだからな。荷物持ちとしてついていくから、そのつもりでいろ」
「別にいいよ。そこまで気を遣ってくれなくても」
 そう答えると、シドはやっとリズを見た。
「お前は仮にも女なんだぞ。お前は黙って男の俺に荷物を持たせておけばいいんだ」
「……」
 上から目線で女扱いされることに複雑な心境だが、シドはどうしても荷物持ちをしたいみたいだから、ここはお言葉に甘えよう。
「で、掃除とかするのはわかったけど、食事はどうするの? 外で食べてくるなら、私は勝手にキッチンを使わせてもらうけど」
「家事全般には食事も含まれている」
 ということは、料理を作れということなのだろう。
「わかった。私の料理があんたの口に合うかどうかわからないけど、そう言うなら作るから」
「いや……、合わないことはない。あの弁当はうまかった。お前はここでも自分の弁当を作るんだろ?」
「当たり前じゃない。学食は高いんだから」
「だったら、俺の分も作れ。一人分が二人分になるくらいだ。あんまり変わらんだろう」
「……まぁ、変わらないけど。私と同じ内容の弁当でよければね」
「構わん」
「じゃ、冷蔵庫見させてもらうね」
 広いキッチンへ向かい、一人暮らしにしては大きすぎる冷蔵庫を開ける。
「……なにこれ?」
 がらんとしていた。ほとんどなにも入ってない。
 ミネラルウォーターのペットボトル数本が、申し訳なさそうに置いてあるだけだ。
 これは、完全に自炊をしない人間の冷蔵庫だった。ドラマで見たことある。
 野菜室、冷凍室と開けてみるが、案の定そこにはなにも入ってなかった。使われた形跡すらない。
「……あんた、今まで食事はどうしてたの?」
「外で食ってた」
「それじゃ、塩分過多でしょ。少しくらいは自炊しなさいよ。こんな立派なキッチンがあるのに、もったいないじゃない」
「自慢じゃないが、今まで料理なんてしたことないぞ」
「ほんっとに、自慢じゃないわね」
 ため息をつきながら冷凍室を閉めると、シドが学校へ行っている間にしなければならないことが明確になった。
 ただぼんやりとこの部屋にいるのも気が引けるし、いい気晴らしにもなるかもしれない。
「私はとりあえず買い物に行ってくるから。食べたいものがあるなら、作れる範囲でリクエストを受け付けるわ」
「……ハンバーグ」
「それ、ホントに好きね。わかった。今日の晩ご飯は、ハンバーグにしとくから。あんたはさっさと学校に行きなさい」
 一瞬だけ、ぱぁっとシドの目が輝いたように見えたのは気のせいだろうか。すぐにごまかすように咳払いをするが、リズはばっちりと見てしまった。
 本人は隠しているつもりかもしれないが、バレバレだ。やはり、バイト先で食べていたものは好物であったらしい。
 子供が好きそうなものが好きなんだな。
 見た目は大人びているくせに少し意外な気もするが、好物なんて人それぞれだろう。勝手な思い込みで意外だなとリズが思っただけだから、特に笑うつもりもない。
「ほら、さっさと行きなさいよ」
「食費は俺が持つ。これを使えばいい」
「……」
 なんでもなさそうに渡されたのは、バイト先での支払いでよく見るやけにキラキラしたカードだった。
 これを使えと……?
 思わず目が点になった。
「いや……、他人にそんな大事なカードを簡単に渡さないでよ」
 ぐいぐい、とシドのカードを持つ手を押しやると、彼は心外だと言わんばかりの表情をした。
「お前のことを信用しているから渡すんだ。なにも問題はない」
 そう言い切られるとは思わなくて、二の句が継げない。
 驚いているうちにカードを無理やり渡されてしまい、突き返す間もなく、シドは部屋を出て行ってしまった。
 呆然とカードを見つめ、こんなもの使えない、と慌てて服のポケットに入っていた財布を開く。
 残金を見て、がくり、と膝を突く。
「そうだった。私、給料日前だった……」
 給料がもらえる数日前は財布にお金が入っていないのはいつものことだが、今以上にそれを恨めしく思ったことはない。
 料理を作ると言った手前、作らないわけにはいかないし、でも財布にはお金が入ってないし。
「……」
 右手に持ったカードを見る。
 使うしかない……のか?
 カードを持つ手にぎゅっと力を込め、リズの瞳は決意に燃えた。
 食費を持ってくれるというのなら、ありがたく受け入れるしかない。正直、二人分の食費をまかなえるほどのお金は稼げない。火事で燃えてしまった日用品や服なども揃えなきゃいけない上に就活にもお金がかかるから、今はそんなに食費にお金を出せない。
「む、向こうがそう言ったんだし……」
 でも、なるべく自分に関するお金は自分で出そう。
 そう思いながら立ち上がると、リズは先ほどシドが座っていたカウチソファの前にあるガラスのローテーブルの上にカードキーが置いてあるのに気づいた。これを使え、ということなのだろう。
 それを服のポケットに入れ、キラキラカードを自分の財布に挟み、外へ出る。
 靴はさほど被害を受けなかったのか、そんなに濡れていないので助かった。
 エレベーターを下りてエントランスを横切ると、コンシェルジュから「いってらっしゃいませ、アーネルさま」と声をかけられた。
 名前を知られていることに驚いたが、シドが話をしたのかもしれないと思い至り、土地勘のないリズはコンシェルジュに近くに食材を売っているお店がないか訊ねてから、「いってきます」と言ってマンションを出る。
 途端に、迫りくる冬の寒さが全身を包み込み、シドから借りたコートの前をかけあわせて教えてもらった店へと急いだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み