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文字数 4,559文字
王マアトカラ──すなわちハトシェプスト・クヌムトアメン──の治世の十年目、彼女の寵臣の一人であったネフェルジェセルはこの世を去った。
表向きは病死ということになっていたが、恐らく自殺であろうとの噂が王宮中に流れた。というのも、彼の死の直前に、彼の仕えた王子モーセが突如として失踪したのだ。それに責任を感じて服毒自殺したのではないか、というのが噂をしている人々の主張であった。
一方で、奇妙な噂も立った。ネフェルジェセルの亡霊が墓から出て、行方をくらました王子を探すべく東へ向かったという、一見突飛な噂である。この噂については根拠もなにもない。しかし人々はこの話を信じ、ネフェルジェセルの忠誠を称えたり、現世への執念を嘲ったりと好き勝手な反応をしたのであった。
──さて。ネフェルジェセルの死から四十年余りが経った。
広大な砂漠の只中で、《それ》は目を開いた。
砂漠の夜はひどく冷える。しかし《それ》は寒さをものともせず、歩き出した。明かりもない、道なき道を、何かを探すように歩き出した。
しかし、数歩歩いたところで《それ》は足を止め、顔を上げた。二、三度頭を振ると、くるりと真逆に向きを変える。そして、またゆっくりと歩き出す。それからは方向を変えず、まっすぐ、まっすぐ歩いた。
一匹どころじゃない……うっ……やだ、何これ……
見渡す限り、魚の死骸じゃない……!
ひっ……!
これ、こ、これ、ナイルの、ナイルの水……水が、真っ赤じゃないか……
血、血みたいに…………!
《それ》は血の川と化したナイルに沿って歩いた。
蛙!? ……やだ、ちょっと引っ付かないで
きゃあ! こ、こっちにも……ひ、や、やだ、来な、こ、来ないで、そん……
いやああああああああああああ!!!!!
ちくしょう、ゲコゲコうるせえな、あっち行けったら……
ッぐぼ……っふ、ぐご……!ぐ、ぐぢに゛、はゔッ……ゔぐッ……ゔあアアアア!!
《それ》は夥しい蛙の群れを払いながら歩いた。
か、かゆい!かゆいかゆいかゆいかゆいかゆい……
なん、な、何で、こんな、こん……あァクソッ!この、蚋め!
やだ、ちょっ、痛ッ……やだ、やだやだやだ!刺さないで!!
《それ》は地の塵のごとき数のぶよの中を歩いた。
おがあさぁああん!
あぶ、あぶに刺されたよぉおお!!
かゆい、かゆいよぉおお───!!!!
ダメ、ダメ、お願い、お願い! 掻くのをやめて! ねえ!
ああもう、爪、爪まで剥がれて……あああそれは、それはダメ! 坊や、刃物はダメ!
やめなさい! やめなさいったら……いやぁあああああ!!!
《それ》は虻の風を掻き分けながら歩いた。
《それ》は疫病で死にゆく家畜たちを悼む人々を見ながら歩いた。
この頃何なの!? おかしいわよ! 奴隷どもには何もないのに、どうして私たちだけ……!!
《それ》は膿の出る腫物に苦しむ人々を横目に歩いた。
ああ、もうむちゃくちゃだ! 家畜は死んで畑仕事はどうにもならんし、そもそもその畑もこの雹で台無しだ! ああもう、麦のことなんざ考えたくもねえ、畜生……!
ああ、……偉大なるラーよ、もし、……ああ、……もしおわしますならば、どうか貴方の御恵みを……うぅ…………どうして、どうしてよぉお……
《それ》は激しい雹の中も歩いた。
イシスの加護は……ああ、もう、無いのかしら…………
《それ》はいなごに畑を食い荒らされ立ち尽くす人々を掻き分けて歩いた。
彼らの神は偉大なるラーさえも順えるというのか……!
《それ》は夜よりも暗い、一切の光もない闇の中を歩いた。
ああ、あああ……フイ、どうして死んでしまったの…………!!!
メリト、おい、メリト……! 父さんだ、答えろ、答えてくれ……
メリト―――――!!!!
どうして、どうしてこんな……こんなことが…………!!
《それ》は長子を失い嘆き悲しむ人々の中で足を止めかけた。しかし、足を止めるわけにはいかない。進まなくてはならない。捜し続けていたものを目前にして、立ち止まってはいられない──《それ》は二、三度頭を振って、歩き続けた。
ある、風の強い日のことだ。《それ》はようやく足を止めた。
たどり着いたのはエジプトの端、葦の海を見渡せる崖の上。《それ》が身を屈めて崖の下の荒地を見やると、かつて見たことのない光景が広がっていた。
葦の海の方は良く晴れていた。海辺には多くの人々がいたが、人々はやたらと後ろを気にしていた。
人々の視線の先には、真っ黒な雲が立ち上っていた。崖の上からどんなに目を凝らしても、その雲の中を見ることはできない。《それ》は眉をひそめた。
やがて、《それ》は気が付いた。海の間際に一人立つ男の存在に。男は海に向かって手を差し伸べ、沈黙しながら立っていた。
《それ》は男の横顔を見て、息を呑んだ。
《それ》はひどく掠れた声で、しかし確かにそう叫んだ。
しばらく、《それ》は男の様子を見守っていた。男は相変わらずじっと海と相対し続けている。やがて、《それ》はある異変に気が付いた。
葦の海が割れている。────
《それ》は戦慄した。四肢を地面に縫い付けられたように、いっさいの身動きがとれなくなった。《それ》は吸い寄せられるように、割れゆく海と、手を差し伸べる男とを見つめた。
どれだけの時間が経っただろう。或いは、大した時間を要さなかっただろうか。とにかく海は完全に二つに割れ、間に乾いた地が現れていた。ずっと黙って立ち続けていた男が、一歩足を踏み出す。そのとき──そのとき、《それ》は叫んだ。
モーセさま! あなたは! あなたは……!!
そうなのですね、そうだったのですね!!
あなたは、……貴方は“真の”神の使いであられたのですね!!
そう、そうでなければ、こんな…………ああ、ああ、あの、あの災いも…………!!!!
《それ》の声に気付いたのか、はたまた単なる偶然か──男は顔を上げた。
男の両目は真っ直ぐに《それ》を射抜く。《それ》は息を呑み、いつかの感覚を思い出した。
勝てない。──《それ》がそう思った、そのときだった。
人の群れの後方を覆っていた真っ黒な雲が晴れ、その中にいた人々、すなわちエジプトの軍隊が一斉に鬨の声を上げた。
轟々と戦士らの声が湧きあがる。彼らの前を行く人々、ヘブライ人たちは叫び、駆け出そうとしたが、あの男がそれを制した。
《それ》がどんなに叫んでも、男はもう振り向かなかった。
エジプト軍が、ヘブライ人を追って海の中へ進攻してゆく。《それ》は崖の上からその様を見、胸騒ぎを覚えた。
──勝てない、勝てないんだ。エジプトの神を信じてたって──心中でそう呟いた刹那。
エジプト軍の進攻が止まった。馬の嘶く声が響く。いくつもの戦車の車輪が同時に外れ、進軍が困難になったのだ。そうこうしている内に、ヘブライの民は遠く彼方へと行ってしまった。エジプト軍の戦士たちは来た道を戻ろうとしていた。しかし、──《それ》は目を見開いた。
海が、右と左に二つに分かれ聳えていた海が、じわじわと元に戻ろうとしていた。うろたえるエジプト軍に、大水は容赦なく覆いかぶさる。死者の心臓をむさぼり食らうというアメミトの如くに。屈強な戦士たちの絶叫が虚しく空に響く。が、
──全て、海の中に飲み込まれてしまった。
生前、どうするのが正解だったのだろう──《それ》は考えた──あの方を無理やりにでもラー神に帰依させられたなら、こんなことにはならなかったのではないか。こんな、民全体の信仰が揺るがされるような事態にはならなかったのではないか。こんな、民の命が損なわれるような事態にはならなかったのではないか。こんな、……あの日の、誰よりもエジプトを愛した王女の笑顔を裏切るような事態には、ならずに済んだのではないか──
《それ》は絶叫した。泣いた。喚いた。叫んだ。
頭を抱えて、喉を嗄らして、涙を涸らして、叫びつづけた。
葦の海は、エジプト兵らを飲み込んだことなどはるか遠き過去であったかのように装って、穏やかな波の音を鳴らしていた。