身を屈めて水面を見つめる男女と、それを遠巻きに眺める女たち。その隙間を縫うように、砂まじりの風が吹き抜けていった。
水面を見つめていた娘――王女ハトシェプストはそう言って、真珠のような涙のひと滴を落とした。
共に屈んでいた青年、ネフェルジェセルは、彼女の肩に手を置こうとした。が、その手は空を掻いただけだった。
彼の表情にはためらいがにじんでいた。
ええ、……でも、私を慰めないでね。
辛いのは私ではないのだから。私が、慰めに来た立場なのだから。……
そうは言っても、やはり王女は泣いていた。それを見たネフェルジェセルは首を横に振りかけたが、思いとどまって首肯した。
彼はポツリとそう言った。対する王女は黙っていた。彼は続ける。
……ハトシェプストさま。確かに、あなたは“最も高貴なる女性”であられる。
弱き者、小さきものを顧みる深き慈愛の心をお持ちであられる。
あなたのようなお方が王になられたら、どんなにこの国は平和になるでしょう。……
無理な話よ。
でも、このエジプトを、もっと平和な国にはしたいわね。少なくとも、こんな、……こんな、犠牲者を出してしまわずに済むような……
王女はナイルの川面に手を浸し、ヒラヒラと水中を漂わせた。ぱしゃり、ぱしゃりと水音が鳴る。
合理的でないのよ、父――
王は。頑ななの。でもそれって良くないことだわ。先を考えてない。
……ほら、今、口減らしと戦意を削ぐためにヘブライに生まれる男児を殺しているわけでしょう? でも、二十年したらきっと今度はこう言うのよ。『労働力が足りない。ヘブライの者どもは何をしているのだ』って。
笑っちゃうわよね。自分で言い出したのに何言ってんのよ、あんたが殺したんでしょ、って。だったら、いっそヘブライ人をエジプトから追い出したって同じことでしょうに。ねえ、そう思わない?
あなたは聡明であられる。私も同じことを思っておりました。
あら、さりげなく『俺賢い』アピールを挟まないでよね!
昔っから、大真面目な顔して変なところで冗談を挟んでくるんだから……
変わらないわね、あなたは。
王女は小さく笑った。それにつられて、彼も微笑んだ。
王女が矢庭に立ち上がったので、ネフェルジェセルは訝しげに眉をひそめた。
川のせせらぎと共に、かすかな声が聞こえた。
子どもの声だ。それも、赤子の。――
王女はネフェルジェセルの制止も聞かず、侍女たちを伴って声のする方へ駆け出した。
仕方なしに、彼も彼女らの後を追う。
王女の指示を受けて、侍女の一人が川のほとりに群生する葦を掻き分けだした。
ようやく追い付いたネフェルジェセルを手で制し、王女はある一点を指さした。
群生する葦の中に、明らかに人の手によって編まれたパピルスの籠がある。そこから、――そこから、赤子の声がした。
……きっとヘブライ人の子だわ。サギラ。その籠をこちらに。
王女さま! たしかに籠の中から赤子の声が聞こえます!
侍女は籠を王女に手渡した。
王女が籠を開けると、その中には玉のように可愛らしい赤子がいた。母を求めているのだろうか、小さな手で空を掻きながら泣いている。
王女はその子を抱き上げ、熱いため息を吐いた。
ああ、……これはきっと、ヘブライ人の子どもだわ。
おお、よしよし。そう泣かないでちょうだい。この私が引き上げたのだから、もう恐れることはないわ。
うん、よしよし。泣かない、泣かない、……うん、お利口さん。うふふ
王女はまるでその子の母であるかのようにその子をあやした。
ネフェルジェセルも、その子のあまりの可愛らしさに頬が緩む。
王女は言った。
私、この子の母になるわ。この子を王宮で育てます。私が引き出した命だもの
ハトシェプストさま、それは、……――
いや、私は貴女さまを止めはしません。確かに貴女さまなら、王を説得することもできましょう。
しかし、その子の食事はどうするのでしょう。その子には、乳を飲ませてくれる乳母がおりませんよ?
なんか、……なんか、こう、奇跡って起きないものかしら。母性に目覚めて出て来たりしないかしら。
葦の群れの奥から、ヘブライ人の少女が現れた。一目見ただけではっとするような、目鼻のくっきりとした美しい少女だ。
彼女は地に伏して言った。
王女さま、畏れながら申し上げます。
私が、貴女に代わってその子に乳を飲ませることのできるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょう。私の知っている者で、乳の出る者がおります。
まあ、本当!?
ヘブライ人の娘よ、そうしておくれ。
……ああ、待って。おまえ、名はなんというの?
少女、ミリアムは顔を上げた。
彼女の顔をじっと見、王女は目を見開いた。
王女とミリアムはしばし見つめあっていたが、王女の方が頭を振って口を開いた。
……ええ、ミリアム。
おまえの言った通り、この子のためにヘブライ人の乳母を呼んできておくれ
ミリアムは深く一礼した後、その場を走り去っていった。
王女さま。どうなさったのですか?
あの娘の顔をしげしげと見つめられて……
青年が問うと、王女は自ら抱きかかえている赤子の顔を見せながら言った。
きっとミリアムはこの子の姉よ。ほら、眉と目のあたりが似ているわ。
そして、彼女が連れて来る乳母というのは、きっとこの子の実母よ。
……この子の家族は、本当にこの子のことを守りたかったのね。
話している途中で、ミリアムが一人の女を伴って戻って来た。彼女らは王女の前でひれ伏し、言った。
王女さま。この女が、先ほど申し上げたヘブライ人の女であります。
彼女はこのほど子を産んだばかりで、乳が出る者です。
そう畏まらないで良いわ。面をお上げなさい、ヨケベド。
女、ヨケベドは震えながらもその顔を上げた。目鼻のくっきりとした美しい女だ。
ミリアムとよく似ていた。そして王女の腕に抱かれている赤子にも、とてもよく似ていた。
王女は小さく呟いて頷いた。
ヨケベドとミリアムは視線を通わせ、不安そうに唇を震わせている。
王女の腕の中で、赤子がまたぐずりだした。王女は温かい目で赤子を見つめながら言った。
ヨケベドよ。
この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私がその賃金を払いましょう。
ヨケベドは目を見開いてぽかんとしていたが、やがて王女の言葉が飲み込めたらしく、弾かれたように立ち上がった。
ええ、畏まりました、王女さま!
あなたさまの御計らいに感謝致します!
ええ。ただ、この子が大きくなったら、私のもとに連れてきてちょうだいね。そのとき、私はこの子を正式に私の子、このエジプトの王子とするから。……
そして王女は、その腕に抱いていた赤子をヨケベドに渡した。
ヨケベドは赤子を抱きしめ、感涙に咽ぶ。ミリアムも、ヨケベドの肩に手を添えながら、うれし涙に頬を濡らした。
王女は二人に言った。
ヨケベド。ミリアム。その子の名は「モーセ」とします。
私が、その子を――ヘブライ人のその子を、水の中から引き出した。そして、エジプト人たる私の子とした。だから、その子の名はモーセです。引き出した、子供であるから。よいですね?
女たちは赤子、モーセを抱いてひざまずき、深く頭を垂れた。
そして、二言三言王女と言葉を交わした後、その場を去って行った。
あのヘブライ人の女を王宮に召し入れるという手もありましたでしょうに、どうしてあの女の手に託したのですか?
王女は立ち止まって、ナイルのほとりに屈みこんだ。
手で水をすくい、飲むでもなく、顔を洗うでもなく、しばらく眺めて後、また川に流す。それを幾度か繰り返した。
ネフェルジェセルは何かを暗示するような彼女の一挙手一投足を見つめながら、首を傾げた。
王女が口を開いた。
ふふ、あなたもまだまだね、ネフェルジェセル。
……あのね。本当に一瞬だったのよ。
ミリアムとヨケベドの瞳を見た瞬間に思ったの。
「ああ、勝てないな」……って、ね。
ネフェルジェセルは相変わらず首を傾げていた。
王女は微笑んで、
あら、わからない?
まあ、でも、そういうことなのよ。『勝てないな』って、それだけ。
あの子はあの家族のもとで、そしてヘブライ人の中で育てられるべきなの。
それを一瞬で直感したのよ。
……でも、私の庇護が無いとそうもいかないっていうのが現実。だからああいう手を使ったわけ。
なるほど、それは……貴女さまらしいお考えでございますね。
もちろん。
私は貴女さまの貴女さまらしいお考えが何よりよろしいと常々思っております。
さあ、帰りましょう。
忙しいわよ。父を説得して、あの一家に護衛をつけさせなくてはね。
さ、行くわよ!
王女が足取り軽くスタスタと行ってしまうので、ネフェルジェセルはあわててその後を追った。