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文字数 4,017文字

B.C.1507

ぱしゃり、と水の跳ねる音が響いた。
……
……
身を屈めて水面を見つめる男女と、それを遠巻きに眺める女たち。その隙間を縫うように、砂まじりの風が吹き抜けていった。
かわいそうに
水面を見つめていた娘――王女ハトシェプストはそう言って、真珠のような涙のひと滴を落とした。

共に屈んでいた青年、ネフェルジェセルは、彼女の肩に手を置こうとした。が、その手は空を掻いただけだった。

彼の表情にはためらいがにじんでいた。

……王女さま
ええ、……でも、私を慰めないでね。

辛いのは私ではないのだから。私が、慰めに来た立場なのだから。……

そうは言っても、やはり王女は泣いていた。それを見たネフェルジェセルは首を横に振りかけたが、思いとどまって首肯した。
あなたは名前通りのお方です
彼はポツリとそう言った。対する王女は黙っていた。彼は続ける。
……ハトシェプストさま。確かに、あなたは“最も高貴なる女性”であられる。

弱き者、小さきものを顧みる深き慈愛の心をお持ちであられる。

あなたのようなお方が(ファラオ)になられたら、どんなにこの国は平和になるでしょう。……

王女は小さく首を横に振った。
無理な話よ。

でも、このエジプトを、もっと平和な国にはしたいわね。少なくとも、こんな、……こんな、犠牲者を出してしまわずに済むような……

王女はナイルの川面に手を浸し、ヒラヒラと水中を漂わせた。ぱしゃり、ぱしゃりと水音が鳴る。
合理的でないのよ、父――(ファラオ)は。頑ななの。でもそれって良くないことだわ。先を考えてない。

……ほら、今、口減らしと戦意を削ぐためにヘブライに生まれる男児を殺しているわけでしょう? でも、二十年したらきっと今度はこう言うのよ。『労働力が足りない。ヘブライの者どもは何をしているのだ』って。

笑っちゃうわよね。自分で言い出したのに何言ってんのよ、あんたが殺したんでしょ、って。だったら、いっそヘブライ人をエジプトから追い出したって同じことでしょうに。ねえ、そう思わない?

あなたは聡明であられる。私も同じことを思っておりました。
あら、さりげなく『俺賢い』アピールを挟まないでよね!

昔っから、大真面目な顔して変なところで冗談を挟んでくるんだから……

変わらないわね、あなたは。

王女は小さく笑った。それにつられて、彼も微笑んだ。
そのときだ。
!!
……?

王女さま?

王女が矢庭に立ち上がったので、ネフェルジェセルは訝しげに眉をひそめた。
ハトシェプストさま、どうか致しましたか?
向こうに何か浮いてるわ。

……籠?

それに……

川のせせらぎと共に、かすかな声が聞こえた。

子どもの声だ。それも、赤子の。――

あっちから聞こえる!

行くわよ!!

あっ、王女さま!

お待ちください!!

王女はネフェルジェセルの制止も聞かず、侍女たちを伴って声のする方へ駆け出した。

仕方なしに、彼も彼女らの後を追う。

サギラ!

あの籠を引いてきてちょうだい!

はっ、畏まりまして御座います
王女の指示を受けて、侍女の一人が川のほとりに群生する葦を掻き分けだした。
王女さま! ……
ようやく追い付いたネフェルジェセルを手で制し、王女はある一点を指さした。

群生する葦の中に、明らかに人の手によって編まれたパピルスの籠がある。そこから、――そこから、赤子の声がした。

……きっとヘブライ人の子だわ。サギラ。その籠をこちらに。
侍女はその籠を手繰り寄せ、引き出した。
王女さま! たしかに籠の中から赤子の声が聞こえます!
侍女は籠を王女に手渡した。

王女が籠を開けると、その中には玉のように可愛らしい赤子がいた。母を求めているのだろうか、小さな手で空を掻きながら泣いている。

王女はその子を抱き上げ、熱いため息を吐いた。

ああ、……これはきっと、ヘブライ人の子どもだわ。

おお、よしよし。そう泣かないでちょうだい。この私が引き上げたのだから、もう恐れることはないわ。

うん、よしよし。泣かない、泣かない、……うん、お利口さん。うふふ

王女はまるでその子の母であるかのようにその子をあやした。

ネフェルジェセルも、その子のあまりの可愛らしさに頬が緩む。




王女は言った。

私、この子の母になるわ。この子を王宮で育てます。私が引き出した命だもの
ハトシェプストさま、それは、……――

いや、私は貴女さまを止めはしません。確かに貴女さまなら、(ファラオ)を説得することもできましょう。

しかし、その子の食事はどうするのでしょう。その子には、乳を飲ませてくれる乳母がおりませんよ?

王女は眉間に皺を寄せ、自分の乳房を押し始めた。
なんか、……なんか、こう、奇跡って起きないものかしら。母性に目覚めて出て来たりしないかしら。
無理かと存じます
そんなハッキリ言わないでよ! どうしましょう……
そのときだ。
あの、……王女さま! 王女さま!
葦の群れの奥から、ヘブライ人の少女が現れた。一目見ただけではっとするような、目鼻のくっきりとした美しい少女だ。


彼女は地に伏して言った。

王女さま、畏れながら申し上げます。

私が、貴女に代わってその子に乳を飲ませることのできるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょう。私の知っている者で、乳の出る者がおります。

まあ、本当!?

ヘブライ人の娘よ、そうしておくれ。

……ああ、待って。おまえ、名はなんというの?

ミリアムと申します。
少女、ミリアムは顔を上げた。

彼女の顔をじっと見、王女は目を見開いた。

ミリアム、おまえは……
…………
王女とミリアムはしばし見つめあっていたが、王女の方が頭を振って口を開いた。
……ええ、ミリアム。

おまえの言った通り、この子のためにヘブライ人の乳母を呼んできておくれ

かしこまりました。すぐ参ります!
ミリアムは深く一礼した後、その場を走り去っていった。
王女さま。どうなさったのですか?

あの娘の顔をしげしげと見つめられて……

青年が問うと、王女は自ら抱きかかえている赤子の顔を見せながら言った。
きっとミリアムはこの子の姉よ。ほら、眉と目のあたりが似ているわ。

そして、彼女が連れて来る乳母というのは、きっとこの子の実母よ。

……この子の家族は、本当にこの子のことを守りたかったのね。

話している途中で、ミリアムが一人の女を伴って戻って来た。彼女らは王女の前でひれ伏し、言った。
王女さま。この女が、先ほど申し上げたヘブライ人の女であります。

彼女はこのほど子を産んだばかりで、乳が出る者です。

よ、ヨケベドと申します……。
そう畏まらないで良いわ。面をお上げなさい、ヨケベド。
女、ヨケベドは震えながらもその顔を上げた。目鼻のくっきりとした美しい女だ。

ミリアムとよく似ていた。そして王女の腕に抱かれている赤子にも、とてもよく似ていた。

……なるほどねぇ

王女は小さく呟いて頷いた。

ヨケベドとミリアムは視線を通わせ、不安そうに唇を震わせている。




王女の腕の中で、赤子がまたぐずりだした。王女は温かい目で赤子を見つめながら言った。

ヨケベドよ。

この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私がその賃金を払いましょう。

ヨケベドは目を見開いてぽかんとしていたが、やがて王女の言葉が飲み込めたらしく、弾かれたように立ち上がった。
ええ、畏まりました、王女さま!

あなたさまの御計らいに感謝致します!

ええ。ただ、この子が大きくなったら、私のもとに連れてきてちょうだいね。そのとき、私はこの子を正式に私の子、このエジプトの王子とするから。……

そして王女は、その腕に抱いていた赤子をヨケベドに渡した。

ヨケベドは赤子を抱きしめ、感涙に咽ぶ。ミリアムも、ヨケベドの肩に手を添えながら、うれし涙に頬を濡らした。




王女は二人に言った。
ヨケベド。ミリアム。その子の名は「モーセ」とします。

私が、その子を――ヘブライ人のその子を、水の中から引き出した。そして、エジプト人たる私の子とした。だから、その子の名はモーセです。引き出した(マーシャー)子供(メセス)であるから。よいですね?

女たちは赤子、モーセを抱いてひざまずき、深く頭を垂れた。

そして、二言三言王女と言葉を交わした後、その場を去って行った。


王宮に戻る途中、ネフェルジェセルが王女に尋ねた。

よかったのですか、王女さま?
何がよ?
あのヘブライ人の女を王宮に召し入れるという手もありましたでしょうに、どうしてあの女の手に託したのですか?
ああ、そのこと?

王女は立ち止まって、ナイルのほとりに屈みこんだ。

手で水をすくい、飲むでもなく、顔を洗うでもなく、しばらく眺めて後、また川に流す。それを幾度か繰り返した。

ネフェルジェセルは何かを暗示するような彼女の一挙手一投足を見つめながら、首を傾げた。




王女が口を開いた。
わからない、って顔してるわね
実際わかりませんからね
ふふ、あなたもまだまだね、ネフェルジェセル。

……あのね。本当に一瞬だったのよ。

と、言いますと?
ミリアムとヨケベドの瞳を見た瞬間に思ったの。

「ああ、勝てないな」……って、ね。

……つまり?
ネフェルジェセルは相変わらず首を傾げていた。

王女は微笑んで、

あら、わからない?

まあ、でも、そういうことなのよ。『勝てないな』って、それだけ。

あの子はあの家族のもとで、そしてヘブライ人の中で育てられるべきなの。

それを一瞬で直感したのよ。

……でも、私の庇護が無いとそうもいかないっていうのが現実。だからああいう手を使ったわけ。

なるほど、それは……貴女さまらしいお考えでございますね。
褒めてる?
もちろん。

私は貴女さまの貴女さまらしいお考えが何よりよろしいと常々思っております。

あら、そう? 嬉しいこと言ってくれるのね!
王女は立ち上がって、手についた水を払った。
さあ、帰りましょう。

忙しいわよ。父を説得して、あの一家に護衛をつけさせなくてはね。

さ、行くわよ!

あ、お、王女さま、お待ちを……!
王女が足取り軽くスタスタと行ってしまうので、ネフェルジェセルはあわててその後を追った。
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登場人物紹介

名前:アルカード

通称:アルさん

一人称:ワタクシ

性別:男

種族:吸血鬼


概要:白い髪、白い肌、紅い瞳が特徴的な、ルーマニア出身の吸血鬼。いわゆる「ドラキュラ公」の息子…だけど、そのことは秘密(らしい)。

紆余曲折あって、現在は日本の都心からちょっと離れた微妙な片田舎で、怪物支援施設【ヴァンパイアの館】を運営している。

怪物福祉協会認定の“ウラ社会”福祉士。【ヴァンパイアの館】の管理責任者、常勤カウンセラー、指導員。

性格はおおらか、朗らか、THE・善人。

吸血鬼だが血は苦手。長年血を飲んでいないためか、日光にあたっても無問題。血の代わりにしばしば薔薇を摂取( )する。ラーメンの上にも薔薇の花びらを散らすので、【館】の住人たちにはドン引きされている。比較的真人間(人間じゃない)だけどたまに変な人(人じゃない)。

好きなブランドはATELIER B○Z。いつも貴族みたいな恰好をしている。実際貴族なのだが。


作成者:波多野琴子

名前:アルフレッド・スミス

通称:フレディ

一人称:俺

性別:男

種族:ミイラ


概要:【ヴァンパイアの館】の住人の一人。現在の住人の中では最もアルカードとの付き合いが長い。ロンドンの博物館から逃亡していたところを保護された。

他の住人と違い、何らかの問題や生きづらさ(既に死んでるけど)を抱えているわけではない。利用者というよりはむしろ居候ひとりのスタッフのような存在。

クールでありたいけどクールに徹しきれないツッコミ役。みんなの兄貴分。

ロックとマンガとサブカルチャーを愛し、常に流行を追っている。わりと私服はパンク系。……と、あたらしいもの好きっぽいけど、実際はものすごく大昔の人らしい。まあミイラといえばアレですよね、古代エジプトとか。残念ながら、本人は生前のことを全く覚えていない。覚えていないことを残念がってすらいない。


作成者:波多野琴子

名前:紅葉(もみじ)

通称:紅葉・紅葉ちゃん

一人称:おいら

性別:?

種族:鬼


概要:【ヴァンパイアの館】の住人の一人。

開国直後、とある見世物小屋でこき使われていたところをアルカードに保護された。

故郷を追われたり人々に嫌われたりこき使われたりと散々な目に遭ってきたため、PTSD様の症状に悩まされている。【ヴァンパイアの館】の住人たちとの共同生活を通して療養中。

暗闇や夜が大の苦手だが、それ以外の明るい空間・時間帯にはわりとヘラヘラと楽しそうにしている。

のんびり屋でマイペース、【館】のムードメーカー的存在。

絵を描いたり観たりすることが好き。最近ユ○キャンで水墨画のテキストを取り寄せたとか。ただしおっちょこちょい(というかアホのこ)なので高確率で墨や画材をぶちまける。


作成者:波多野琴子

名前:ロカ

通称:ロカ、ロカちゃん、ロカっち など

一人称:私

性別:女

種族:魔女(?)


概要:【ヴァンパイアの館】の住人の一人。

金髪・緑眼が特徴的な美しい女性。長年ヨーロッパの各地を転々とし独り暮らしをしていたようだが、限界を感じたらしく協会に助けを要請し、【館】を紹介されて入居してきた。

過去のことを頑なに語ろうとしないが、アルカードには「一種の多重人格障害のようなもの」とだけ伝えたことがある。とにかく詳細は謎。

そもそも魔女なのかどうかも謎で、魔術というよりはむしろ錬金術のようなものに傾倒しており、よく何かの実験をしては部屋を爆発させ、アルカードを悩ませている。

基本的には元気なポジティブお姉さん。【館】の盛り上げ役。そしてボケ役。

アルフレッド曰く「ロカちゃんとアルさんが並んで喋ってるとツッコミが追い付かない」とのこと。


作成者:波多野琴子

名前:関建(Guang1 Jian4、グァン・ジェン)

通称:ジェン

一人称:オレ

性別:男

種族:僵屍(キョンシー)


概要:【ヴァンパイアの館】の住人の一人。

いかにも中国人っぽい恰好をしている。実際中国人。清代の人で、蘇州出身。

【館】が中国にあった頃、湖南省は武陵の奥地にて発見・保護された。

過去のことをあまり話したがらないので、彼の過去については保護の現場に立ち会ったアルカードとアルフレッドしか知らない。

かなり重い過去を背負っているのだが、普段はそれを感じさせないほどに(或いは感じさせないように)ハイテンションに振る舞っている。

性格は繊細、それでいながら楽天家。

「いろいろあるけど、まあどうにかなるヨ」といったスタンスで生きている(※死んでる)。

「~だヨ」とやけにカタコトで話す癖があるが、実は真面目に話そうと思えば流暢な日本語を話すこともできる。「でもさ、ホラ、なんとかだネ~って話したほうが、いかにもちゃいにーず!って感じするでしょ?」とは本人の談。


作成者:波多野琴子

名前:ルドルフ

通称:ルドルフ、ルド、ルディ

一人称:おれ

性別:男

種族:オオカミ人間


概要:【ヴァンパイアの館】の住人の一人。

住人の中で二番目に若い(生きた年数で言うなら一番若い)。

家出少年、ならぬ家出オオカミ少年。

アメリカで両親と一緒に暮らしていたが、いろいろと思うところがあったらしく家出し、各地をさすらった挙句【ヴァンパイアの館】に辿り着いた。

基本的に人間の顔に狼の耳・しっぽを出した状態で生活しているが、必要に応じて狼になることも人間になることもできる。中間ぐらいの格好でいるのは「こうしているのがいちばん疲れなくて良いから」とのこと。

基本的に無口・無表情だが感情の起伏は激しい。

口では喋らないけどTwitt○rなどのSNSではめちゃくちゃ騒ぐタイプ。

いかにもな現代っ子で、常時スマホを手放さない。いろいろなソシャゲに手を出しまくっている関係で、ハロウィンやらクリスマスやらのイベントが重なりまくる時期はそれなりに大変そう。よくジェンと一緒にスマ○ラをやっている。


作成者:波多野琴子

名前:みずは

通称:みずは、みーちゃん

一人称:みずは

性別:女

種族:川の精?


概要:【ヴァンパイアの館】の一人。住人の中では、今のところいちばんの新参者。といっても、既に【館】で暮らし始めて五十年近くになる。

種族が何だかいまいち判然としないふしぎな子。本人もよく分かっていないようだが、どうやら「川の概念が身体を得たもの」らしい。高度経済成長期に進められたダム開発によって涸れ川となった川に一人佇んでいたところを保護された。

紅葉がさすらいの旅をしていた頃に会ったことがあるとのことで、軽く千年ぐらいは生きているようだが、なぜかいつまでも四歳ぐらいの幼女のままである。

冬でもいつも浴衣姿。本人曰く「川っぽくていいでしょ」とのこと。

最近はセカンドブームが到来したムシ○ングにハマっているらしく、【館】でもかぶとむしを飼っている(ちなみにそのかぶとむしの名前は『イワレビコ』。ネーミングセンスが無い古い)。

天真爛漫、マイペース、自由人(人じゃない)。


作成者:波多野琴子

名前:ハトシェプスト・クヌムトアメン

性別:女


概要:古代エジプト第18王朝第3代ファラオ・トトメス一世の娘。後第4代ファラオ・トトメス二世の王妃。さらには自ら第5代ファラオとして君臨する(即位名はマアトカラー)。

名前:ネフェルジェセル

性別:男


概要:王女ハトシェプストの側近の一人。乳兄弟。

彼女がファラオとして即位した後も彼女の傍で仕えた。

王女が拾って来たある子の世話係も兼任する。

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