王女ハトシェプストに呼ばれ、ネフェルジェセルは急いで彼女の前に出てひざまずいた。
私、王になれるかしら。ねえ、どう思う?
ネフェルジェセルは呆気に取られて、ハトシェプストの顔を見上げた。
しかし、王女の瞳を見て、彼はごくりと生唾を飲み込む。
王女は黙って、じっと彼の顔を見つめて頷いた。どこまでも真っ直ぐな、透き通った瞳で。しかし、――ネフェルジェセルは考えた――こんなにも、このお方の瞳は深かっただろうか。無邪気で、天真爛漫で、少しかんしゃくもちの気のあったあの王女が、一体いつから王にふさわしい威厳を持つようになったのだろう――ネフェルジェセルの胸は感激に震えた。
彼は続けて言葉を紡いだ。
……今の王朝では、女王は出たことがありませぬ。しかし、それ以前ならば。
王ネチェルカラーがおられたわね。女でありながら王となられたといわれるお方が。
ネフェルジェセルは頷いた。王女は満足そうにほほ笑み、長椅子に腰かけた。
そう……そうね。可能性はあるのよ。必ずしも不可能ではないわ。何と言ったって私はトトメス――アアケペルカラーの長子なんだから。うふふ
しかし、王女さま。何故、突然そのようなことを……?
あら、突然じゃないわ。前々から思っていたことよ。
まあ、そうね。何故って言えば、……極端な言い方をすれば、私が王の子だから、だけど。
……ネフェルジェセル。貴方なら、それ以上の私の本心、聞くまでもなくわかるでしょう?
……貴女は、エジプトを愛しておられる。誰よりも。
今の王よりも、エジプトを愛しておられます。王の娘であられるといった立場のことを差し引いても、貴女はエジプトを愛しておられます。国土も、国力も、民も、すべて包括して「エジプト」を愛しておられます。
だから、ですか?
ええ、そう! そうよ!
うふふふ、褒めて遣わすわ。つまりはそういうことよ!
王女は少女のようにパッと笑って、鼻歌まじりにネフェルジェセルに歩み寄った。
ふふ、流石に私のことよくわかってるわね。
生まれたときから、ずーっと一緒にいてくれたから。
うふふ、私と貴方の仲じゃない!
姉弟みたいなものなんだから、そう固くならないで。
……ああ、あなたになら安心して任せられそうだわ。
父が差し向ける家庭教師なんかより、ずっとずっと信頼できるわね!
か、家庭教師……?
ハトシェプストさま、それは一体どういう……
王女はいたずらをした子どものようにニヤリと笑い、背後に控えていた侍女に声を掛けた。
いったい何事かと、ネフェルジェセルは訝しげに周囲を見回した。
ハトシェプストさま?
あの、……この私に、いったい何をお命じになられるのですか?
うん? すぐに分かるわ。
さあ、あちらを御覧なさい!
王女に言われるがまま、彼は背後を振り向いた。
侍女に連れられて、一人の少年が部屋に入ってくる。
ネフェルジェセルはその子の顔を見た刹那、あっと声を上げた。
うふふ、ちゃんと覚えていたのね。それは何よりだわ。
……さあ、こちらへおいでなさい、我が子モーセよ。
見るからに聡明そうな少年は、王女に誘われるままその前に進み出でた。
母上さま、ご機嫌麗しゅう。モーセが参りましてございます!
少年――モーセが子どもらしい元気な声であいさつをすると、王女は目を細めて笑い、抱き寄せてその頭を撫でた。
おお、モーセよ。よく来てくれた。よく、ここまで立派に育ってくれた。……
モーセよ、これから貴方はこの母と暮らすのですよ。王宮なら、怖いものなど何も無いのですよ。
いいお返事ね、お利口さん。
そしてモーセ、そこにおる男が、貴方の教育係のネフェルジェセルですよ。
唐突な展開に、ネフェルジェセルは目を丸くした。少年モーセは、ネフェルジェセルの表情にはお構いなしに彼の前に進み出でて言う。
ネフェルジェセル。これからお世話になります!
よろしくお願いします!
え……
あ……か、畏まりました、モーセさま…………?
よしよし、お利口さん。うんうん、ヨケベドの教育が良かったのね!
さあ、モーセ。今日のところはもうお部屋でおやすみなさい。そこの侍女、サギラが貴方を連れて行ってくれますよ。
侍女が彼を連れて部屋を出るのを見届け、
ネフェルジェセルは王女に向き直って言った。
ど、どうしてですか!
どうして貴女はこう、いくら養子とはいえ、お、王子さまの教育係という、そんな、た、大役を!
そんな! ホイホイと! お決めになられるんです!?
しかも私に、その大役を任せようとされるのですか!⁉
あら、その方が面白いからよ。決まってるでしょ?
……あ、今の貴方の顔、すっごく面白いわよ
王女は心底楽しそうにニヤニヤ笑っている。
ネフェルジェセルはため息をついた。
ええ、それはまあそうですが……
それにしても、なぜ私をモーセさまの教育係に?
私は貴女様の乳兄弟に過ぎませぬ。本来、このように貴女様のお傍に置き続けていただくなど、……
決まってるじゃない。
ネフェルジェセル、貴方が一番信頼できるからよ。
もちろんサギラも、最近よく出入りするようになったセンムトも、あの子もこの子も、私はみーんな大好きよ。感謝もしてるわ。
でも、その中でも貴方は一番。
誰よりもよく仕えてくれてるもの。
だから、あの子のことも任せられるわ。きっとあの子にも真摯に仕えてくれるだろうって、そう踏んだわけ。
ネフェルジェセルはカッと目頭が熱くなるのを感じ、顔を伏せた。喜びの余りにじむ涙を見られてしまわないように。
彼は声が震えてしまわないように気をつけながら――と言っても実際は震えていたのだが――言った。
そういうことでしたら、
……ええ、精一杯、働きますとも。貴女様のために、そしてモーセさまのために!
ええ、もちろん貴方ならそうしてくれると知っているわ。全力で励んでちょうだい。
王家の子として、あの子をしっかり教育してちょうだいね
ネフェルジェセルは深々と頭を下げて礼をし、王女の部屋を後にした。
王子の教育のため、用意せねばならぬものごとがたくさんあるのだ。