ニコニコと微笑む王子モーセを前に、ネフェルジェセルは閉口した。
恐れながら申し上げますがね、はっきり言って嫌です!
何を申し上げても反論されるおつもりなのでしょう、貴方は……
反論ではありません、抱いた疑問を口にしているまでです。
教えてください、どうしてイアルの野が楽園だとわかるのですか?
イアルの野が西の方にあるというなら、この世の生を終えずとも、ただ西の方に旅をすれば辿り着くのではありませんか?
アメミトに心臓を食われて第二の死を迎えた人々の、生まれてきた意味とは何ですか?
それから――
あーハイハイハイちょっと待ってください。一つずつ。一つずつ仰ってください、私の耳は二つしかありません
神がたくさんいるのはどうしてですか?
一つの決まった仕事しかできないからですか?
もしそうであるならば、神は有限なのですか?
有限の神にどうしてそこまで頼れるのですか? 神は――
王子モーセが王宮に来てから、八年余りの時が経っていた。
先王アアケペルカラー、すなわちトトメス一世は既にこの世を去り、アアケペルエンラーの時代となっていた。あのハトシェプストは王妃となり、その養子であるモーセは、王位継承権こそないものの、王の子としての扱いを受けていた。このネフェルジェセルは彼の教育係として彼に従い、エジプトの歴史、生活、信仰等々を教授していた――のだが、ここ最近はすっかり気が滅入っていた。
というのも、この王子モーセは何を言っても疑問形で鸚鵡返ししてくるのだ。それが八年も続けば、ただ「勉強熱心で結構」では片づけられなくなってくる。
数年経ったあたりから、ネフェルジェセルは気付いていた。
はい。前にも言ったかと思います。ぼくは納得するまで信じられません!
そう、モーセはエジプトの神々を、神として認めていないのだ。ネフェルジェセルは二度目の大きなため息をついた。
しかし、モーセさま。それでは貴方は、貴方のご家族を否定されることになります。
貴方の母君は先の王の御子であられ、今の王の妃。いわば神の御子、神の妻です。貴方さまはそのハトシェプストさまのご子息なのですよ?
うーん、ぼくにはそうは思えないのです。
だって、御祖父さまはヘブライ人の子供が生まれてくるのを、未然に止められなかったではありませんか。
神であるなら、子が生まれてきてから殺すのではなく、最初から子を母の胎の内に造らなければよいではありませんか。そうは思いませんか?
だから、王はそういう、人の誕生を司る神ではなく……
では先ほどの質問に戻りますが、神がたくさんいるのはどうしてですか?
一つの決まった仕事しかできないからですか?
もしそうであるならば、神は有限なのですか?
有限の神にどうしてそこまで頼れるのですか?
ため息をつくネフェルジェセルとは対照的に、モーセはニコニコと年相応の笑みを浮かべた。
ネフェルジェセル。あなたは真面目ですね。ぼく、あなたのそんなところが大好きです。
あなたはぼくの問い一つ一つに真摯に答えようとしてくれる。
ネフゥルラー姫の教育係であるセンムトは、こんなにきちんと答えようとしてくれませんもの。
……まあ、あなたの答えに納得できたこともありませんが
嬉しいお言葉を賜り光栄ですがね、一言二言余計です!
あはは! すみませんね、ネフェルジェセル。ぼくの悪い癖です
もはや何度目かもわからぬため息をつきながら、ネフェルジェセルはモーセの顔に目をやった。
モーセは相変わらずニコニコと笑みを浮かべて、小首をかしげている。
彼の瞳は曇りなく爛々と輝いており、ネフェルジェセルの言葉の続きを期待しているようであった。
無論、ネフェルジェセルはよくわかっていた。この、何でも鸚鵡返しに訊き返してくる王子モーセは、決して愚かなわけではない。むしろ逆で、彼は非常に聡明なのである。
ねえネフェルジェセル。あなたは神々をどのように思い、なぜ、そしてどのように信仰しているのですか?
教えてください。ぼくはもっとたくさんのことを知りたいのです!
あはは!でも、ぼくが納得しなくたって、あなたには関わりがないでしょう?
あなたはあなたなりに納得して、あなたの信じる神々に仕えればよいのです。
でも、あなたはぼくに、あなたの信じる神々を信ぜよという。ならばあなたはぼくを納得させねばなりません。そうでないと、ぼくは信じられないから。ね?
モーセの瞳はわずかにも揺らぐことなくネフェルジェセルを射抜いた。彼の眼差しは静かで優しく、そして明確な強い意志をもっているようだった。いや、確かに持っていた。
?
……どうしましたか、ネフェルジェセル。お疲れですか?
お疲れでしたら、気分転換にお散歩にでも行きましょうよ!
モーセは年相応の少年らしい笑みを浮かべ、ネフェルジェセルの腕を取った。
ナイルの川沿いを歩きながら、ネフェルジェセルはぼんやり考えていた。
先ほどの、モーセの眼差しの強さについてだ。――そういえば、いつぞやハトシェプストさまも似たようなことを言っていたような気がする。あれはいつ、どこだったか、……そうだ、モーセさまを引き上げた日だ。
……貴方さまの母君、ハトシェプストさまが、貴方さまと出会われたときのことを思い出していたのです。
モーセは細くふうと息を吐き、ナイルの川べりにしゃがみこんだ。
この川の底には、幾人もの
ぼくの同胞が眠っていると聞きました。
むかし、ヘブライ人の男児を殺せという命令が下ったと聞いています。
ぼくはその頃に生まれ、そして運よく生き残った、唯一の男児です
運よく。……運というのは便利な言葉ですが、ぼく実はこの言葉があまり好きではないのです。
ぼくは、何者かの明確な意志によって生かされているのです。
ぼくが生き残ることは、あらかじめ定められていた。そう考えた方が、妥当だし自然なんです。
……そう考えているから、ぼくは今置かれている場で精一杯生きようと思っているんです。
何者か……何者かによって、あらかじめ定められていた、と仰せられるのですか?
はい。
……ネフェルジェセル。実のところ、ぼくは神様を信じているんですよ。
二人の間を、一陣の風が吹き過ぎていった。
モーセの髪は風に揺れ、柔らかく靡く。彼はまた、曇りない真っ直ぐな瞳でネフェルジェセルを射抜いた。
ぼくの信じている神は、あなたの信じる神々とは違う。ぼくは創造主を信じているのです
ネフェルジェセルが答えると、モーセは拍子抜けといった様子で目を丸くした。
意外な反応ですね!
ぼく、てっきり『なりません! あなたのお祖父さまは、……』とかなんとか言いだすものかと思っていました!
……いやはや。あなた様には敵わないと、そう思いましたので。
ネフェルジェセルは眉根を寄せながら強いて笑みを浮かべた。対するモーセは首を傾げる。
いいのです、モーセさま。あなたはあなたの信じる神に従って生きてください。
……私には、あなたを納得させることなどできませんから。
もう一度、ぱしゃりと水の跳ねる音。
モーセは川に手を浸していたが、やがて二、三度頭を振って立ち上がった。
手についた水滴を払いながら、彼は微笑んで言う。
ネフェルジェセルはモーセの前にひざまずき、恭しく頭を下げた。